聖フランシスコ・ザビエル

ザビエル渡来450周年にちなんで

エセイサバレナ・トマス

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ザビエル城
ザビエルが生まれたザビエル城
  1. ザビエル城
  2. ザビエルの名前
  3. パリでの一日
  4. 会の初代秘書
  5. ポルトガルでの10か月
  6. 航海
  7. ザビエルとゴア
  8. 海と島を渡って(1542年〜1549年)
  9. 日本人についてのザビエルの知識
  10. 大名への贈り物
  11. ザビエル神父の最後(アルペ神父による)

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@ ザビエル城

 ザビエル城は,13世紀の頃すでにナバラ王国の東端に建っていた.イベリア 半島にある他の城同様に,おもに回教徒軍の攻撃を防いで国を守るという戦略 上の目的で建てられた.

 15世紀に城はザビエルの祖父の所有となり,そこで生まれた母マリアは,城 を持参金のひとつとしてヨアン・デ・ヤスと結婚し,城はザビエルの父のもの となった.そして1506年フランシスコは6人兄弟の末子としてその城に生まれ た.

 1512年,スペイン軍が,フランスと戦うという口実のもとにナバラを占領し た.ザビエル家はもちろんのこと,ナバラ人の大部分は反対したが,3年後の 1515年,700年前からのナバラ王国は初めてスペインのものになった.翌1516 年,城は,ナバラ人の暴動を防ぐため,家族の住まいだけを残して,壊されて しまった.

 19世紀まで住居として使われていたが,1880年,当時の所有者であるビラエ ルモサの公爵婦人が,次の三つのことを決めた.1)城を改修してイエズス会に 渡すこと,2)城の西方に大きな教会を建てること,3)イエズス会の志願者を育 てるために小神学校を建てること.

 その結果,1895年に,改修された城に,数人のイエズス会の共同体が住み始 め,1901年に,新しいバシリカ(教会)の落成式が行われ,1904年に,小神学 校が開始された.その後しばらくして,イエズス会の共同体は,城から出て別 の家に住むようになった.

 30年ほど前,城はザビエルの時代と同じように復元され,最近では小神学校 の建物が,いろいろな集いや黙想会などに利用されるようになり,城そのもの は,巡礼の場となって,全世界からの巡礼者を迎えている.

A ザビエルの名前

 1529年にパリ大学の新教員の名簿に次の名前が載っていた."...Dominus Franciscus de Xabier...".この名前の変遷について,一言書いてみたいと思う.

洗礼盤
ザビエルが洗礼を受けた洗礼盤

 フランシスコ:洗礼の時(誕生日に)付けられた名前.13世紀のアシジの聖フランシスコの名前である.ザビエルの親族にあまり見られない.フランセスとも呼ばれた.

 ザビエル:生まれた家の名前.その家は最初にEtxaberriと呼ばれた.バスク語でEtxe(家)+berri(新しい),つまり「新しい家」という意味である.この名前は文書に多様な形で現れている.例えば,Exavierre(1217年),Chavier(1516年),Xabierre(1523年),Chamer(1536年),Chavyeresなど.

 本人は自分の名前をXabierと書いてシャビエルと発音し,現代のバスク人も同じように発音している.

 de:バスク人の名前がスペイン語で呼ばれるとき,ほとんどの場合この前置詞で導かれる(de Loyola, de Araoz, de Antxieta).それによって起源(家か町)を表すのである.聖人は,父の名前(de Jassu)も母の名前(de Azpilcueta)も取らないで,生まれた家(de Xabier)の名前を使用した.5人 の兄弟姉妹の内で,末子の本人だけがその城に生まれたのである.世界の歴史に残った名前:450年の間,ザビエルの名前がいろいろな表現に なったのは,時代や場所による言語の違いのゆえと思われる.スペイン語ではXabier, Xavier, Jabier, Javierなどの表現があるし,ポルトガル語や英語,フランス語ではXavierと言われてきた.ドイツ語ではXaver,イタリア語ではSaverio,ラテン語ではXaverius.

 日本語での表記について:当て字にされたこともあるが,仮名で書くときにXabierの名前ほど多様な書き写し方のある歴史上の人物の名前は,ほかにないと思われる.30以上の違った綴りが確かめられる.  現在ザビエルという言い方が標準になったので,教科書や新聞,百科事典などに出てくる普通の形になっている.

 カトリック教会では,ごく最近までラテン語から取ったザベリオという言い 方が祈りの本や聖歌集などで使われていたが,現代ではザビエルが普通になっている.珍しいことに山口教会での聖人の名前はサビエルになっている!

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Bパリでの一日

 ザビエルのパリでの主な出来事はよく知られている.1525年秋にパリに着い てから聖バルバラ学院で4年間哲学を勉強した.1526年にファーブルが,続い て1529年にはロヨラのイグナティウスが同室者となった.1530年にM.A.の学位 をとり,ボーベ学院で教え始め,その教授料を使って神学の勉強を修めること ができた.1531年にプランポナ司教区の高位聖職者になるために貴族であるこ とを証明する公文書を願い出た.

 1533年に世俗的憧れは霧散しザビエルは大回心した.1534年に6人の同志と ともにモンマルトルの丘の聖堂で誓願をたてた.
 以上のことは十分知られているが,大学生時代のザビエルの一日はどのよう なものであっただろうか.
 聖バルバラ学院,つまり哲学部の普通の日の時間割はおおよそ次のようなも のであった.
ロヨラとザビエル
パリでのロヨラとザビエル

  • 4:00 起床.朝の祈り.
  • 5:00 第1授業.
  • 6:00 ミサ後朝食(パンと水,時にぶどう酒).
  • 8:00〜10:00 授業,復習など.
  • 11:00 昼食: 肉食(小斎の日:魚),野菜,果物.食器なしで手で食べていた.
  • 12:00 忠告など,復習,テスト,その他.
  • 15:00〜17:00 授業,復習.
  • 18:00 夕食,その日の授業の復習など.
  • 20:00 夕の祈り(聖堂にて).
  • 21:00 消灯.

 時間割はきつくレクリエーションの時間があまりなかった.ただ,火曜日と 木曜日の夕方にゲームや散歩の時間があったようである.日曜日には授業はな かったが,有名な神父の説教や公の哲学的な論争,盛大な晩課の祈りなどが あった.

 ほかに教会の祝日の休日が少なくなかったし,春や夏の休暇が長かった.近 くの学生は夏休みに帰省したが,遠くからの人はパリに残った.ザビエルは 1525年に家を出てから二度と生まれ故郷に戻らなかった.

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C会の初代秘書

 広げた右手に十字架を持ち世界を巡るザビエルや,優秀なパリ大学の学生としてのザビエルの姿は容易に想像できるが,秘書として机の前に何時間も座っているザビエルの姿は想像しにくい.しかし,彼は,1539年6月から1540年3月まで,その秘書の仕事をしていた.

 パリの9人の同志は,勉学を終えてから,イグナチオの待っているベネチアに行くことになっていた.1536年11月に出発し,ドイツとスイスの敵の軍隊の間をかいくぐりながら寒い時期3か月かかって1537年1月にベネチアに到着した.そして病人の世話などをしながら,エルサレムへの巡礼の機会を待つ.続く3か月の間にローマへ巡礼を行ない,その後ベネチアで司祭に叙階され,初ミサをささげた.ただし,イグナチオだけは,後にローマで初ミサをささげた.

 一行は,聖地行きが不可能になったので,ローマに行き教皇パウロ3世の指示を仰ぐことにした.永遠の都での使徒的な働きが顕著であったので,いろいろな都市から呼ばれていた.

 各地に散らばって仕事をしようとしていた時に,すでに(有名なデリベラ ツィオ・パトルムの結果として)修道会をつくろうと決めていたので,イグナ チオは,ローマに残る者は毎週,その他遠隔地にいる者は毎月という具合に,頻繁に手紙を書くように求めた.ローマに残った者が,こうした手紙のやりとりの任に当たった.1539年6月ザビエル一人がイグナチオとともに残り,次から次へと届く手紙の返事を書くことが彼の仕事になった.こうして彼はイエズス会の初代の秘書となった.彼の健康状態がその当時勝れず,ローマに留まらざるを得なかったのである.

ロヨラの前のザビエルロヨラの前のザビエル

 当時ザビエルが書いた手紙は現在は残っていないが,ファーブル,ボバ ディーリャ,ライネス,アラオスたちが書いた手紙は今なお残っているものがある.イグナチオは,ザビエルを通して同志たちと連絡を取り続けた.

 フランシスコ・エストラーダの手紙には,ザビエルからの返事がなくて寂しいが,凍えるような寒さのために手がかじかんで書けないというのなら,震えずにペンが持てるように火で手を温めてほしいと書かれている.ザビエルの仕事は,各地の同志についてニュースを書き,暖かな交流を保つことであった. 父から受け継いだ資質に加えてきちんとした達筆のおかげで,細かなことやリポートに長けた有能な秘書ぶりを発揮した.これが,後々彼の大きな使徒職になった手紙を書くという使徒職の始まりである.

 彼は,亡くなる1552年に,バルゼオ神父あてに,「会の兄弟が居住するすべての所に,イグナチオに毎年忘れずに手紙を書くよう知らせるように.」と書き送っている.

 ザビエルは,リスボンとインドに向けて出発する数日前,総長選挙の投票用紙が同封された封筒を秘書として受け取った.リスボンに出発する前にシモン・ロドリゲスが出した手紙であった.

 1540年3月14日にリスボンとインドに発つ前の晩まで,彼は秘書の任に当たっていた.

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Dポルトガルでの10か月

リスボンに向けて出発するための準備は,ザビエルにとって1日だけであった.1540年3月15日にポルトガルの大使はローマを出て陸路でイタリア,フランス,スペインを通って目的地リスボンに着いた.ザビエルも随行員の一人として一緒に旅をした.インドに派遣されたもう一人のイエズス会員シモン・ロドリゲスは,船でポルトガルに着いた.

国王ジョアン3世は,二人の神父や会に加わったばかりの他の若者の活動を見て大いに喜んだ.ザビエルは霊操の指導や教会での説教を行ない休まず働いていた.3か月後リスボンから離れてパルマとアルメイリンに滞在した.

宣教師ザビエル

宣教師ザビエル

 ポルトガルに着いて間もない頃,ローマのイグナチオにあてた手紙に次のような文章がある.「こちらで私たちを知っている多くの人々は,私たちがインドへ行かないようにしようと努めています.彼らはここで告解を聞いたり,個人的に話しをしたり,霊操を指導したり,秘跡を授けたり,人々にしばしば告解をして聖体拝領をするように勧めたり,説教したりすることで,インドへ行くよりもこちらで活動する方が,より大きな成果を挙げられると言っています.」

 同じ頃の他の手紙には,次のように書かれている.「学院や私たちの家を建てたら良いと思う.会員が住むようになればこちらの人が喜んでその家を建ててくれるに違いないと思う.」

 国王を初めとして,皆が神父たちをポルトガルにとどめておきたいと思ったのも無理からぬことであった.ザビエルの親戚で,14歳年上のコインブラ大学教会法の教師マルチン・アスピルクエタもインドの派遣に反対する.彼は「ナバラの博士」と言われ,全ヨーロッパで有名な人であった.最初は偏見からかイエズス会に対する態度はあまり友好的ではなかった.ザビエルをイエズス会から脱会させようと考えた.インドの旅をやめさせてコインブラ大学に引っ張るつもりであった.定年になったら二人一緒にインドへ行くこともほのめかした.

 ザビエルの博士あての手紙が2通残っている.「私のことにつきまして日々の生活のすべてを知らせるようにとのことですが,もしお会いできる機会を設けてくだされば,たいへんうれしく存じます.なぜなら,こちらでは,イエズス会のことを私よりも詳しくお知らせできる者はいないからです....お手紙で尋ねておられることについては,人の世のならわしで,私たちの生活様式は,他の人々からは理解されずに,あれこれと取りざたされていることが多いようですが,偉大なる博士よ,他人は自分たちがよく分からないことを判断して,勝手にあれこれ言っているのですから,それについては私はあまり気にとめていません.」

 実際には二人は会わなかった.そして,後にナバラの博士はイエズス会の恩人であり友になった.

 シモン・ロドリゲスはポルトガルに残り,ザビエルだけがインドに行くこと になった.

 1541年4月7日ザビエルが35歳になった日に,インドに向かって帆船が5隻リスボンをあとにした.ザビエルと共に二人の若者が出発した.ミセル・パウロ司祭とマンシラス.このマンシラスは後にゴアで司祭となった.リスボンにいる間イエズス会の認可の知らせが届いた.

 3年後のコチンからの手紙に次のようにある.「主なる神がこの世においてなしたまい,日々行ないたもう限りない恩恵の中で,第一のもっとも大きな恩恵は,私があれほど望んでいたことを実現させてくださったことです.それは私たちの会の会則と活動方針の認可です.主なる神に永遠に感謝いたしましょう.」

E航海

 ザビエルが極東にたどり着くまでに何千マイルの航海をし,何か月の間船の上で過ごしたことだろう.しかしそれ以上に注目に値するのは,現代の船とは比べものにならないような船でザビエルが海を渡ったことである.

 35歳の誕生日である1541年4月7日にリスボンを後にして大海原に出航したが,それはおそらくザビエルにとって初めての海の旅であったと思われる.インドのゴアに着いたのは,1年1か月後の1542年5月6日であった.途中モザンビークで半年滞在を余儀なくされている.

大西洋の沖に出てから荒れた海のおかげで,船に乗っていたほとんど全員の人が船酔いに悩まされ,ザビエルも2か月間苦しんだ.ところが赤道近くになると今度は,なぎのために船が進まなくなり,ザヒエルが乗っていたサンチアゴ号も他の4隻同様に,5週間以上動けなくなってしまった.

 たくさんの病人が出て,死亡した人も少なくなかった.ザビエルは船長の テーブルで食事をするように勧められたが,船長たちから食物を請い求め炊事場で自分で料理し病人に食べさせた.出発前に権威と信用を保つために召し使いを一人提供された時にザビエルはそれを丁重に断って,「ひざまずいて洗濯したり,人に頼らないで自分で料理したりしながら隣人に伝えてこそ,かえって権威を得るのだ」と答えた.

 モザンビークにとどまらざるをえなかったが,「ここに滞在していた時に,多くの人々が病気にかかり,80人くらい死亡しました.私たちは病人の世話を引き受け,いつも病院に寝泊まりしていました.ミセル・パウロとマンシラスとは物質的なことの配慮で忙しく,私は絶えずすべての人の要求には応じかねるほど多忙でした」とゴアよりのザビエルの手紙に書いてある.病人の数があまり多く二人の同僚を島に残してザビエルはゴアに向かって2か月の船旅に出発した.

ゴアにあるザビエル像

ゴアのボンジェス大聖堂にあるザビエル像

 一つの疑問が出てくる.ザビエルは航海の間ミサをたてたであろうか.答えはノーである.なぜなら,船旅でのミサは禁じられていたからである.その理由は,まず,海の安定性の保証がないからであり,もう一つは,船酔いの人が多く,嘔吐する可能性が多いからである.17世紀ごろから航海でのミサが許された.日曜日や祝日に'Missa seca'(乾いたミサ)と呼ばれる式が許されていた.聖変化なしで,聖書朗読と説教と主の祈りだけのミサであった.当時の船には付属司祭がいたが,乗客に司祭がいる場合,乗組員としての司祭を省くことがよくあり,この時もそうであったようである.

 医者のサライバ博士は数年後に次のように書いている.「私はポルトガルからフランシスコ神父と一緒に同じ船で来ました.肉体的にも霊的にも慈善事業を行なっている神父の姿をこの目でみてきました.常に愛徳の業を行なったりキリスト教的な教えを伝えたりして,いつも喜んでいる人 の姿を見せていました.皆に優れた徳の人とみなされ,私もそう考えざるを得なかったのです」.

Fザビエルとゴア

 モザンビークからの2か月の航海の後,1542年5月6日にザビエルはゴアに着いた.ゴアには32年前からすでにポルトガル人が住んでいた.ゴアはインドの西海岸にあり,北のイスラム教と南のヒンズー教の間に位置していた.

ゴアにあるザビエルのお墓
ゴアにあるザビエルのお墓
 ザビエルは船から,立派な14の教会の建物があり司教座聖堂の高い塔がそびえる街の様子に驚いたことであろう.ポルトガル人のほかに2万人ほどの原住民の信者がいたが,フランシスコ会の修道者がその人たちの世話をしていた.

 教皇の使節であるザビエルのために立派な住まいが準備されていたが,ザビエルは病院に近い小屋に住んでいつものように病人や貧しい人の世話に出かけた.使い古したスータンの代わりに,絹でできた新しい衣服を作ってくれたが,綿の簡単なスータンでよいと断り,靴もまだ十分に履けると断った.

 ザビエルは,まもなく,人のためにキリスト教的な養成が何よりも必要であると考えた.ちょうどその時,後に有名になる聖パウロの学校が建てられ始めるところであった.イグナチオへの最初の手紙に次のように書かれている.「ソルボンヌ学院の2倍ぐらいの大きさです......6年もしないうちに,さまざまな言葉や国々,民族の人たちで,この学院に入ってくるものが300人を超すだろうと思っています.この学院がたくさんの人物を輩出して,数年もたたないうちに,信者たちの数を増やすであろうと,主なる神において希望しております.」

 創立者で学院の最初の院長であるディゴ・デ・ボルバはこれから来るイエズス会員に学校の経営を頼んだが,国王が聖パウロ学院を完全にイエズス会に渡したのは,1551年のことである.

 ゴアは,アジアの教会の中心であったので,東洋のローマと言われた.ザビエルの主な手紙はゴアから,あるいはゴアへの手紙であった.ゴアでの滞在はわずか4か月であったが,その町,中でも学校は,いつまでもザビエルの心に深く刻み込まれていた.

 ゴアと日本の関係は,1548年5月20日ゴアで初めて3人の日本人に洗礼が授けられ,また,ザビエルの日本からの最初の手紙はゴアあてであった.そして1552年4月イグナチオにあてたザビエルの最後の手紙もゴアからのものであった.この手紙の中に,どのような会員を日本に派遣すべきかが書かれてあった.

 現在のゴアの最高の誇りは,何といっても,1554年3月からザビエルの遺体がこの町に眠っているということである.17世紀にボヌ・ジェスス教会に墓が作られ,今日まで全世界の人々から崇敬されている.

G海と島を渡って(1542年〜1549年)

 赤道をまたぐザビエルの旅をたどることは簡単ではない.ザビエルは手紙で,インドのパラバ族(1543),西岸のコーチンや東岸のサン・トメ(1544),マラッカ(1545),アンボン(1546),モロタイ(1547),マラッカとコーチン(1547),それにゴアについて書いている.ゴアでは,ヨーロッパから着く新しい会員やインドで入会する会員の世話をしたり,ローマから届いた手紙を読んで「愛の会」と連絡をとることを楽しみにしていた.「マラッカ到着後,ローマやポルトガルから,イグナチオ,アラオス,ファーブル,ブロエ,ロドリゲスからのたくさんの手紙を受け取り,大きな慰めを受けました.読むたびごとに慰めを感じ,そして幾度も幾度も読んでいるうちに,私はそちらであなたがたとともにいるかのように,あるいは,親愛なる兄弟よ,あなたがたが私の所にいるかのように思われてくるのです.身体的にではないとしても,少なくとも精神的に.」

 ゴアにいるフランシスコ会の修道者がよく,「フランシスコ神父(ザビエ ル)は余りにも旅する人です」と言っていた.ザビエルは,「自分自身でその地方を訪ねてみなければ地元の人が必要としていることを知ることはできないと思う.」と答えていた.しかしながら,何千キロの旅をしたとしても,それぞれの場所に数か月滞在し,そこを離れる時は代わりの人を配置しておくのが常だった.

 初めて日本人に会ったことは,ザビエルの生涯の中でもっとも重大な出来事の一つであると言っても過言ではないと思う.ヤジローは殺人を犯して逃亡していたが,ポルトガル人の勧めで「聖なる人」に会うつもりでマラッカまで行った.しかしザビエルは留守だったので帰国しようと思った.嵐のために日本に帰ることができず,マラッカに戻ったところ,今度はザビエルに会うことができた.それは1547年12月7日であった.ザビエルが結婚式を挙げているところに友人のジョルジェ・アルバレスに連れられてヤジローが現れた.

   この初めての出会いについてザビエルはローマの会員に手紙を書いた.「ポルトガル商人たちとともに,アンジロウという一人の日本人が来ました......彼は私たちの教理を知りたいと熱望して,私に会いに来たのです......もしも日本人すべてがアンジロウのように知識欲が旺盛であるなら,新しく発見された諸地域の中で,日本人は最も知識欲の旺盛な民族であると思います.」

ザビエルとヤジロー
ザビエルとヤジロー(アンジロウ)
 ロヨラのイグナチオには次のように書いた.「私は内心の深い喜びを持って,日本に行くことを決心しました.日本人の間に私たちイエズス会員が生きているうちに霊的な成果を挙げておけば,彼らは自分たち自身の力でイエズス会の生命を持続してゆけるだろうと思います.」

 1548年5月20日聖霊降臨の祝日にゴアの大聖堂でアンジローと二人の仲間が司教から洗礼を授けられた.日本人が洗礼を受けたのはこれが初めてである.ザビエルはこの1年間忙しかった.バセイン,コーチン,コモリンなどを訪問した.どこでも大歓迎を受けたが,ゴアでの働きは膨大であった.

 1549年4月15日,ザビエル,コスメ・デ・トレス,ジョアン・フェルナンデ スそして3人の日本人は,ゴアを後にして日本へ向かって出港した.1か月マラッカに滞在して6月24日に町中の見送りを受けて,250トンの船に乗った.鹿児島にたどり着くまで,2か月の航海が待っていた.

H日本人についてのザビエルの知識

 ザビエルが日本に滞在したのは,わずか2年数か月であった.日本から出した手紙は5通だけだったが,すべて鹿児島から出した手紙である.日付は11月5日になっている.

 5通の手紙の中のゴアの同僚あての手紙が一番長く,日本人についての報告は驚くほど細かく正確である.日本に着いてから3か月足らずで,どのようにしてその知識を得たのだろうか.

 2年前の1547年12月に,ザビエルは友人のジョルジェ・アルバレスに日本について文書で報告してくれるよう頼んでいた.このアルバレスは,ポルトガル人の船長として,1546年日本を訪れたことがあり,日本人のヤジロウをマラッカにいるザビエルのところまで連れて行った人である.彼の報告の内容は正しく,主に地理的な資料,日本の自然や建物,日本人の習慣などに関するもので,ザビエルは自分の手紙と一緒にローマに送っていた(1548年1月).

 後にやはりザビエルの依頼で,ランチロッティ神父もヤジロウから聞いた話に基づいて,もう一つの報告書を書いた.ザビエルがイタリア語からスペイン語に訳して,1549年1月,ローマのイグナチオへ送っている.内容はほとんど日本人の宗教(宗派,僧侶,僧院)についてである.インドの総督も,ガルシア・デ・サ,ランチロッティ神父に,ヤジロウから聞いた日本の政治や軍事的な報告書を頼んだ.

 つまり,ザビエルは日本渡来前に,日本と日本人についての知識を少なからず持っていた.しかし,鹿児島からの最初の手紙(昔からマグナ・カルタとよく言われている)と,上に述べた報告書には,大きな違いが認められる.すなわち,手紙にはザビエルの心がそのまま表れている.ザビエルは,外面的なものよりも初めから人を考察の対象としている.

  

 「日本についてこの地で私たちが経験によって知り得たことを,あなたたちにお知らせします.第一に,私たちが交際することによって知り得た限りでは,この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり,日本人より優れている人々は,異教徒の間では見つけられないでしょう.」ザビエルは,多くの日本人がキリスト教の信者になるという希望と喜びで一杯であった.「私があなたがたにお知らせしたい唯一のこと,それは主なる神に大きな感謝をささげていただきたいことです.この島,日本は,聖なる信仰を大きく広めるためにきわめてよく整えられた国です.」これは,後から日本に来る宣教者の霊的,知的,それに肉体的準備になるような経験に基づいた結論である.

日本でのザビエル
日本人にキリストについて述べるザビエル
 日本から出した手紙は,2年間の間ほかにひとつもない.1552 年1月にインドへ戻ってから書いた,ローマの同僚あての長い手紙が残っている.鹿児島,都,豊後,そして主に山口での活動についての手紙である.

 日本に行く人は困難とともに霊的な慰めも得るという.その手紙の最後の言葉からは,ザビエルの深い心がうかがい知れる.「日本についてはまだたくさん書くことがあって,尽きません…….私はこれほど親しく,これほど愛している神父たちや修道者たちに手紙を書いているのですし,またもっとも親しい間柄の日本の信者たちについて書いていますので,あり余るほど書くことがあるのですけれど,ここで筆をおきます.」

 インドで作成された報告書よりも,ザビエルの手紙の方が,ヨーロッパの大学や宮廷でそれまで知られていなかった民族について,いきいきと物語っている.聖人の手紙を読んでザビエルと同じ道を選んだ青年は,この450年の間に少なくないと認めざるを得ない.

I大名への贈り物

 1950年6月のことである.私は神学生としてドメンザイン神父のもとで山口の教会に滞在していた.ある日のこと,県知事の秘書の人がやってきて,近いうちにスペインに行くアルペ神父(当時長束の修練長)にお土産にと,小さな箱を持ってきた.事実アルペ神父がイエズス会代表者会議のためにローマに行くのは,戦後初めてであった.箱の中には置時計が入っていた.秘書の人は,「初めて日本に歯車の時計を持ってきたのは,ザビエルでした.現在山口で作った時計をスペインの人に見せてもらいたい.」と言った.

 ザビエル自身は,ローマへの手紙で次のように書いている.「神の御教えを宣べ伝えるためには,ミヤコは平和でないことが分かりましたので,ふたたび山口に戻り,持ってきたインド総督と司教の親書と,親善のしるしとして持参した贈り物を,山口侯にささげました.この領主は贈物や親書を受けてたいへん喜ばれました.」後の手紙によれば「高価なものであった」そうである.

 ミヤコの天皇の代わりに,山口の大内義隆に贈物をささげた.インドの総督の大使として絹の着物を着て大名を訪問した.日本と外国からの資料から,その時にささげられた贈物について詳しく知ることができる.その数は13であった.まず,時計.フロイスによると「上手にできた」物であった.1551年に書かれた「義隆記」に,さらに詳しく書かれている.「十二時を司るに夜昼の長短をたがえず狭小の声」.その時までの日時計には不可能なことであった.

 楽器1台(クラビコード?)と,きれいに彫り込まれた三つの筒のついた火縄銃も入っていた.「義隆記」に,眼鏡について「老眼の鮮やかに見ゆる鏡のかげなれば」と,また,望遠鏡の説明については,「ほど遠けれども曇りなき鏡の二面そうらえば」と書かれている.

 それに付け加えて,きれいな錦織とスペイン布やポルトガルの葡萄酒,書物,絵画,茶碗などもあった.

 大名は「私たちに,返礼としてたくさんの物を差し出し,金や銀をいっぱい下贈されようとしましたけれども,私たちは何も受け取ろうとしませんでした.それで,もし私たちに何か贈物をしたいとお思いならば,領内で神の教えを説教する許可,信者になりたいと望む者たちが信者となる許可を与えていただくこと以外に,何も望まないと申し上げました.」大名は許可ばかりではなく,「学院のような一宇の寺院を私たちが住むようにと与えてくださいました.」

 日本でキリスト教が山口から広がり始まったことは,地元の人にとって誇りである.19世紀の終わり頃,ビリオン神父は,長年の研究の結果,日本のイエズス会の最初の家があった正確な場所を発見した.

 1926年にその場所に記念碑が建てられた.山口を訪れる人は,最近できた記念聖堂とともに,「学院のような寺院を私たちが住むように大内義隆が与えてくださった」場所も訪問するべきである.石碑の十字架の真中に青銅に刻まれたザビエルの肖像がある.その記念碑を眺めれば,450年前に同じ場所で日本人に初めてキリストのことを教えているザビエルの姿を思い浮かべるであろう.

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Jザビエル神父の最後(アルペ神父による)

 ザビエル渡来400周年の時(1949年),アルペ神父は,日本語に訳された聖人の主な書簡を岩波文庫から出版した.日本語での最初の出版から50周年にあたって,第2巻の終わりの「ザビエル神父の最後」という題で書かれたエピローグを筆写させていただきたいと思う. (T.エセイサバレナ)

死を迎えるザビエル
死を迎えるザビエル
ザビエル神父の最後

 三洲嶋のポルトガル人は,11月13日に小舎を焼き払い,神父の最後の書翰と,除名されたフェレイラとを乗せて,東へ向かって出発した.  三洲嶋は急に淋しくなった.残っているのは,シャムへ往く筈のアラガオのジャンクとサンタ・クルス号だけである.冷たい北風が吹き始めると共に,神父の糧食が欠乏してきた.忠実なアントニオを,一度ならずポルトガル人の処へやって,パンを乞わしめなければならなかった.その内に11月19日がきた.

 併し20日になっても,21日になっても,シナ商人は姿を現わさなかった.そして月曜日の朝に至って神父が病気になった.アントニオが頻りに勧めるので,サンタ・クルス号へ移った.ここにおれば,看病もゆき届くし,飢餓の心配もなかったからである.

 処が船の動揺が病状を大変悪くした.それで翌朝には,再び海岸に帰って来た.神父の顔は,熱で燃えるように赤かった.アラガオがこれを見て,神父を自分の小舎に引き取った.そしてその次の日には,刺絡を施してみたが,何の甲斐もなかった.それのみならず食欲が無くなり,呼吸の困難が起こってきた.併し神父は静かに寝ているだけで,苦痛を訴える言葉は,ただの一言も洩れてこなかった.ただ高熱の結果として,うわ言を聞くことができた.顔はどこまでも朗らかで,輝く眼を天に向け,恰も説教するかの如く,5時間も6時間も懸命に声高く,いろいろの国語を以って話し続けた.従ってアントニオには,神父がラテン語で,「イエズス,我れをあわれみ給え.」と言ったことだけしか理解することが出来なかった.「イエズス」の聖名は,頻繁に聞くことが出来た.八日目の日曜日に至って,神父は意識を失い,ものも言わなくなった.それが再び快復したのは,木曜日のことで,それ以後はまた「イエズス,我を憐れみ給え,聖母マリア,我を顧み給え.」という言葉の反復されるのだけを,了解することが出来た.

 金曜日の夜から病状が悪化してきた.アントニオは,もう臨終だと思ったので,夜明かしをする覚悟を決めた.氷のように冷たい風は,藁小舎の隙間から,遠慮なく吹き込んだ.神父は,何の悶えもなく静かに横たわり,アントニオが持って来た十字架ばかりを,じっと見詰めていた.

 夜中が過ぎ朝が近くなった頃,此の忠実なシナ人は,臨終の蝋燭に火を点じて,神父の手に持たせた.かくて,フランシスコ・ザビエル神父は,何の苦痛の様子もなく,イエズスの聖名を呼び奉りつつ息絶えた.時に西紀1552年12月3日土曜日の午前2時頃のことであった.

 イエズス会師でバスク出身であるエセイザバレナ・トマス神父は、長年日本で宣教活動を続いていらっしゃるベテランです。上智大学でラテン語、哲学などを教えてから、現在上石神井イエズス会神学院で研究をなさっています。この連載をザビエルの日本到来450周年記念として書かれて、日本イエズス会管区便りに出版されました。この記事に関するご感想をエセイ神父へどうぞうtomas-e@hoffman.cc.sophia.ac.jp

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