幕末・明治期の欧字新聞と外国人ジャーナリト
鈴木雄雅(『コミュニケーション研究』第21号、1991年掲載)
The Influence of Western Journalism: Foreign-langugage
Newspapers and Journalists in Bakumatsu and
Meiji Era, Japan
1.はじめに
2.草創期の欧字紙と外国人ジャーナリスト
3.親日派英字紙の盛衰
4.The Japan Chronicle ,The Japan Advertiser
5.おわりに
注
参考文献
1.はじめに
日本の近代ジャ―ナリズムの幕開けに大きな影響を及ぼしたものの一つに欧字新聞があげられる。そのほとんどは英字新聞であったが,それらは「英語の読める日本人にとって有益な情報源となったし,また政府も注意深くそれらを読んで,ときどきは政府の情報や見解を流すのに利用することもあった」(サンソム,p.421)。さらに幕府の手による翻訳新聞・筆写新聞としても,外人居留地の枠を超えて流布され,オピニオンリーダーである国内要人たちの意見形成,ひいては世論形成の一端を担うようになる。編集者自らがそのコミュニケーション・チャンネルになることさえあった。欧字新聞の登場は日本人による近代新聞の出現を促し,同時に近代化への過渡的社会期にあった日本の文明開化の中で重要な役割を果たしたのである[
1]。
もともと居留地内の同国人を読者対象とし,彼らに日本あるいは西洋の事情を知らせることを目的に発行された欧字紙は,母国においてすでに確立されていた自由な論調をもって,まだ未成熟な日本の社会に新鮮な息吹を吹き込んだ。ところが,それがダニエル・ラ―ナ―の言う「感情移入(empathy)」(ラーナー,pp.341-42)の役割を果たしていると解釈される時期まではよかったが,次の段階ではただの情報伝達手段としてではなく,人々を刺激して新しい行動へと導く道を歩む。すなわち,欧字紙も単なる監視機能だけではなく,社会的現実に対応する反応を表明する政論の手段としての役割が全面に押し出される。それは長谷川如是閑が言うところの「新聞は社会意識の表現手段であり,対立意識の表現機関である」(『新聞論』,p.54)ことに他ならない。
しかしながら,欧字紙の自由な論調は,いかに外国人崇拝の時代とはいえ,政府の方針と対立するようになる。その結果,明治政府が国内邦字紙に対し保護育成政策から弾圧へ転じたように,欧字新聞も否応なしに「親日」「反日」の烙印を押され,1899年(明治32)の治外法権撤廃といった彼らの特権が失われるとともに,成長してきた邦字紙と戦わなければならなくなった。読者の少なさは,彼らにとって致命的であった[2]。
欧字紙の編集,発行に関与した外国人ジャ―ナリストのすべてが,新聞発行を目的に来日したとは言い難い。18世紀にみられた印刷人がジャ―ナリストを兼ねた風潮は,明治初期においても同様であった。そして彼らは必ずしも印刷人や新聞発行の経験があるものではなかった。
2.草創期の欧字紙と外国人ジャーナリスト
英人 A.W. Hansard と The Japan Herald
1861(文久元)年6月22日,長崎でわが国初の近代的新聞
The Nagasaki Shipping List and Adveriser
(週2回刊)を創刊した英商人 Albert William Hansardは,「日本のための新聞」そして「公衆のための情報媒体」となりうるには,日増しにその重要度が高まりつつある横浜に移転することが望ましいと考え,わずか半年後の11月には横浜に移住し,同紙を
The Japan Herald と改題,週刊新聞として発行を続けた。『ヘラルド』は,英国政府他幾つかの国の公使館の公告機関として活躍する一方,「徹底的独立(the
most THOROUGH INDEPENDENCE)」を主張,商業および内外のニュ―スを掲載した。
「日本人をジャーナリズムの世界に導入しようと試みた最初の人である」(Paske-Smith,
p.259)
ロンドン生まれのハンサードは英領ニュージーランドから来日。長崎の地で印刷のてほどきをしたい旨申し出ており,端物印刷を含めた印刷業も営んだ。知られている限り,彼はまだ一人の記者も置かなかった。記事や広告の収集,編集,印刷,発行を,Hansardは身内ほどの手助けでこなしたのである。初期の英国地方紙の所有主は,経営面からいっても新聞業務よりも印刷業務にまず専念したという。誕生したばかりの欧字紙界にとっても,それはまったく同じことであった。
『ヘラルド』の独占状態はそう長く続かなかった。発展めざましい横浜には競争紙がすぐに現れた。1863(文久3)年5月,ポルトガル人
F.da Rozaが The Japan Commercial Newsを発行。2年後の1865(慶応元)年9月には休刊となっていた同紙に代わってもと銀行家の英人
Charles D. Rickerby が The Japan Times と題号を変え,日刊・週刊・隔週刊という体制で
Herald に対抗した。幕府が開国へと進む中,Herald
同様,これら欧字紙も会訳社の手により『日本貿易新聞』『日本新聞』などの題号で発行され,日本人の間で広く読まれた。それでも,競争紙の出現はかえって格好の刺激材料となったようだ。積極的な紙面改革を試みたハンサードは,1863年10月には広告専門紙ではあったが日刊版
The Daily Japan Herald を刊行。この頃から彼を手伝っていたJohn Reddi Black(=貌刺屈,1827-80)の手腕もあって,親佐幕派といわれながらも,この二紙を凌駕したのである。
C.D. Rickerby と The Japan Times
わが国初の外国銀行といわれる西インド中央銀行の横浜支店支配人として来日したリッカービィは,仲間3人とともにThe
Japan Times を創刊した。彼は居留地において,商業会議所創立などに尽力,初期の横浜商業界の発展において高く評価される人物であった。『タイムズ』の徹底した不偏不党・独立主義は先の
Hansard から受け継いだものと考えられるが,Heraldが各国の在日公使館の布告公示機関として優位を保っていたのに対し,『タイムズ』は副題に「商業・政治・一般ニュースの週刊紙」と掲げ,貿易第一主義の建て前をとリ,「この国[日本]の貿易に関して読者の有益な指針となり,信頼される参考書となるための努力を惜しまない」(創刊の辞)とした。『タイムズ』は早くも英国の対日政策等をからめながら,英国公使館通訳
Ernest Mason Satow (1843-1922)の論文などを掲載,大きな反響を呼び,その後の同紙における態度−−天皇・新政府への肩入れ,すなわち『ヘラルド』との対立を生じるもととなった。同紙が進歩派と呼ばれたのは,そうした傾向が全面に出たからであろう。しかし,それは時として先行し過ぎることもあり,役人の注意を受けることも少なくなかった。
J.R. Black と横浜英字紙界
英国スコットランド出身のJ.R.ブラックは,オーストラリアからインド,中国を経て来日。『ヘラルド』の編集に参加していた1865年5月,彼に代わって同紙の編集責任者となり,経営権を譲り受けた。新聞の発行経験があったわけではなかったが,ジャーナリストとしての彼の才能は天性のものだったのか,ブラック主筆の『ヘラルド』は,尊皇攘夷,討幕運動が高まる国内外の出来事を克明に報道して発展する。ところが,自身の事業倒産に遭ったブラックは,社内での対立もあったことから同社を辞し,1867(慶応3)年10月,居留地オランダ商人
N.Hegt(1821-94)の協力の下『ヘラルド』に対抗する毎夕発行の
The Japan Gazette を創刊する。彼の態度からして同紙を佐幕寄りとするのではないかともみられた。いずれにしても他の欧字紙も翻訳・筆写新聞として出版されたり,あるいは部分的な抄訳の形ではあってもその後長い間邦字紙に頻繁に掲載されており,それらが国内の世論形成に大いに影響したことは間違いない[3]。
Blackは『ジャパン・ガゼット』創刊のいきさつを自著『ヤング・ジャパン』に書き残しているが,実は『ヘラルド』と『タイムズ』がしのぎを削っていた横浜英字紙界に切り込むことは生易しいことではなかった[4]。ただ,彼が編集,印刷,営業といった分業体制を早くから確立したことは,18世紀的新聞業から一歩抜き出たものとして見逃せない。そうしたことが『ガゼット』の発展につながったといえる。もっとも,ブラック自身はこれに飽き足らず,創刊後わずか数年にして同社を離れ,1870(明治3)年5月,絵入り週刊新聞
Far East (1871-75)を発刊する。論説や一般記事よりもむしろ翻訳・読み物,探報記事そして写真に力点を置いた『ファー・イースト』は約5年ほど続くが,次にブラックは先のローザの助力の下,以前から関心を持っていた邦字新聞の発行,すなわち『日新真事誌』(1872-75,彼自身は同紙を
The Reliable News と呼んでいる)の刊行に全力を注ぐ。
ブラックは初期の邦字紙について,「紙面は卑わいな文で汚されていて,醜悪というよりさらにはなはだしいもので,外国人の眼には情けないというよりも,害悪をもたらすようだった」と批判し,日本人には「ほとんど新聞とは何かの概念もなく,その効用は何かの概念もなかった」(Black,
vol.2, p.364)と評している。それはある意味で,ジャ―ナリズムにおける新聞の任務への明確な自覚を促そうとした意欲の表出としてとらえられ[5],彼自身,いつも日本語の新聞を発行したいと強く望んでいた。
『日新真事誌』は,確かに Black 自身が呼んでいるように,「日本で新聞と呼ぶに値する最初の新聞」であったろう。そして同紙は,外国人の物の見方を反映する最後の邦字新聞となったのである(小糸,p.59)[6]。
3.親日派英字紙の盛衰
The Japan Mail,The Tokio Times
1870年,リッカービィ主宰の『タイムズ』はその一切の権利を,英商人
William Gunston Howellらに譲渡し,同紙は早速
The Japan Mail と題号を変え,前紙同様に週刊・日刊・隔週刊形式をとりつつ,明治新政府と時に歩調を合わせ,また時には噛みついた。「極東でかつて知られた最も熟練したジャ―ナリスト」と評されたハウエルは77年1月まで『メイル』を続けた。そして81年[7]から Captain Francis Brinkley (1841-1912)の手に渡った後,『メイル』は横浜三大英字紙の一角として,また親日派英字紙として新たな発展をみせるようになる。
ところで,言論活動機関としての新聞の機能を重要視した明治政府は,国内邦字紙に対する新聞政策を積極的に推し進める一方,多くは外交的配慮ではあったが,お雇い外国人
Charles W.Legendre (1830-99)らの進言により政府系の欧字新聞を持つことを画策したことがある[8]。その第一歩は,ハウエルの『メイル』を一定部数買い上げ,海外配布に利用する契約(1873-75年)に始まるが,同紙が当初予想された政府支持の論調から反政府的態度に転じたため,短期間に終わっている。続いて,
Mail 社全体の買収も提案されるが,これは陽の目を見なかった。そこで1877(明治10)年1月,米人
Edward Howard House(1836-1901)が東京で創刊した週刊英字新聞
The Tokio Times (1877-80)に助成金を与え,日本の国益増進に利用できる政府機関紙としたのである。
その契約条款に定められているように,「紙面に政府要人の投稿を認めさせる」「掲載される日本関係の意見は常に政府の裨益を考え真実公正にして偏類なき物」など,政府色の強いことは事実であった。しかし,かつて
New York Tribune の特派員として来日,明治期においては数少ない本格的な外国人ジャーナリストの一人に挙げられるハウスは,以前と同様,日本の立場に深い理解と好意をもった紙面作りを行った。彼は同紙の創刊に当たって,「従来日本で発行された英字新聞は,全て自国あるいは他国の政府筋に読ませるべく作られたものであるが,タイムスのみは,日本に在住する大衆を目標として発行する」と述べ,記事の範囲も日本及び日本人の内外の利益に関連するものとした。
そうした彼の意図は,日本政府と利害一致するところが多かったと言えよう。特に,英国公使
Harry Smith Parkes (1828-85)を中心とした在住各国公使らが強要する無理難題に対し,ハウスの辛辣な記事が人気を博した。それは「真向に太刀を翳し快劔陣斫るが如く」(徳富猪一郎『老記者叢話』)であった。ところが,その親日的論調は,「トーキョー・タイムスは,敵意や怨恨や貪欲のために濫用しない」と言い切っていたにもかかわらず,『大阪朝日』1911(明治34)年12月23日号が評するように,「何事に就いても日本に好意を表して居留外人の意向に頓着せず,往々其利益に反する議論を主張し,殊に馬関砲撃に関聯して,時の英国公使パークス氏に手厳しき攻撃を加えしかば痛く居留地英人の感情を害し,敵を四面に受けて一時は殆ど,外人の社会より絶交せらるるの境遇に陥りしも,尚其の主張を改めざりき」であったため,人身攻撃の筆が過ぎることもしばしばであった。結果的に「在日英国人に鼻持ちならぬ新聞」(Japan
Mail 1901年12月21日号)と酷評されるようになった。そのため外交上かえって不利と判断されたのか,政府からの助成金支払いもなくなり,それが同紙は廃刊された。
F. Brinkley と Mail
そして,時代的にハウスの後釜をうけた形で「御用新聞」との陰口を叩かれながらも親日派英字紙として『メイル』を発展させたのが,日本および日本語に精通したブリンクリーであった。彼は英国陸軍出身というやや異色の存在で,居留地警護のために駐屯していた英国第二十連隊の砲兵将校として来日。『メイル』の経営を譲り受ける以前から,同紙に「太閤時代」「平氏時代」といった連載物を投稿し,好評を得ていた。
ブリンクリーは,Sporting Life などで記者経験を持ち
Hong Kong Daily Press 支配人をしたことのある英人
James Ellacott Bealeを片腕に,ロイタ―電を使っての外国ニュ―ス収集で他紙を圧倒したばかりでなく[9],社説はもちろんのこと,宗教・美術をはじめとしてありとあらゆる日本文化紹介に努めた。
『メイル』も初期には「政治・商業・文学の新聞」としていた副題を,1879(明治12)年から「日本の商業・政治・文学・芸術の週刊評論」と称している。常に日本擁護の立場をとったブリンクリーは,「日本において外国人の経営する新聞は必ずしも日本のためにならない」というそれまでの一般概念を是正する努力を惜しまなかった。とりわけ,英国『ザ・タイムズ』の通信員になった日清戦争以降,日本が国力を伸長していく中で彼が同紙に送った記事は,欧米における日本および日本人に対する誤解を解く大きな足掛かりとなったといっても過言ではない(蛯原,pp.195-
200)。 こうした親日的論調がブリンクリーの手に渡った後の『メイル』に掲げられたのであるから,居留地社会の声を反映し,自国の商業・貿易を援護すべく働いていた『ヘラルド』や『ガゼット』ばかりでなく,神戸で発行されていた『ジャパン・クロニクル』と,終始反目しあうようになったのである(長谷川,pp.22-26)。
その後のHerald と Gazette
『ヘラルド』はオーストラリアのビクトリア植民地から来日したJohn
Henry Brooke (1826-1902)が1871年から1902年まで実に30年以上にわたり主筆兼所有主として君臨した。英国・リンカシャーで印刷人,ジャーナリストとして活躍したブルックは,若くして植民地の大臣にまでなった男である。うした豊富な政治経験からか,居住外国人に対する日本政府の法的措置は未だ未熟であるとして,治外法権撤廃に反対する論調で終始一貫していた[10] 。
ブルック経営のもと比較的安定していた『ヘラルド』とは対照的に,ブラックが去った後の『ガゼット』は,人名録などの出版物も貴重がられ,居留地の利益を代弁したこともあって読者数も多く,現在のThe
Japan Times (1897年創刊)を除けば国内英字紙としては最長の56年間続くことになる。しかし,現実には所有主の交代が激しく,『メイル』のように外電の特約を持つとか,ブラック,Walter
Dening(伝仁具,1846-1913)編集の時期を除いて魅力あるジャーナリストを擁さなかったこともあって,結局は新興の『アドバタイザー』,『クロニクル』にとって代わられる運命にあった[11] 。
近代化の初期に,「文筆家」と「ジャーナリスト」を区別することは難しい(Passin,
pp.85-86)。19世紀はまだ「小説家」がジャーナリストを兼ねていた時代であったが,ハウスやブリンクリー,デニングらを引き合いに出せば,彼らはいわゆる「文筆家」に近いジャーナリストであった。そして政府または民間から助成金を貰っていたという話はともかく,Brinkleyの死は親日派英字紙
Mail の終焉を意味し,外国人経営の親日欧字紙の使命が終わる時代を迎えたのである。まさに明治期の欧字ジャ―ナリズムが終わろうとしていた。
4.The Japan Chronicle ,The Japan Advertiser
大正・昭和期に入り,国内邦字紙界の成長がそれまでの欧字紙の性格を変えたというよりも,軍国主義,ファシズムの風潮に巻き込まれていく日本の言論界を批判する形で欧字紙の存在が浮かび上がって来る。頭本元貞主宰の『ジャパン・タイムズ』以外の欧字紙は,明治期と比べてまた違った意味合いで編集・経営面から英国系,米国系,独逸系[12] などというレッテルを貼られた。確かに,各紙とも外国人の特権が失われたのちは,以前より一層外人社会の権利利益擁護に努めたのは事実であるが……。
先に述べたように,既に欧字紙界もパーソナル・ジャーナリズムを脱し,近代的な新聞経営でなくては生き延びていけなくなっていた。そうした時の流れは,わが国欧字紙界の一時代を作った『ヘラルド』『ガゼット』を葬り去り,新興紙としてRobert
Young (1858?-1922)の英国系The Japan Chronicle
,Benjamin Wilfred Fleisher (1870-1946)の手に渡ってからの米国系
The Japan Advertiser などを表舞台に立たせたのである。
中でも最も軍部に嫌われたという『クロニクル』が,花園が指摘するように,「クロニクルの自由なる批判が日本にとって薬になったことがないとも云へない」(花園,p.331)ヤングの紙面作りは,外国の眼を日本に向けさせたことを見逃してはならないだろう。Walter
Williams,Luchy Salmon ら新聞学者が第一級の賛辞を送っている[13] 。
ロンドンには生まれたが,当時の中産階級の家庭に育たなかったヤングは,周囲がたどった同じ道を歩むがごとく年季奉公に出される。その行先がスポティスウッド印刷所で,彼がこの仕事を望んだかどうかは分からないが,その後の彼の一生を決めることになった。植字工そして校正係として技量を積んでいたある日,神戸の
Hiogo News の求人広告が目に止まり,来日を決意する。
『兵庫ニューズ』で3年間の記者生活を送った後,ヤングは1891(明治24)年10月,日刊英字紙
The Kobe Chronicle を創刊した。1899(明治32)年にはかつて働いていた同地古参の英字紙『兵庫ニューズ』を買収合併,海外向け週刊版,続いて日刊版もThe
Japan Chronicle と改題。ヤングはこれを,「地方紙本来の地盤を超え,日本における外字新聞の中で最大の発行部数を持つに至ったため」(Chronicle
,1918年4月23日号)と言っているが,明らかにローカル色を払拭し,日本関係のニュースを国際的に取り扱いたいと願っていたヤングの一つの成果とみなせるであろう。何よりも先に海外向け週刊版を改題したことに着目される。
『クロニクル』の言論の自由に対する理念の堅持は,ヤングの秀れた編集能力により確立された。それは,彼が日本で最初の合理主義協会を設立したこと,あるいは自由思想運動に積極的に参加した事実等からもうかがい知ることが出来る。欧字新聞界に限って言うならば,あるべき新聞の姿を追い求めたヤングの姿勢は,時を越えて,かつてブラックが日本にジャーナリズムとは何であるかを教えようとした生き方と共通するのではないか。 ヤングの卓越したジャーナリズムに対する姿勢が英国から学びとられたものとすれば,それと対極をなすものに『アドバタイザー』があった。日本が知らないうちに,その国際コミュニケーションの手段を多年にわたり英国のロイター通信社に委ねてしまっていた当時,「アメリカ的と国際的と双方の色調を出した」(長谷川,p.42)同紙の存在は,編集・経営面において米国流ジャーナリズムの在り方を初めて導入した価値ある新聞となった。確かに「アメリカの極東における一つの前営と見ることが出来る」(花園,p.332)と言えないこともない。しかし,十五年戦争に突入していく日本の行動を報道するために多くの特派員が訪れる中で,日本と日本語に精通したものがどれだけいただろうか。その意味で,英人Hugh
Byas (1875-1945)やFrank H. Hedges (1895-1940)のような長年日本を見てきたジャ―ナリストを編集者や記者にした『アドバタイザー』は,国策による統廃合がなければ,そのまま欧字新聞界をリードするだけの総合的なものの見方をしていたのである。
5.おわりに
一般に日本における近代国家の成立とみなされる憲法発布(1889年=明治22)以降,社会的政治機能が,新聞界においても,一般化された欧字新聞の持つ機能−−すなわち,外からの資本的侵入,内からは国家の代弁機関という要因のうち,後者を重要視したのは当然のことであろう。しかしながら,外人ジャーナリストの中には助成金を貰いつつも,そうしたことのみ目的に新聞を発行したとは考えられない者が少なくない。とりわけ,彼らがくり広げた紙上論争は,自国の利益追及にのみこだわったものではない時もあった。
欧字新聞界ではその創生期から第二次大戦終了時まで,自由な論争が「反日」のレッテルを貼られる時代が続き,「親日」「反日」のどちらかを選ばなければならなかったのも時代の趨勢であった。欧字紙は戦後ようやく経営的に一本立ちするようになるが,今でもなお,一紙を除き親新聞の啓蒙宣伝紙といわれるぐらいだから,当時の経営面の脆弱性は推して知るべしだろう。
顧みると,多くの批判があるにもかかわらず,幾人かの傑出した外国人ジャーナリストが評価されるのは,彼らと彼らが生みだした欧字紙が,日本の国際コミュニケーションの私的担い手としてそれなりの役割を果たしたからであり(小糸,p.75),さらにジャーナリズムのみならず日本社会の近代化に深く貢献したことに他ならないからである。
【注】
1)サンソムはまた次のようにも言っている。「日本における新聞の発達は,西洋からの 直接の影響のはっきりした一例である。というのは,日本在住の外国人が刊行した新聞 が,日本人にとって一つの規範となり,それを彼らはじかに学ぶことができたからである」(p.420)。
花園兼定は,「こうした欧字新聞のコラムに掲げられた社説や通信が,日本におけるさまざまな改革に関して政府への刺激として働いたことは疑う余地もない」と,その存在を高く評価している。Kanesada Hanazono, The Development of Japanese Journalism (Osaka: Osaka Mainichi, 1924), p.20.
2)蛯原(p.234)によれば,明治初年でも約2,000人,大正初年でも約6,500人,1934(昭和9)年頃でも約2万人ほどしかいなかったという。
3)小野(1962,p.40)によれば,「横浜新聞紙より抄出」といっても,大部分は幕府側 を指示する記事を選んでいたが,時には自分らの言いたいことも書いている。また,ブラックも,(欧字)新聞が政府に対して明らかなる影響を持っていると回想している(Young Japan , Vol.2, pp.348-50)。
また蛯原は,「明治初年から同三十年頃までの邦字新聞紙上にはよく,『メイル新聞に曰く』とか『横浜ヘラルド新聞に曰く』とか,『横浜英字新聞に曰く』などといふ書出しで,彼等の所論が尠からず紹介してある。其頃は,まだ治外法権時代だったので。外人はどんなことを云はうと書こうと,日本政府にはそれに干渉する権利が無かったので,中には随分痛烈な所論を勝手に述べていたものもあったやうである。随って,識者の注意がこの欧字新聞の上に集まっていたことは今更云ふまでもあるまい」(pp.93-94)と述べている。
4)ブラック(Ibid., Vol.2, pp.348-50)によれば,
「日刊紙で時事ニュースを供給しようという横浜における最初の試みとして,1867年10月12日(土曜日),夕刊紙『ジャパン・ガゼット』が創刊された。こんな小さな遠隔の土地にあって,毎日紙面を埋めるのに十分な情報を集めることは不可能と思われた。だが,編集者は,ニュースがない時 にこれを連載することが出来ないので,外国ニュースとか興味ある書物の抜粋を外国の新聞からとりスペ―スを埋めよう,と言った。これまで二つの地方紙が週刊で出ていた。各々毎朝広告紙を出して,特に重要なことが起きると,臨時ニュース欄を加えていた。
『ジャパン・ガゼット』は,たちまち成功した。その結果,横浜最古の新聞『ジャパン・ヘラルド』も,その週刊形式を廃して『ガゼット』の競争紙として,毎夕刊行に改めた。これら両紙は,それ以来,ともに相応の読者を得て,互いに追いつ追われつの成績を収めた。」
5)久保田恭平「明治初期の日本の新聞と居留地におけるイギリス人経営の新聞」『日本歴史』318号(1974年11月号),p.40.
6)小糸忠吾『日本と国際コミュニケーション』(東京書店,1982年),p.59.ブラックが政府の策略により日本新聞界から抹殺されたことは有名であるが,ここではとりあえず金井圓(pp.53-57)参照.
7)その後,George Cullen Pearson ,F.V.Dickins
と編集人が代わり,一時期先のリッカービィが乗り込むが,そう長くは続かず,開港直後の兵庫で英字紙
The Hiogo and Osaka Herald の発行経験を持つ
A.Herbert Blackwell (1843-98)が1880年まで『メイル』主筆の座に就いた。
8)幕末期に欧米に派遣された使節の中には,例えば遣米使節の小栗上野介忠順,遣欧使節の池田筑後守長発(ながあき)のように,新聞の重要性に着眼し,世界の事情に精通したうえで幕府が生き残るためには欧米の新聞をとることが必須と考えたものが少なくなかったようだが,結局そうした建言に耳を貸さないまま幕府は崩壊した。また,明治 政府のお雇い外国人のなかにもそうした建言をするものが多かった。金井(1976,pp.5-15)。笠原英彦「ルジャンドルと政府系英字新聞」『新聞学評論』第33号(1984年),pp.205-14.
9)ロイター電の日本進出については,吉田哲次郎「明治時代の日本の新聞とロイター@〜」『新聞通信調査会報』第260-277号(1984.6-85.12)ほか参照。
10)ブラックとハンサードについては,拙論「明治前期の英字紙と外人ジャーナリスト」『新聞研究』(1980年8月号,pp.89-93)参照。
11)各居留地に欧字新聞が出揃った1880年代以降,短命な小欧字紙が乱立する時代を迎えた。しかし,いずれも既存の新聞を打ち勝てるほどの内容紙面を持たなかった。ただ邦人読者層が近代的な文化,教養を受け入れる下地が出来ると,英語教育の普及という側面を意図した英字紙が創刊された。一,二挙げるとすれば,ジャーナリストというよりむしろ英語学者として著名なFrank
Warrington Eastlake (1858-1905)のThe Tokio Indepndent (1886-87)や The Tokio Spectator (1891-92)であろうか。両紙とも廉価を強調したとはいえ,欧字紙界にも新聞企業体制が進行し,個性的なジャーナリストの活躍する余地は次第に失われつつあった。
12)独系の英字紙が創刊されたのは,1892(明治25)年と遅い。
Karle Daniel Franz Schroeder の The Eastern World (1892-1908)がそれである。シュロイダーは1881年に来日,一時期『ヘラルド』の編集に参加。また独総領事を中心とした人々が独語の週刊紙Deutsche
Japan Post (1902年創刊)を発行している。付け加えておくと,同紙とともに独系機関紙の役割を果たし,日本におけるドイツの権益擁護の役割を果たしたのが,1905年から対独宣戦布告の結果廃刊に追い込まれる1914年までの『ヘラルド』である。主筆はイギリス人の
Thomas Satchell(1867-1956)。
13)Lucy Salomon, The Newspaper and Authority (Oxford University Press, 1923),p.88n. ヤング,『クロニクル』については掛川論文に負うところが多い。
【参考文献】(注記以外)
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遠藤元男・下村富士雄(編)『日本国内発行の外字紙解題」『国史文献解説続』朝倉書店,1965年。
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掛川トミ子「『ジャパン・クロニク』ノート―あるべき新聞を求めて」東大新聞研究所(編)『コミュニケーション行動と様式』東京大学出版会,1974年。
金井 圓「ジャーナリズム ジョン・R・ブラックをめぐって」『御雇い外国人』鹿島出版会,1976年,第17巻(人文科学)。
北根豊(編)『日本初期新聞全集』ぺりかん社,1986年+
鈴木雄雅「幕末英字新聞史考」『ソフィア』第133号(1985年春)。
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Nagasaki Shipping List and Advertiser No.4 10 July 1861 |
Japan Herald No.1 23 December, 1861 |
From Supplements of Paske-Smith