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1:見学手続き 2:いざラヴィニウムへ
3:現場の現況 4:13祭壇
5:フランチェスカの説明 6:遺跡の考古学的知見
7:伝アエネアスの墳墓 8:説明するロザンナ
9:墳墓の歴史的意義 10:伝承の成立
11:出土品の収蔵庫見学 12:イタリアの底力




1:見学手続き
 1997年9月19日、ポンペイ・ナポリ方面からローマに無事帰着。
 20日10時から、ラヴィニウムLavinium方面に。我々はレンタカー借りて、定石通りラッツィオ州のソープリンテンデンツィァ(考古学遺跡監督局)の許可をえて、行きました。
 その手続きをしてくれていた留学生のボロンコ君によると、ず〜〜〜〜と電話にだれも出なくて(まあ、こんなもんです、イタリアは。まだバカンスぼけ)、ようやく連絡とれたのが2日前。でも担当者がいないというので、FAXで要請を送っておき、20日8時半事務開始と同時に「今日の見学の許可証よこせ〜」とボロンコ君は先発。この許可証がないと、現地の鍵管理人は絶対鍵を開けてくれないとのこと。
 運転手は、NIFTY-Serveの FUEROのイタリア会議室で知り合ったEさん。集合場所が在イタリア日本大使館前で、という話でしたので、あれぇ、という感じでしたが、ごあいさつしての名刺交換では、おっとっと一等書記官という畏れ多い肩書きの方でありました(農水省より出向。38歳独身! 前回の派遣国はカナダですので、ばりばりの国際派エリートみたい)。でもたいへん気さくな方だったので、一安心。たのしい一日を過ごすことできました。
 
 合流場所にやってきたボロンコ君の話では、昨日の電話とうってかわって管理局のおばちゃんは「だめ」の一点張りだったそうですが、発掘を担当している女性研究員Annalisa Zarattiniがあらわれてからは、すぐに話が通りだし、現地に二人いる女性隊員の1人が対応するだろう、そして、誰にも見せていないデポジット(発掘品保管所)も見せてあげよう、という破格の話になったそうです。そして、人数分の発掘報告のパンフレット(a cura dei Annalisa Zarattini,L’area archeologica di Pratica di Mare,in:Ministero per i Beni Culturali e Ambientali, Soprintendenza Archeologica per il Lazio,1995,Pp.58)も無料でくれました。これもボロンコ君の粘りのおかげです。感謝。
 



2:いざラヴィニウムへ
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写真1「周囲の風景、およびボロンコ君とフランチェスカ」

 レンタル(一日借り上げで18万リラ)の4人乗りフィアットはやや馬力不足ですが、行程は順調にすすみ、11時には、遺跡近くの集落プラティカ・ディ・マーレで、地主派遣の労務者2名と合流し、発掘地点の通称「アエネアスの墓」と「13祭壇」に向かいます。自動車道路を農道に入るところで鉄柵の鍵を開け、ちょっと農道を進んで、また柵があって鍵を開けます。周辺の風景は、北から南にゆるくくだった開けた耕作地で、端境期なのでしょうか掘り返された土ばか り目につきます。そして、その南西の果てにはかろうじてテュレニア海がきらきら光っているのが見えます。目測で500メートルでしょうか。写真1「周囲の風景、およびボロンコ君とフランチェスカ」参照。方向は南のテュレニア海を望む。



3:現場の現況
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写真2「城壁遠望」

 待つことしばし、農道を歩いて歳の頃20代後半から30代前半とおぼしき女性2人がやってきました。あとからわかったのですが、発掘地への地代支払が遅れているとかで地主ともめていて現在発掘ができない状況なので、それで地主からも監視人がきたようなことでした。それで、セラミックの塑像がたくさん出てきた地点や、直線で200メートル向こうに見えていたローマ時代の城壁には近寄ることもできませんでした。めぼしい遺跡は130メートル四方に入っているのですが、これが全部私有地なのです。したがってミネルヴァ神殿もパスでした。写真2「城壁遠望」参照。方向は、北を臨む。



4:13祭壇
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写真3「13祭壇全景」

 最初に「13祭壇」へ。それはオレンジの屋根の東南から北西に長細い建物で覆われていました。鍵を開け、中にはいると、なんだか南米の祭壇に似た形をした広さ1・5×2メートル、高さ0・8メートルくらいのものが、ずら〜〜〜っと一列に並んでいます。その数13。写真3「13祭壇全景」参照。



5:フランチェスカの説明
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写真4「最古の祭壇」

 伊英で説明がある折り畳み式のパンフがひとつ、ちょっとくしゃくしゃになって落ちていたので、有り難く頂戴しました(^_^;;。これは1週間前までおこなわれていたPomezia市主宰のENEID2000記念行事での、Laviniumのガイド付き見学会の残り香でしょう。実は、これもNIFTY-Serveの FREKIWのローマ史会議室に書き込まれているトラさんからの情報で知ったのですが、トラさんともう1人が我らの1週間前に折良くこの説明会に参加できていたのです。
 ちょっと余談ですが、こういう催しをイタリア各地の有志考古学団体(グルッポ・アルケオロジコ)が盛んに行っており、私もローマで先週土曜日にナヴォーナ広場(旧ドミティアヌス競技場)の地下遺跡見学会(予約不用。会費1万リラ、夜9まで時から10時)に参加。通常立入禁止で建造物の影になって見れない遺構をばちばちと写真にとって、ご満悦でした。
 こういった情報がInternetで流されていると、便利なんですが、イタリアはなかなかそうはいかないでしょう。 
 フランチェスカが機関銃のように説明を始めます。祭壇のうち最古のものは3つで、前6世紀半ばに作られた。材質は緻密なトゥーフォ。コの字型の祭壇は赤く塗られ、東を向いているとのこと。コの字型はギリシア的要素だが、側面の曲線ラインは古イタリア的で、その折衷がめずらしいとか。祭壇は基壇部分のみ残っていて本当はもっと高かったそうです。写真4「最古の祭壇」参照。



6:遺跡の考古学的知見
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写真5「祭壇中央部」

 5世紀末にさらに5つがちょっと離れた場所に作られ、以下、間を埋める形で、4世紀には2つ、3世紀に3つ作られた。どの神に捧げられたものかは不明であるが、城門から海に向かう道に面しているので、集落にとって重要な意味を持っていたと想定されている。写真5「祭壇中央部」参照。



7:伝アエネアスの墳墓
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写真6「墳墓全景」

 「アエネアスの墓」は黒い鉄骨の天井で覆われた吹きさらしに、トゥーフォの土台石のみがありました。写真6「墳墓全景」参照。



8:説明するロザンナ
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写真7「説明するロザンナ」

 今度の説明はロザンナの番です。同じように、機関銃のようにしゃべり始めます。こういう話し方は、口述試験で育ってきているせいのようで、とにかく知っている知識をとうとうとご披露におよびます。さすが演説と修辞学の世界! 右側に座っているのは、フランチェスカ。写真7「説明するロザンナ」参照。



9:墳墓の歴史的意義
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写真8「墳墓遺構」

 ここで一番古い層は石で囲われた墓で、これは紀元前7世紀のもの。土盛りがされた簡素な墳墓だったようです。それが前6世紀には供物で覆われ、前4世紀には道に面した部分の土盛りが削り取られて、前室および玄室、それを仕切るトゥーフォ製のフィンタ・ポルタ(門を型どっているけど、実際には開けれないニセの扉)などで、霊廟の体裁をとります。写真8「墳墓遺構」参照。
 この状況から、この場所は、最初、おそらく首長クラスの墓だった、それが、同じく集落の城門から海に向かって伸びる道に接しており、集落にとって重要な祭祀場所になっていったと想定されています。



10:伝承の成立
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写真9「旧都市遺跡遠望」

 アウグストゥスの時代に、ハリカルナッソスのディオニュシオスがやってきて、件の墳墓を「アエネアスの墓」と自分の書の中にしるし、それがウェルギリウスなどにも採用されたというわけ。写真9「旧都市遺跡遠望」参照。



11:出土品の収蔵庫見学
 これで現地視察を終わり、地主さんの労働者と別れ、我らは集落の城門をくぐります。すぐにバールがあって、なんと結婚式のようでした(どうしたことか、今回の旅行ではよく結婚式に行き当たります。土曜日のせいかな)。
 さらに奥に進んでリストランテがあり、そこで停車。前の倉庫(マガジーノ)に導かれます。2階に昇ると、そこは150人収容の教室ほどの広さの、発掘品の整理と修復作業場で、所狭しとセラミック製品(陶器)が置かれてます。土器破片のジクソーパズルもありました。ここではすばらしい立像をたくさん見ました。一見してエトルスキとわかるもの2体。彫りが深くギリシア的容貌のもの、スペインのフェニキア人像に似たもの、顔面に赤い顔料がのこっているもの、足に履いたブーツやサンダル、首にかけたネックレスの様々の様式がわかるものなど、など。私がこれまで見てきた古イタリアのものはギリシアと比べると輪郭がぼんやりして稚拙でしたが、ここのものはかなり緻密な出来映えで、新鮮な感動すら覚えました。
 しかも、これらのほとんどは、 「ex voto」すなわち祈願成就の感謝奉献物だと説明をしてました。しかし、立像は高さ120・30センチあるものが軽く30体はあって、こんな大きなものが奉献物なのか、と驚いた次第。私には神像としか見えなかったのですが、神像としては唯一ミネルバ女神像のみ発見されているそうです。その神像は現在、ローマの修復研究所に保管されていて、実見することはできませんでしたが、写真で見た限りでは、目がでかくて、インドのバラモン神像かと見まごう容貌、兜とか甲冑の感じがあたかも秦の始皇帝陵の兵馬俑坑の意匠に似ていて、地中海のものにしてはちょっと奇妙な感じがしました。ともかくそれらはすべて、前3世紀の末に大きな窪地に捨てられ、そこで発見されたものですので、そのころ集落になにかが起こったと想定されています。
 今は耕地の中のようですが、そこにあった広場forumからはアウグストゥス、ティベリウス、クラウディウスの3皇帝の純白の大理石製の頭部も出土してまして、これは写真に撮らせていただきました。これらの発掘品の整理には膨大な時間が必要で、絶望的なほどだと。喜びに満ちた苦渋でしょう。
 



12:イタリアの底力
 午後2時頃にそこを辞しました。彼女らの熱心さには脱帽です。きらきら輝く目と気迫のこもった機関銃のような言霊は、日本のどこかの大学に蠢いている無気力・無感動・無関心な学生諸君からは絶えて感じることができないものでした。その彼女らは、大学院を終了して、しかし就職先はなく、ほとんど無給で発掘活動に従事しつつ博士論文を準備している、いわば失業者状況にあり、けして将来に明るい展望があるわけではないのです。しかも就職は絶望的で日本の比ではありません。私は、1国の人力の底力とはこういうものかもしれない、イタリアはまだまだ捨てたものではない、と感動すると共に、日本はこれからどうなるのだろうかと考えざるをえませんでした。
 同行した3年生のK君には「日本の専門研究者でさえ、ここを何人見ていることか、心すべし」と説教を垂れたことでした。
 



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