笠井潔「群衆の悪魔 デュパン第四の事件」講談社、1996


 群衆の中での完全犯罪をもくろんだ一発の銃弾が七月王政を崩壊させた。二月革命の混乱のさなか、社交界随一の美女は宙空から湧き出た毒薬が滴り落ちたワインを飲み、密室の浴槽では全裸の小間使いが胸を抉られ、さらに黒ミサの儀式で高級娼婦が殺される。犯人は、天才と狂気の間を揺れ動く大作家バルザックか、いかなる体制にも反旗を翻す新聞王ジラルダンか、それとも民衆のために犠牲をいとわない革命家ブランキなのか。事件の捜査に乗り出す勲爵士オーギュスト・デュパンに協力する若き無名批評家シャルル・B=デュファイスは、数多の苦難と試練に襲われながら、いつしか絶対権力に対峙する言葉の芸術を通してモデルニテの美学を確立する詩人ボードレールへと変身していく。

 純粋群衆が誕生する19世紀の首都パリを舞台にして、希有な犯罪の現代的特性を追求するこの小説は、堅固な語りの構築と意外な筋立ての巧みさで読む者の息をつかせない。魅力はこれにとどまらない。権力者とブルジョワ、細民が交わる出来事の関連を浮き彫りにして歴史の流れが鮮やかに見えてくる。社交界のお気に入りのモンマルトル大通りから、雑多な人種の集まる犯罪大通り、市門の外で貧民が乱痴気騒ぎをする町クールティーユ、新時代の神である商品を崇拝する信徒であふれるパサージュなど、パリの街区の描写と説明は自ら都市を遊歩しているかのような気分にさせてくれる。著者の収集した知識が活き活きと伝わるのはこの他にも、フランスの政治諸党派の肌合いの違い、香水の流行と衛生学の発展、民衆の生活や軍隊の機構、思想と文学思潮の変遷の意味など数知れないほどにある。蘊蓄が多すぎる嫌いはあるが、誰にも、その趣味に応じて、大きな楽しみをもたらしてくれる作品である。

あなたにお薦め:

・虚実入り乱れる探偵歴史小説の醍醐味を味わいたい人
・19世紀フランスの政治社会と人々の暮らしを<体感>したい人
・ボードレールのファン、あるいはバルザックのファン
・現代思想の基底にある美学や文学理論を時代背景の中で理解したい人
・文学史の知識を異なる形で復習したい人
・卒論やレポートで19世紀フランスの社会や文化の諸相と関わるテーマを扱うには、 この小説の巻末にある参考文献リストは取りあえずの役に立つ


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