ともに考える人権 大切な人だから(5)

               インターネットとプライバシー 

                                  鈴木雄雅(上智大学教授)
                    『家庭の友』1999年5月号18‐19頁掲載(一部発表後修正)

  インターネットの普及    ネット犯罪の増加    参加の自由と責任 
 

 インターネットの普及

 ここ数年インターネットの家庭への普及が急速である。『インターネット白書98』によれば、昨年初めに一千万の大台にのり、年末までには倍の二千万を超えた。うち家庭からの利用者数が五九〇万、家庭、勤務先・学校両方が六四〇万、勤務先・学校から八八〇万という数字が弾き出されている。
 
 この、コンピュータを介したネットワーク社会の進展はわずか半世紀ほどの歴史しかないが、ネットワークの接続が商用化されて以来、「パンドラの箱」を開けてしまった今日、マス・メディアに続く新しいコンピュータ・ネットワーク社会に突入しつつあることは間違いない。
 ネットワーク社会の恩恵は書き出したら切りがない。ある意味で主体的なコミュニケーションの拡張とも言える。大人でも、子供でもコンピュータという機器を使いこなせれば、時、場所を選ばず、相手が特定、不特定であろうと自分のメッセージを世界に向けて発信でき、さらにまた容易に欲する情報にアクセスできるということである。双方向性コミュンケーションの利便性がそこにある。言い換えれば、個が一方的な情報の受け手でなく、限り無く自ら情報の発信が可能になりつつあることで、それがコンピュータを介して行われるようになったのである。


 ネット犯罪の増加

 ところが、そうした実益的利用は確かに享受できるようになったのだが、呼応するかのように、匿名性に起因したと思われるネット犯罪も増加中だ。ポルノやストーカーまがいに他人のプライバシーを侵害しているもの、ハンドルネームを使って女性名を語り、結婚詐欺を騙る者(この逆はあまり聞かないが)、ネズミ講まがいのページなどなど。恩恵と同様、数え上げたら切りがない。

 インターネットがらみの、というより様々な事件にインターネットが使われるようになった。青酸カリ宅配事件、脅迫、詐欺、とばく、わいせつビデオ販売と。「ハイテク犯罪が大衆化」したともいわれる。事件が起こるとマスコミ裁判ならぬインターネット裁判が横行し、「神戸幼児殺害事件」「ダイアナ元皇太子妃事故死事件」「和歌山カレー中毒事件」のように、個人のプライバシーが無制限に暴かれたことは記憶に新しい。現行法体系の枠で取り締まることのできない状況が生まれている。

 その結果、一般の家庭内においてもそれらにとりこまれてしまう環境が成立し始めた。一番の問題は家庭にまで浸透した新たなネットワーク・メディアによって何が生じているか、将来生じるのかが把握しにくいことだ。それほど成長の早いコミュニケーション・メディアを取り込み始めたのである。インターネットは使っている本人の気付かぬところで「自己増殖」している。

 逆説的な言い方をすれば、世界と家庭が繋がることは、これまで得られなかった経験・体験、情報に接することを可能にする反面、未知の世界に容易に触れるある種のリスクを背負うことを十分承知し、対応しなければならないことでもある。すなわち、Take Your Own Risk(自己責任)の概念が第一に必要なのである。


  参加の自由と責任

 インターネットに〈参加する〉のも個人の自由である。しかし、そこに参加したからには《ネチズン》(ネットシチズン、ネット市民)の慣習やルール、倫理を守ることもまた最低限度のマナーであろう。《ネチケット》(ネット・エチケット)を身に付けない人々が、いまだ未完成の世界を謳歌していることも問題であるが、それを承知したうえで家庭はインターネット社会へ参加して欲しい。そのためにも情報リテラシー教育がいま必要とされる。坂元昴は次の六つに集約している(『ON THE LINE 』KDD、一九九六年一−二月号)

  「知」…情報の性質や内容を理解するための知識をもつこと。
  「価」…情報がもつ内容の重要性をわきまえること。
  「心」…感性を豊かにして、相手の言わんとしている心を読み取ること。
  「道」…プライバシーの尊重、偽の情報を流さないというような情報倫理をもつこと。
  「技」…コンピュータやアプリケーションソフトを使いこなせる技術を身に付ける。
  「縁」…ヒューマンネットワーク。
 
 その幾つかは既に義務教育で始まっているにしても、コンピュータは親や教師の代わりをしてくれるわけではない。また考えることを肩代わりしてくれるわけでもない。ノートと鉛筆と同じように、学習の、あるいは知識の伝達手段として当たり前のように、一人ひとりの個が必要に応じて選択して使えるようなるのが、コンピュータ利用の基本的なスタンスであろう。いわば「情報活用能力」が問われるわけである。

 かつて「ひとりにしておいてもらう権利」というプライバシーの概念は高度情報化社会のこんにち、「自己の情報に関する流れをコントロールする権利」というように積極的・能動的概念に変化しつつある。
 「顔」の見えないコミュニケーションでは容易に他者との関係を「リセット」してしまう傾向もみられる。相手へのいたわりや、やさしさがなければ、本当の意味でコミュニケーションは成立しないはずなのに。コミュニケーションの拡張であるインターネットでは、かかわる個ひとりひとりが情報の生産者であり、消費者であること、すなわちプロシューマーであることを自覚しなければならない。

 情報源になる人(情報発信者)が情報を発信する重要性とか影響力をわきまえておかないと、とんでもない混乱が起きる(起きている)ことに、いささか鈍感すぎるのではないだろうか。                     
                                                                           以 上 


(補)   

 そこで、ユーザーへの啓蒙、ネットワーク社会の家庭教育、家庭の責任、有害情報へのアクセス禁止、テクノロジーの開発(フィルタリングソフト)などが重要な課題としてかんがえられるだろう。
 ところが、完全にこれらを規制して、犯罪が全くなくなるようコントロールするしまう社会社会になると、失うもの大きさもそれだけ大きくなることを忘れてはならない。個にとって不快なもの、好ましくないものが全てなくなると、息苦しいのではないか。多少なりともあるののレベルにまでひろがってきており、容易にそれにとりこまれてしまう環境が成立し始めたことである。一番の問題は家庭にまで浸透した新たなネットワーク・メディアによって何が生じているか、現実のところを把握しにくい程成長の早いメディア(媒介)を、どう理解していいかをゆっくり考える以前に、そこにわれわれは取り込まれている現状である。 一見、新しい技術が新しい犯罪を生み出しているかのように見えるが、実はそうでもない。 爆発的なブームを呼んだ「ウィンドウズ95」(一九九五年発売)前、コンピュータによる社会的悪影響はハッカー、クラッカーと称されるATMや企業への侵入による犯罪だった。ところが、九〇年代後半になると、インターネットがらみの、というより様々な事件にインターネットが使われるようになったのである。青酸カリ宅配事件、脅迫、詐欺、とばく、わいせつビデオ販売と。「ハイテク犯罪が大衆化」したともいわれる。
 その結果、特徴的なのは社会的悪影響企業や団体から、個人のレベルにまでひろがってきており、容易にそれにとりこまれてしまう環境が成立し始めたことである。一番の問題は家庭にまで浸透した新たなネットワーク・メディアによって何が生じているか、現実のところを把握しにくい程成長の早いメディア(媒介)を、どう理解していいかをゆっくり考える以前に、そこにわれわれは取り込まれている現状である。
  上述のTake Your Own RISK(自己責任)の概念が必要であり、
 1 ユーザーへの啓蒙
 2 ネットワーク社会の家庭教育
 3 家庭の責任 有害情報へのアクセス禁止
 4 テクノロジーの開発フィルタリングソフト
 完全にこれらを規制して、犯罪が全くないような、テレビによる監視などが行われる社会になると、失うもの大きさは何のなのか。不快なもの、好ましくない者が全てなくなると、息苦しいのではないか。多少なりともあるのが自然なのではないか。
 こう書いてくると、インターネット、と言うより実はコンピュータを介したネットワーク社会は害悪をまき散らかしているばかりと思われては困る。われわれはそれによる恩恵も十分に受けているのである。