橋口倫介先生追憶

以下は、2002年11月25日の 橋口倫介先生「命日五十日祭・感謝の祭儀・納骨祭」および「橋口倫介先生への感謝の集い」で、ご遺族が配布された冊子を、許諾をいただいて転写・編集したものです。

先生のご略歴・ご業績関係について、詳しくは『上智史学』第37号、1992年11月、17〜26ページの「橋口倫介先生古希記念」もご参照ください。

 

橋口倫介覚書抄 JOHN TOMOSUKE HASHIGUCHI Memorials

橋口倫介覚書抄

海軍第十四期飛行予備学生

橋口 倫介

青山師範付属小「岡本学級」(昭和九年卒)の同級生で海軍に入ったのは、兵学校一、十三期予備学生二、主計科短現一、十四期予備学生一、一般四期予備学生一、下士官一の七名であったかと思う。

唯一の「本ちゃん海軍士官」は海兵六十九期の古川精吾中尉である。この古川君は戦後私の親友になった吉田禎吾君(一般四期予備学生、文化人類学者)の従兄弟に当たり、この二人の孫の祖父・吉田孟子という珍しい名の予備役海軍少将は、日露戦争で、後年終戦内閣の首相となる鈴木貫太郎が艇長だった水雷艇乗組みの青年将校として大活躍した海の男であったそうだ。精吾君はその薫陶を受けて海軍兵学校を目指したのであろう。

もう一人の同級生で横浜の専門学校から予科練に入り、開戦後ベテランのパイロットになった川田要三君はあのミッドウェイ開戦時、偶然古川中尉と乗艦が同じで、二人は出撃直前に短時間言葉を交わしたと、後日伝え聞いた。川田上飛曹はこの空戦で未帰還となり、クラスの最も早い戦死者になった(昭和十七年六月五日)。古川君は航海科の士官で、消耗の激しい飛行機乗りではなかったが、この二年後、青森県沖の太平洋上で作戦中、乗組みの駆逐艦が米潜に魚雷攻撃されて沈没し、二人目の戦死者になった(昭和十九年七月七日)。川田、古川両君の遺品からは何も書き遺された文章は見つかっていない。


クラスメートの残りの五人は現存であり、戦後の昭和二十三年に他の生存者にもすべて連絡をとり、岡本先生のお宅に八人集まって会合(「琢磨会」)を開き、皆で各自の戦時体験などを語り合った。その十三年後、先生の還暦祝い(昭和三十六年)が催されることになり、記念出版物を編纂して先生に献呈する企画がスタートした。付属時代からストーリー・テラーとして創作の才を認められていた後年のベストセラー作家・山本七平君が幹事役を引き受け、戦争体験の報告を軸にした自伝的回想文の募集を始めた。

理科系で徴兵は免れた柳瀬睦男君はイエズス会の修道士になっていたが、この企画には最も熱心に協力し、編集方針の模範原稿になるような寄稿者であった(後年、柳瀬神父の著作集に集録された)。残念ながら山本七平君の『下級将校の見た帝国陸軍』(朝日新聞社、昭和五十一年)に優るとも劣らない共同執筆書として刊行されるはずであった私たちの幻の名著は、先生への献呈を果たせず、未完のまま今日に至っている。

平成元年になって、海軍主計科短現十一期で編纂された『士交会の仲間たち』に寄稿した森大作君の「『木曽』の奮戦・台湾人張君」と題する従軍記のコピーが、私たちの企画への応募という意味もあってか、クラス・メート全員に配布され、私もその寄贈の栄に浴した。また六年前の平成八年、「琢磨会」の席で一般四期予備学生だった梅岡総治君が、戦時中呉航空隊で対空機銃指揮官として奮戦中、グラマンの地上掃射を浴び足に負傷した時の体験を初めて語ってくれた。なお、十三期予備学生の一宮栄一郎・川田敏郎両氏からも折りに触れて戦争体験を聞いている。

海軍に入って生き残った十四期予備学生一名である私は、今年(平成十四年)ほとんど治癒不能の心臓疾患から奇跡的に回復した幸運に感謝しつつ、あの企画の幹事役を果たさなかった無責任に対して謝罪する心境から、この拙い〈短文〉を草した。旧友諸兄のご笑覧に供したい。


予備学生時代

昭和十八年十二月九日、大学生活一年半の仮卒業の身で、臨時徴収現役水兵に採られ、「鬼を欺く…」とか「地獄の…」などと新兵の心胆を寒からしめていた海兵団の営門を潜り、自由な娑婆から惜別した。凡そ軍隊や強制収容所などの門というものは、ひとたびその下を通過した者を捉えて、決して元の世界に返さない「地獄の門」なのである。岩波文庫で読んだダンテの『神曲──地獄──』第三曲は、その門が「我を過ぐれば憂いの都……永遠の苦患……あり、汝らここに入るもの一切の望みを捨てよ」と恐ろしい呪いの言葉を吐く。

その言葉どおり一切の望みを捨てさせられて、私の「特攻隊員」への第一歩がはじまった。六ヵ月しか先任でない十三期予備学生四七〇〇名がわれわれの進路をふさいでいるので、「カラス(階級章無し)のジョンベラ(水兵服)」姿という冴えない二等水兵生活六十日を武山海兵団で過ごす間に、「飛適審査」という奇妙なテストを含む予備学生採用試験を受けた。「大東亜戦争」の消耗品たる飛行機搭乗員を大量に補充する予備軍として採用する予備学生の飛行適性を判別し、その合格者を土浦航空隊へ送り込むシステムである。

この制度は創設時(昭和九年)「海軍航空予備学生」と称し、第一期五人から各期五十人程で十二期まで数百人の飛行科将校が養成されていた。私たちはその伝統を引き継ぐと同時に、戦争からの至上命令による質・量両面の変貌を遂げさせられた「飛行専修予備学生」に任用されたのである。戦後、生き残って復員した者を会員とし、熱心な世話人が平成二年に作成した『海軍第十四期会・飛行専修予備学生会員名簿』によると、三、三二一人が登録されており、その内四一一人が戦死または殉職したとある。戦死のほとんど全部が特攻であり、その散華の地点は南西諸島となっている。

筑波颪の吹きつのる昭和十九年二月一日、第十九連合航空隊司令長官・久邇宮殿下の起立される号令台前に「伺候」した私たちは予備学生の命課を受け、爾後四ヵ月弱ずつの三教程(基礎・中練・実用機)の訓練に入り、夏は黄塵万丈・炎熱の北関東の飛行場に汗を流し、あるいは冬、茫漠たる百里原の草原で九十九里浜の潮風に吹き晒され、漸く昭和十九年十二月二十五日、念願の海軍少尉任官に漕ぎ着けるのである。

この間、戦闘機・攻撃機・爆撃機・偵察機等の専修、艦上・陸上・水上の発着場別機種の選択、各機種ごとの制式別等がきまり、例えば「零戦乗り」とか「一式陸攻搭乗員」とか、私のように「急降下爆撃操縦員」といったパイロットのアイデンティティーが形成される。

海の彼方では米軍の反撃を阻止する熾烈な日本軍の玉砕戦が続いている。昭和十九年後半は敗戦につぐ敗戦で、戦艦・航空機・搭乗員の痛ましい損害が累積される。六月マリアナ沖海戦、七月サイパン島失陥、十月レイテ沖海戦、そして十月二十五日、そのレイテの米艦に対する日本海軍最初の「特攻」が発動されたのである。これらのいわば「負」の戦況は国民の耳目から秘匿され、虚偽の「大戦果」をあげた勝利の如く報道され、私たち部内の者とても正確な戦局の推移を把握し得なかった。

私自身がその要員となる特攻隊についても、在マニラ第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将が、戦局打開の最後の作戦指導として発想し、提案した海軍だけの上層部からの命令であったという認識しか持っていなかったが、日ならずしてそれは日本軍の総ての作戦に共通する用兵手段と化していった。

戦後の一著作によると、大西中将自身が当時「こんなこと(特攻)をせねばならないというのは、日本の作戦指導がいかにまずいか、ということを示しているんだ。……これは統率の外道だ」と部下の参謀に言っていたことを知った(『特攻──外道の統率と人間の条件』、森本忠夫、文藝春秋、一九九二年)。

「外道の統率」によって九死に一生も無い「十死零生」の自爆フライトに飛び立たされるパイロットの心境は、スケープ・ゴートとして捧げられた諦念と、スポーツマンシップを無視させられる一種の不満のコンプレックスでもあろうか? 最初の特攻隊「神風特別攻撃隊・敷島隊」の指揮官・関行男大尉(海兵七十期)は出撃直前に飛行場で出会った取材記者に、その率直な心中を、彼らのような優秀なパイロットを体当たりに使って殺すとは日本もおしまいだ、と語っていたと伝えられている(前掲書)。


明けて昭和二十年、敗戦の深淵に向かって転げ落ちるように「帝国海軍」は全軍をあげて特攻隊編成に転換した。二月末、練習・教育航空隊は全廃され、その教官・教員は任務を解かれると同時に特攻出撃命令を受け、四月六日の第一号以降順次発動され続ける「菊水作戦」(六月二十二日の第一〇号まで)に投入されて不帰の客となった。私たち十四期予備学生を教えた「指揮官付」桑原知大尉以下海兵七一・七二期の教官を筆頭に、十三期予備学生出身の最後任少尉の教官まで根こそぎ出陣させられた。

彼らを見送りに「帽振れ」をした学生・練習生たちの最初の出撃はその六日後から始まる。優秀な操縦技能で知られた、元六大学リーグの有名な野球選手だった十三期の某少尉は出撃の前夜、特別配給の一升瓶の酒で別盃を交わすガンルームの一隅で、誰に言うともなく「俺を特攻なんかにしやがって、誰が豚みたいに殺されてたまるか」と欝憤を漏らすのを耳にした十四期の少尉が何人もいる。

十四期の特攻出撃では私の同室の熊井常郎君(慶応大学出身)が真っ先に指名され四月二十八日、菊水第四号作戦「第二正統隊」の九九式艦爆隊で戦死した。戦後、私が私立大学連盟の同僚役員・慶応義塾長石川忠雄氏から偶然聞いた話では、熊井君は学生時代彼の無二の親友であったそうだ。私たち予備学生仲間は常日頃「特攻で死にたくねえなぁ」と嘯いていたが、この身近な同僚との別れは悲哀を越えて憤激をさえ覚えさせられたのであった。

空を飛べる海軍機はすべての機種が特攻機と化し、「赤トンボ」(九三式中間練習機)や「白菊」(機上作業練習機)までも使用された一方、設計当初から、目標に高速接近し、高性能爆装で自爆する特攻機として製造された「桜花」というロケット推進機が「神雷隊」を編成していた。百里原の飛行場を共用していたその一隊「七二一空」(後七二二空と変更)の訓練作業を、私たち学生隊の飛行作業の傍で目撃する機会があり、先方の飛行隊長・野中五郎少佐(海兵六一期)の姿を畏敬の念をこめて凝視したものであった。彼は部内で「特攻の神様」として知られ、やくざ者のような口調で「野中一家のけちな野郎でござんす」などと啖呵を切る名物男であった(二・二六事件の反乱軍指揮官として銃殺された陸軍大尉野中四郎の実弟)。

「桜花」は部内の符牒で「マル大」とよび一式陸攻の胴体の下に吊るされて戦場に運ばれ、敵の目標上空で切り離されると、単座の操縦士がロケットを噴射して突入する。空母でも大戦艦でもその一二〇〇キロの爆薬で命中即轟沈すると戦果の希望的観測は大きかったが、実戦に出撃する以前、敵味方の評価は意外に低かった。米軍は、被弾するとすぐ火を吹いて墜落する一式陸攻をライターとよんで軽蔑し、その懸吊で運ばれる「桜花」は何の威力もない「バカ・ボム」Baka-Bombだと嘲った。

味方の「神雷隊」育ての親の野中少佐ですら、訓練中から「こんなものは兵器じゃない」と玩具扱いし「クソの役にもたたない自殺行為に部下を道連れにしたくない。この作戦は司令部に断念させたい」と、国賊扱いを覚悟で本音を漏らしていたのだそうだ(『つらい真実──虚構の特攻隊神話』、小沢郁郎、同成社、一九八三年)。しかし、彼は菊水作戦に先駆けて三月二十一日、第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊という公式名称で、桜花十五機をひっさげた一式陸攻十八機を率い、南西諸島海域に出撃し、敵戦闘機の邀撃を受けて全滅、搭乗員一六〇名全員と共に戦死した。


昭和二十年七月、沖縄地上戦も本土からの「菊水作戦」も終結した翌月、私は百里原航空隊の残留十四期搭乗員として九六式艦爆による夜間特攻隊の訓練を命じられた。「日華事変(昭和十二年)」当時の新鋭機として活躍したこの羽布張り複葉の「九六爆」は、その年の一月二十日、事故多発・整備不能の機種として使用停止の処置を受け、廃棄の運命にあったものを、特攻機数不足の補充用に、七月一日「現役復帰」扱いにより、敗色濃い戦争末期の「練習機特攻」に準ずる兵器として死に花を咲かせることになったものである。

技量不足か勤務考課不良か、選別基準は不明(一説に隊長のあみだ籤)だったが、私は二〇機足らずのオンボロ機操縦員の一人となり、「機能低劣機の出陣は夜間飛行とする」という司令部の指示に従って、連日「薄暮離着陸」や、暗夜機上の灯火をすべて消して飛ぶ編隊訓練に取り組んだ。複座の機上前席に単独で座り、二五〇キロ爆弾に相当する重量のバラストを後席に積み、僚機の排気ガス光だけを目安に、灯火管制下の暗黒の地上を、一定の高度・気速・針路を保って二〇数キロの夜間飛行を繰り返すのである。訓練を終えて帰着する飛行場滑走路の両側に整然と並ぶカンテラの黄灯や三点着陸位置を示す緑や赤の指導灯の幻想的な瞬きを俯瞰する一瞬、航空隊の粗野な生活、非情な特攻訓練の憂鬱さの中にもこんなロマンがあったかなどと思ったものであった。


蓼科にて

この訓練期間中、私は休日「上陸」で東京の自宅に立ち寄った際、学生時代に読んだことのあるサン・テクジュペリの『夜間飛行』(堀口大学訳、新潮社、一九三五年)を見つけて持ち帰った。今でこそこの作家は『星の王子さま』の著者として人気が高いが、当時は寡作の無名文士に過ぎず、戦時中日本ではフランス人でアメリカに亡命した敵性文学者として白眼視されていた。彼が亡命中書いた『戦う操縦士』(堀口大学訳、新潮文庫、一九五六年)は当時翻訳も許されず、ろくに紹介もされなかったが、戦後に聞いた話では、ヨーロッパ戦線に出征するアメリカ人GIが皆、まるで聖書のようにこの本を一冊携えて 行ったということである。

私は戦後十年余もたって初めてこの作品に出会ったのであるが、戦時中の特攻隊員宿舎でこそ読まれるべき書物であったと痛感した。実名サン・テクジュペリ大尉で、ナチス・ドイツ軍と戦うフランスの航空隊に勤務している彼はこう書く──「……時は正に五月末、退却の真っ最中、敗北の真っ最中だ。(一九四一年) 山火事を消すに、コップで水をかけるようなやり方で、搭乗員を犠牲に供している」「……この戦争の末期に際し、他のあらゆる印象を支配する一つの印象……それは馬鹿げているという印象だ……死さえが真摯性を欠く」と。前述した「桜花」特攻隊長の野中少佐が「こんな作戦は馬鹿げている」といっていたのと相通ずるものがある。サンテックス大尉は、しかし「それが無益だと判っていても僕等はこの猛火の中に身を投ぜずにはいられない」と、毅然として野中隊長と同じように出撃して行く。それが「戦う操縦士」のフェアプレイなのであろう。

八月に入って、広島・長崎の原爆被害の不気味なニュースと重なった「ソ連」の対日参戦が伝えられると、日本海軍の任務はアメリカ軍の本土上陸作戦以外の戦場への対応に振当てられたらしく、急遽対「ソ連」航空作戦が策定され、特攻隊残存機のほとんどすべてを極東軍事基地ウラジヴォストーク攻撃に差し向けることになった。

百里原航空隊の搭乗員全員が、どうにか飛べそうな三、四〇機の「九九艦爆」を掻き集め、日本で最初にして最後の「ソ連」攻撃隊を編成した。

八月十三日朝、北海道千歳へ移動予定。二五〇キロ爆弾一個を抱え、片道八○○キロ分の燃料を積んで日本海渡洋爆撃行に出撃予定。攻撃法は体当たり自爆ではなく、港湾施設や在泊艦船への通常爆弾投下。首尾よく成功の後は朝鮮半島東北国境へ退避し、海軍航空隊が残留している元山に着陸。そこで爆弾・燃料を補給し、ウラジオ再襲の往復爆撃を行う、という幻想的作戦が発令された。

実際には、八月十三日雨天のため出発延期、翌十四日は晴れたが午前中からの米艦載機の来襲と、何やら停戦らしい待機命令とで、移動は見合わせとなった。翌日、私たちは飛行場を避けて近隣の山林中に、虎の子のパイロットとしての身の安全のみ顧慮して、不甲斐ない体たらくであったが、たまたま農家の庭先で正午の「玉音放送」をちらっと聴き、日本が「ポツダム宣言」を受諾して連合国に降伏したことを知った。

「ソ連」軍はウラジオ方面に強力な空軍を配備し、最新鋭機「ミグ16」など数百機が日本軍の来襲に備えていたと聞き、機材はポンコツの「九九艦爆」を、飛行時間一〇〇時間足らずの予備学生上がりの少尉が、よたよたと八月十三日に真昼間、日本海を渡って行ったとしたら、重い爆弾を抱えたまま機銃座をはずされて抵抗手段皆無の艦爆隊は、まだ沿海州岸の影も見えない洋上で、「ミグ」の餌食となってポロポロ撃墜され、私たちは日本海の藻屑となり果てていたであろう。

*        *

「ポツダム宣言」は十四期の少尉たちを「ポツダム中尉」に進級させ、召集解除第一号として、八月二十三日復員・帰宅を許可したのである。

二〇〇二年六月二十四日・満八十一歳の誕生日に。

本稿はいわば「絶筆」といえるもので、父自身がワープロで打ちました。

前文にあるように、小学校時代のクラスメートに贈る形をとっていますが、実際は他の友人、家族にも読んでほしいということで、三十部ほどコピーして配りました。さらに多くの皆さんにお読みいただけるよう縦組にして印刷しなおしました。

最近はテロ問題など議論がさかんですが、このような戦争体験を踏まえて考えていくのが歴史家の大事な役割だと思います。〈橋口侯之介〉

制作:橋口侯之介・直子 101-0051 千代田区神田神保町2-24

誠心堂書店内 tel.03-3262-5947 NOVEMBER/2002

 

【追悼】(『上智史學』第47号、2002年11月、201-2ページ)

橋口倫介先生を偲ぶ

磯見 辰典

十月七日の早朝に橋口先生が逝去された。お骨揚げに加えていただきながら、思いは遠く五十年余の昔に翔んだ。

どうしても個人的なことになる。一度も先生の講義に出たことのない私が、なぜ卒業論文を先生に提出する気になったのだろう。新任の先生を甘くみていたのかも知れない。何となくテーマを選んだ、いい加減な学生だった。だが先生から関連する論文や研究者を紹介されて、大変なことになったと思った。締切日当日、やっと仕上がった卒論をもって祐大寺のお宅に持参した。そこで夕飯をご馳走になった。点数は忘れた。ただ原稿の最後に「文章はいい」とだけあって、先生への卒論提出者第一号という名誉のみが残った。

一九六五年のウィーン国際歴史学会には、私は留学先のベルギーから、先生は日本から船と汽車と飛行機を乗り継ぐ私が辿ったのと同じソ連まわりの経路で参加した。ウィーンでの楽かった日々が終わり、西と東に向けての別れは悲しかった。

橋口先生が日本における西洋中世史、とりわけ十字軍や騎士団研究の第一人者であり続けたことに贅言は不要である。キリスト教史観に立ちながら、いち早く十字軍の聖戦説を批判し、アラブ側の史料の必要性を指摘するなど、護教論とは程遠い緻密な実証性と整然とした理論構成には一部の隙もなかった。その学識とお人柄に惹かれた後輩たちは、おそらくパイプを片手にした端正な先生のお姿にその学風を重ねて偲ぶことができるだろう。

学者としても大学の教師としても、その毅然とした生き方が、私には脅威だった。学生がたむろする食堂には入らない、という衿持に私は戸惑った。しかし、学園紛争が先生を変えたと思う私の認識には軽薄さがつきまとう。先生の素顔は、謹厳実直などという枠を超えた大らかさにあったのだ。奥様に嫌われないように日本酒からブランディや赤ワインに転向したのはいつ頃だったか。酔えば、まず口が悪くなり、べらんめー調に近づく。「東大に橋口あり」と言われたホッケー選手時代の自慢話を何度聞かされたことか。教え子たちとはよく家庭マージャンに興じておられた。だが、こうした磊落さの中にも、一度決めたことを絶対に崩さないという一徹さがあった。二次会には行かないと決めたら例外は存在しないのである。

一方で先生は惜し気もなく先輩や友人を紹介してくださった。ご薫陶をうけた他の教え子たちにも覚えがあるだろうが、それがどれほど私の人間関係を豊かにしてくれたか分からない。さらに十指に及ぶ翻訳、執筆、監修をご一緒にさせていただいたご好意は忘れがたい。史学科や大学に対する先生の貢献を語る余裕は、今の私にはない。ただ、雑然とした生活を送る私が、あの整然とした研究室に象徴されるスマートな生き方を貫かれた先生と、今まで親しくさせていただけた不思議さと幸いを思うだけである。

一九八五年にルーヴァン大学で開催されたカトリック大学学長会議に同伴を命じられた。その折り、先生のお望みでベルギー南部の町シメーを訪れた。先生の研究の出発点である中世末期における国家意識の形成という主題に不可欠なジャン・フロワッサールの没した町である。シトー会の修道院で名物のビールをご馳走になり、不気味なシャトーで当代の女主人に会った。大通りにフロワッサールの大きな銅像があった。それを見上げながら先生は、しばし感慨深げに佇まれていた。これが私たちの最後の旅になった。

 
以下の共同祈願は、磯見辰典上智大学名誉教授によって起草され、2002年11月25日に聖イグナチオ教会大聖堂で行われた「洗礼者ヨハネ橋口倫介 命日五十日祭・感謝の祭儀・納骨祭」において朗読されたものです。

橋口先生のための共同祈願

恩師,橋口倫介先生の御霊を前に,先生の遺徳を偲んでここに集うすべての人々とともに、先生が神の恩恵を豊かに受け、天国において永遠の憩いに入られたことを信じ,神に深い感謝を捧げたいと思います。

橋口先生を偲ぶことは、私たちにとって、自分の人生の一部に思いをいたすことです。とりわけ、上智大学に学んだ者は、学長としてであれ、史学科教授としてであれ、先生から何らかの影響を身にうけていると申せましょう。そして、その影響の根底にある力は、すべてが先生の学者としての厳しい生き方から発していると思わざるを得ません。

先生は、日本の西洋史研究者の中では、きわめてユニークな存在であり続けられました。今でこそ、西洋史、とくに中世史研究にキリスト教への理解が不可欠であることを否定するものはいません。しかし、先生が学問の世界に身を投じた当時、キリスト教を、政治や経済と同列の一現象以上のものとして捉えていた学者はきわめて希でした。そこに、単なる知識として理解するだけでなく、キリスト教を信ずる学者が登場したことは、まさに鮮烈な印象を学界に与えたのです。それは、若輩の私たちの目にも明らかに映じたことです。しかし、キリスト者である先生は、決して非論理的な護教論的論旨に走ることはありませんでした。歴史上の事件、人物の中に、とりわけ民衆の心の中に生きているキリスト教を提示することで先生は、後年歴史研究の分野で主張されることになる「新しい歴史学」を先取りされたのだと思わずにはいられません。

高い品性をもった紳士として生涯を貫かれた先生は、よく「手続き」という表現をなさいました。緻密で正確な「手続き」を通さない結論を、先生は断じて受け入れませんでした。世俗の不正を厳しく排し、家族や周囲のすべての人々に愛情を注がれた先生の生涯は、まさしく、天国に入るための十分な「手続き」だったのかも知れません。

ここに集まった私たちは、いまは亡き橋口先生の御霊を前に、心から神に祈りをささげたいと思います。

主よ、願わくは、橋口倫介先生の魂を温かくそのみ手に迎えられ、永遠の命に生きる喜びを恵まれますように、また、残された遺族の方々に優しい慰めの目を注がれますように、そして先生を慕ってここに集うすべての者の上に、豊かな祝福が与えられますように。

(一同) 主よ、私たちの祈りを聞き入れてください。

 

ご略歴

1921年 6月24日父保孝、母ヒデの二男として誕生。当時保孝は海軍技官として渡英中。その倫敦から倫をとって命名
1934年 3月東京府青山師範付属小学校卒業
1942年 3月学習院中等科を経て高等科卒業
1943年 9月東京帝国大学文学部西洋史学科短縮卒業
1943年12月海軍に臨時徴集(学徒動員)
1946年 6月横関明(よこぜきめい)と結婚
1947年 3月東京大学西洋史学科大学院修了
1951年 4月上智大学文学部史学科講師(西洋中世史)
1951年11月ラウレス神父より受洗。洗礼名・洗礼者ヨハネ
1963年 4月上智大学文学部史学科教授
1984年 4月上智大学第9代学長就任
1992年 3月上智大学停年退職。 4月 名誉教授号
1994年 4月勲二等瑞宝章を授けらる
2002年10月 7日満81歳で永眠
 

主なご著作