わが国最初の英字新聞の創刊者
:英人 A.W.ハンサードの軌跡
A.W.Hansard: a founder of the first English-language
newspaper in Japan
『新聞通信調査会会報』No.367 (1993年6月号)掲載
訂正加筆 2000.4
ジャーナリズムに多少関心のある方なら、ちょうど今から133年前の今月、長崎の外国人居留地でわが国最初の英字新聞『長崎シッピング・リスト・アンド・アドタイザー』(Nagasaki
Shipping List and Advertise) が創刊され、その後横浜に移って『ジャパン・ヘラルド』として発行された事実を知っているだろう。ただ、残念なことに、同時期に活躍したJ・R・ブラックが様々な形で紹介されているのに比べて、両紙の発行者である英人A・W・ハンサードが一体どういう人物であったかは、長い間謎に包まれていた。
彼については、これまで通説による「来日前、ニュージーランドで『サザンクロス』という新聞を創刊した」「同紙の発行にかかわっていた」という程度だったが、最近の調査で彼の生い立ちから周辺の事実がかなり浮かび上がってきた。断片的ではあるが、紹介しておこう。
19世紀 ロンドン
チューブとも呼ばれるロンドンの地下鉄ホルボーン駅近くにあるギルドホール図書館に保存されているセント・アンドリュー教会の洗礼記録によれば、アルバート・ウィリアム・ハンサードは1821年1月26日、フリートストリートの南側にあるソールズベリースクエア一番地で生まれた。フリートストリートは最近まで新聞街として名を馳せたところで、19世紀半ばまでに多くの印刷人、新聞社が集まった。彼が生まれた翌年には、直ぐ隣の建物から『サンデー・タイムズ』が創刊されている。
父は印刷人のトーマス・カーソン・ハンサード(Thomas
Curson Hansard,1776-1833)、母は彼の二番目の妻であるマリー(旧姓パームビィー)。兄弟にはのち、父の後を継ぐ長兄トーマス・カーソン、エリザベス、サラの二人の姉がいたから、彼は次男と言っても四人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。
「ハンサード」の姓を聞いて誰しも推測するように、祖父にあたるルーク・ハンサード(Luke
Hansard,1752-1828)は英国議会議事録の別名「ハンサード」の発行に携わった著名な印刷人である。「ハンド」と「ナイフ」に由来するハンサード家の歴史は十二世紀後半までさかのぼる。ルークはわずか一ギニーをもってノーウィッチからロンドンへ出て来て、一代で印刷業に成功した人物として名を残している。T.C.ハンサードは彼とサラとの間に生まれた男女三人ずつの子供の長兄であった。
A.W.ハンサードの父T.C.ハンサードは創業者の長男ではあったが、ヘンリー・ヒューズの工場で7年の印刷修業を終えたのち、いくつかの理由から家業を継がず、ピーターボローコートにあったリッカビィの工場を入手して独立する。そして『ポリティカル・レジスター』で有名なラジカルな新聞人ウィリアム・コーベットの印刷出版を手伝い、議会議事録の印刷権も獲得した。このコーベットとのかかわりあいから、彼の筆禍事件に連座して、科料・禁固刑を受けている事実がある意味で彼の生き様を象徴しているかのようで興味深い。
さて、創業者ルーク・ハンサードの孫という由緒ある家柄の出身であるA.W.ハンサードは、印刷修業の年期があけた頃と思われる1843年9月21日、22歳のときロンドンの北にあるハートフォードシャー・ビショップスストートフォードの教会で、同地の酒造・駅馬車業者ロバート・パーシバルの長女、エリザベス・パーシバルと結婚式をあげた。彼女との間には47年までにマリー・エリザベスとロバート・パーシバルの二人が生まれている。
ところが、ハンサードはこの最初の妻と何らかの形で離別し(死別と思われるが、現段階では未確認)、6年後の1848年11月ロンドンを離れることになる。この間、いかなるロンドンの印刷工場・印刷修業の記録に、アルバート・ウィリアム・ハンサードの名は見当たらない。
英領植民地ニュージーランドへ移住
ハンサードが(乗船記録からおそらく長女マリーも)乗船した「ララ・ルークー(Lalla
Rookh)」号は5か月余りの航海ののち、1849年4月18日、当時の英領植民地ニュージランド第一の都市、オークランドに到着している。彼のオークランド移住の理由は不明のままである。
そして、1850年1月15日付『サザン・クロス』紙に自営の不動産業開業の案内広告を掲載したのをはじめとして、彼の名前が同紙にはしばしば登場する。とは言っても、それは彼が同紙の印刷や発行に関係したという類いのものではなく、多くは自業の不動産・金融などの広告である。しかし、そこからいくつか興味深い発見があるので、紹介しておこう。
第一に彼は「オークランド・メキャニクス・インスティチュート」(AMI)の事務局を任せられ、1850年4月には、「印刷史・印刷実学」の講師をしている。51年の総会では、AMIの立て直しとその卓越した働き振りに対し、感謝状と記念の時計が贈られている。
このAMIは現在のオークランド公立図書館の前身といわれ、植民地社会の教養・文化の向上のために図書館、あるいはコミュニティ・カレッジのような機能を会員制で果たしていたところである。
第二に、ハンサードはオークランド土地協会、捕鯨教会など当時設立されたいくつかの団体、さらに1859年5月に創立されたニュージーランド保険会社で、秘書の肩書きではあるが事務局長的役割を務めている記録が残されている。
第三は、オークランドでの彼の職業は主として不動産業であり、選挙人名簿や結婚、子供の出生証明の際の職業欄に「印刷人あるいは新聞発行者」などを示唆する記載はない。むろん、ニュージーランドの印刷史、新聞史にも出てこない。
またオークランド移住一年後の1850年10月12日、ハンサードはジェーン・ジェンキンス(Jane
Jenkins)と再婚。52年アルバート・フランシス、55年アーサー・チャールズの男子二人をもうけるが、そのジェーンは57年4月1日に亡くなっている。
このようにみてくると、ハンサードは家柄から習得した教養をもって、ニュージーランド植民地社会においてかなり高いレベルでの社会貢献をした事実は浮かび上がってくるものの、当時を描く社会世相史を扱った文献に登場するような人物ではなかった。そして一八六〇年八月、手紙で保険会社への突然の辞表を出す前後に『サザンクロス』紙に掲げた家屋の売却処分広告をもって、オークランドでの彼の足跡は忽然と消えてしまう。
ちなみに『サザン・クロス』の創刊は1843年のことであるから、ハンサードのニュージーランド移住から見ても、まず創刊に関係したとは考えられない。
日本へ
A.W.ハンサードはそれから一年経ずして、長崎の外国人居留地に現れ、英字新聞を創刊する。
そこまでのハンサードの足跡をもう一度振り返ってみよう。幾つかの文献と新聞から事実が確認されている彼の足跡を順にならべると、
@1860年12月26日付けで長崎・大浦地区の外国人人居留地31番地を登録(61年3月21日付けで31A番地も登録)している。
A『ノース・チャイナ・ヘラルド』(NCH)の船舶情報から、彼は1861年1、2月に香港・上海間を行き来している。
B61年4月8日現在の長崎居留英国人一覧によれば、「出生地がロンドン、職業は編集者兼印刷業、年齢41歳」
であるハンサードという男が、居住者として二十数人の英人名の中にある。
C5月18日付けNCHは、週2回刊行の『長崎 シッピング・リスト』(月ぎめ二ドル)が間もなく創刊されるという広告を掲載。NCHも販売代理店となっている。
D5月31日付け長崎総領事G・S・モリソンの長崎奉行宛て書簡に、ハンサードの新聞創刊計画と日本人印刷工の技術見習いに関することが記述されている。
E6月1、2日で仮住宅の願書と長崎の琢正院からの宿料受領の記録が残っている。
F7月6日付けNCHは、『長崎シッピング・リスト』第一号が6月22日に発行されたという記事を掲載
Gグラバー商会当座勘定9月1日分に、ハンサードへ七五〇ドル、『長崎シッピング』購読代金として四〇ドルの支払いがある(注1)。
このAからEまでの事実から推測すると、遅くとも1861年4月半ばには長崎にいたと言えるだろうが、ハンサードがニュージーランドから姿を消した以降のオークランド発上海行き、同シドニー行き、シドニー発上海(香港)行きなどの該当船舶の乗船名簿に彼の名は発見できなかった。ただし@から、もしこの登録がどういう形でなされたかが明らかになれば、既に彼がその時長崎に来ていたかどうか判明すると思われる。
また、彼は奨励移民ではなかったため、ニュージランドの公文書館で保管してある出入国に関する記録に彼の名は見当たらない。つまり、彼がいつオークランドを離れたかは、1860年8月頃であるとは言えても、正確な年月日は依然不明なのである。そして、彼の日本上陸はいつだったのか。「横浜から長崎へ来た」ともいわれるが……。
彼が創刊した『長崎シッピング・リスト』はロンドンのコリンデール新聞図書館に現存する7月6日付け第3号から最終の10月1日付け28号までがあるが、創刊号と続く第2号は発見されていない。しかし、創刊号の発刊は前項のFで述べたように、また英国公示機関である旨を述べた公告の日付などから、まず従来説とおり、6月22日、土曜日であったことに間違いないだろう。
同紙の後継『ジャパン・ヘラルド』そして、J・R・ブラックとのかかわりはまた別の機会に譲ることとして、話を4年先に飛ばそう。
アルバート・ウィリアム・ハンサードが横浜の外国人居留地から去るのは、1865年の夏であった。8月10日出港のエレノア号(Elenore)で彼は帰英の途についた。モントリオールを経て、同年暮れの12月7日、実に16年ぶりに故国へ戻って来た。そして約半年の空白ののち、彼の名が『タイムズ』紙面に現れるが、それは彼の日本での成果や日本のことを知らせる記事ではなかった。
「1866年5月5日、(ロンドンのリージェントパーク南側にあるアッパー・バークレー・ストリート19番地で)しょうこう熱のため死亡」という届け出が、C.スミスという男から同月8日ミドルセックス・マリルボーン地区に出され受理されている。死亡時の年齢は「45歳」、職業は「新聞経営者」と記されている。
ハンサードとワトキンス
ところで、ハンサードと最初の妻との間に生まれたマリー・エリザベスは、父の死の一年後、1867年2月26日、ロンドンのハノーバースクエアにあるセント・ジョージ教会でアルバート・トーマス・ワトキンス(Albert
Thomas Watkins)という商人と結婚した。立ち会い人として叔父にあたる父の兄トーマス・カーソンが出席しているが、実母エリザベスの名はない。マリーの住居は祖父ルークが住んでいたチェルシーとなっているから、父の死後はそこへ移り住んだと思われる。
A.W.ハンサードの義理の息子となるこのA・T・ワトキンスは、周知のとおり、神戸の外国人居留地が開かれた1866年1月4日、同地最初の英字新聞『コーベ・アンド・オーサカ・ヘラルド』(Kobe
and Osaka Herald) を創刊した男である。
H.ウィリアムズ氏の調査によれば(注2)、ワトキンスは、1865年頃には上海で雑貨店を営み、66年の日付で長崎の絵を残しているから、当時長崎に住んでいたと推測される。また68年横浜で一子をもうけているというから、マリーとの間にできた子であろう。しかし、彼の経歴からも印刷・出版業とのかかわりあいは出てこない。
(注1)長谷川進一「日本最初の英字新聞」『新聞学評論』13号(1963年)、37−48頁。@BンGとも、杉山伸也「グラバー商会」『年報近代日本研究3 幕末・維新の研究』(山川出版社、1981年、455−506頁)中の表から。グラバー商会は唯一記録に残された『長崎シッピング・リスト』購読者であろう。
(注2)キャンベラにあるオーストラリア国立図書館所蔵の「H・ウィリアムズ文庫」から。ウィリアムズ夫人のご厚意により閲覧が許可された。ワトキンスについては、彼の姻戚筋との書簡から。ただし、原書簡は見付からなかった。それによれば、ワトキンスは1882年か84年頃、北アフリカで戦死したとされる。
※注は最小必要限度とした。本論に関連するハンサードの史実についての詳しい出所については、拙論「研究ノートある英人新聞発行者を追って―A.W.ハンサードの軌跡」『コミュニケーション研究』第23号(1993年)を、また英字新聞史については『日本初期新聞全集』(ぺりかん社)第一巻解題などを参照。