ニュージーランド新聞史(一)
『新聞通信調査会』
1999年4月号(pp.)掲載はじめに
東京朝日新聞(当時)の鈴木文史郎は「豪州・新士蘭の新聞に就いて」と題した一文を、昭和十三年版『新聞総覧』(日本電報通信社刊)に寄せている。アジアを含めての、五か月に満たない駆け足旅行であったが、「この国の人ほど新聞を読むものは他に類がないそうである」「驚くことに、人口二、三万の都会でも、朝刊・夕刊と必ず二つの新聞が存在している」「ニュージーランドの新聞について私が感嘆させられたのは、センセーショナルに編集した新聞が皆無なことである」と述べている。当時は人口が現在の三百六十六万の半分もなかったが、地味な落ち着いた編集は「一面この国の国民性による」と見抜いている。
ラグビーと羊で知られるニュージーランの国土は日本の四分の三、そこに六十余りの新聞が今日ある。一般にはオークランド、ウェリントン、クライストチャーチ、ダニーデンの四つの主要都市で発行されている次の六日刊紙が知られている。
オークランド(人口=九十九万人) 『ニュージーランド・ヘラルド』(朝刊) 二十五万部
ウェリントン(人口=三十三万人) 『ザ・ドミニオン』(朝刊) 六万四千部
『イブニング・ポスト』(夕刊) 七万二千部
クライストチャーチ(人口=三十三万人) 『ザ・プレス』(朝刊) 十万二千部
『ザ・スター』(夕刊) 十二万部
ダニーデン(人口=十一万人) 『オタゴ・デーリー・タイムズ』(朝刊) 五万一千部
(『エディター&パブリッシャー一九九八』)
このうち幾つかの新聞は、以下植民地新聞界を述べる中に垣間見られるように、長い歴史をもつ。
初期新聞界
先住民族マオリが住んでいたニュージーランドにイギリスが本格的に入り込むのは、オーストラリアへの入植が一段落する一八四〇年代初めのこと。それとともに、新聞が植民地社会に登場する。 サミュエル・レヴァンスは入植団が上陸した北島の南端ポート・ニコルソン(後年首都となるウェリントン)で、一八四〇年四月十八日、『ニュージーランド・ガゼット』を創刊し、ニュージーランド「新聞の父」という栄誉を得ている。
オーストラリアから派遣されたホブソン大佐がニュージランド全域に英国の主権宣言をするのが五月二十一日(ワイタンギ条約の調印は二月六日)であったから、それより以前のことであった。さらに興味深いのは、新天地と入植者への情報を満載した第一号が既に前年の八月、ロンドンで発行されていたことである。その意味では、同紙は植民地で最初に印刷、発行された新聞とも言える。
レヴァンスはロンドンで印刷技術を取得したのち、一八三〇年カナダに移住し、同地最初の日刊紙『モントリオール・デーリー・アドバタイザー』を創刊した経験をもった男である。英国の著名な入植促進論者E・G・ウエイクフィールドの知遇からの新聞発行となったようだ。
コロンビア式印刷機を使い発行部数は百部をわずかに上回る程と少なく、うち二十部をウエイクフィールドが買い上げていた。それでも植民地で最初に印刷された第二号に限っては四百部、さらに追加百五十部が印刷されたという記録が残っているから、当時としてはたいした数である。
四頁建て一部一シリングで始められた『ガゼット』は、「ウェリントン・スペクテーター」あるいは「ブリタニア・スペクテーター」といった題号を付け加えながらも四四年九月まで続き、レバンスが同紙の経営と編集の仕事に携わった。
植民地最初の新聞が現れてからわずか二か月後の同年六月、初代植民地総督となったホブソンが邸を構えた北島の北端にあるベイ・オブ・アイランズで『ニュージランド・アドバタイザー&ベイ・オブ・アイランズ・ガゼット』が創刊された。同地は入植初期における漁業を中心とした一般貿易の中心地であったからシドニーやフランス、イギリスからの船と人々でにぎわっていた。編集発行人は牧師B・クワイフだった。
同紙を継承する形で『官報(ニュージーランド[ガバーメント]ガゼット)』も発行されているが、ホブソン総督自身も政府主導の新聞発行をもくろみ、ワイテマタ(オークランド)に移ってからの四一年七月に『政府ガゼット』を創刊した。
入植直後に現れた新聞は直接、間接的に入植を促進したニュージーランド会社(ニュージランド協会、ニュージーランド土地会社の発展した組織で、入植促進活動を行った)及び入植地に設立されたその子会社の支援を受けていたものが少なくない。しかし、植民地政府がニューサウスウエールズ植民地の新聞紙・印刷税法(同地では激しい論争が起きた)の適用を試みようとせずとも、発行保証金額の高さに初期の新聞のいずれもが発行を続けることはほとんど不可能であったこともまた事実である。
オークランド
英国併合により首都となったオークランドには、次第に人々が集まりだした。一八四一年に入ると、オークランドで最初の新聞『ニュージランド・ヘラルド&オークランド・ガゼット』が七月十日に現れた。冒頭で紹介した『ニュージーランド・ヘラルド』(一八六三年創刊)と直接のつながりはない。『オークランド・ガゼット』は四頁建て、一シリングで二百五十部ほど発行された。同紙はシドニーなどから三千ポンドの資金を集め、有力人の信託経営であったものの、植民地政府とぶつかり、四二年四月には姿を消している。
印刷人はJ・C・ムーア、初代編集人は「ニュージーランド最初の居住者」といわれ、製粉業の先駆者でもあったチャールズ・テリーという男で、植民地人の信頼を買っていた。彼のもと、『ヘラルド』は急激な人口増加が生んだ社会環境の不備(土地、住居、社会施設の不足など)を噛みつき、さらに、教育問題や先住民への法対策などを指摘した。二代目の編集人W・コーベットも土地問題で辛辣な論調をとり、その座を引きずり下ろされている。なぜなら信託管理は政府役人に動かされていたからだ。
その後オークランドには一時複数紙が存在したこともあったが、いずれも短命か休刊日数の方が長いという新聞だった。
過渡期の新聞
さて、『ヘラルド』などが出現して安定した植民地新聞界が成立する十九世紀後半まで、いわば橋渡し的役割を演じた新聞について数紙触れておかねばなるまい。
そのひとつが『サザン・クロス』という、植民地初の民間新聞(政府から独立していたという意味)である。四三年四月二十二日オークランドに現れた同紙は約四半世紀植民地社会の状況を報じた。創刊者はウィリアム・ブラウン、編集者は『オークランド・ガゼット』最後の編集長サミュエル・マーチンだった。彼はその職を解任された時勝ち取った六三〇ポンド余りの資金を元にシドニーへ行き、良質の活字と印刷機を購入して前紙を見返そうとしていたところだった。
三か月十シリングの購読料の『サザン・クロス』はブラウン・キャンベル商会のブラウンが長い間所有していたが、経営が譲渡された六二年五月から同地最初の日刊紙『デーリー・サザン・クロス』に発展し、価格も六ペンスから三ペンスと半額になった。七六年、後述するA・G・ホートンの手に渡り、さらに『ヘラルド』に合併されたため、現存する同紙の歴史は『サザン・クロス』にまでさかのぼることができるかも知れない。
スコットランド生まれのブラウンは三九年オーストラリアのアデレードに移住したのち、シドニー経由で四〇年二月ベイ・オブ・アイランズへやってきた。その戦中で知り合ったのがローガン・キャンベルで、彼がアデレードに滞在していたホテルの名から題号を考えたのも彼であった(題号は数度変わっている)。
もう一紙は一八四五年六月七日、一部六ペンスの週刊で創刊された『ニュージーランダー』(−六六年五月)。創刊者はジョン・ウィリアムソン。共同経営者はW・C・ウィルソンだった。三年後には週二回刊となった。また五七年から三年ほど『オークランド・ウィークリー・レジスター』という付録も出している。六三年日刊となり、六五年四月からは植民地最初のペニーペーパーとなったが、年末までには再び週二回刊と減り、翌六六年発行を停止した。
北アイルランド生まれのウィリアムソンはそこで印刷技術を学び、シドニー経由で四一年に植民地にやってきた。シドニーの『オーストラリアン・クロニクル』『モニター』で働き、前述の『オークランド・ガゼット』で仕事したのち宣教師が持っていた印刷機を買い取り、印刷人でもあり『ベイ・オブ・アイランズ・オブザーバー』(一八四二年)など数紙の編集経験があったウイルソンと共同で本紙を発行した。ウィルソンは、のちウィリアムソンと袂を分かち『ヘラルド』を創刊する。
印刷業、書籍文房具業などと兼営ではあったものの、親グレイ(続くフィッツロイ)植民地総督派に近い紙面傾向により政府からの支援もあり、瞬く間に『ニュージーランダー』は植民地界をリードする新聞に成長した。彼らはそうした関係からか、政府印刷人に指名され、英国から蒸気印刷機や紙折り機の導入をはじめとして、製紙可能のリソグラフ機の輸入など、ニュージーランド印刷界の草分け的人物ともなった。
他方、『サザンクロス』はとりわけ自治政府の樹立などを声高に叫んだように、反政府、野党的な立場をとった。
ネルソン、オタゴ、カンタベリー
前二紙より一足早く南島では、北端のネルソンで『ネルソン・イグザミナー&ニュージーランド・クロニクル』が四二年三月(−七四年)に現れた。発行部数は二百部程度だったが、ウィリアム・フォックス、エドワードやスタッフォードら、のちに政治家として頭角を現す投稿者が名を連ねた。
そして南東部のオタゴ地方に最初の入植者が入った一八四八年三月からわずか九か月後、同年暮れにダニーデンで『オタゴ・ニューズ』(隔週刊)が発行されている。すぐに一部六ペンスの価格で週刊化され、当時植民地で最も安い新聞であった。 五一年創刊者のヘンリー・グラハムの死により、『ニューズ』は『オタゴ・ウィットネス』(−一九三二年)に引き継がれたが、三千人の居住者に対して部数は百二十部から二百十部だった。とはいえ、利益を得ることは到底無理なことで、編集人のウィリアム・ヘンリー・カットンは競売業や端物印刷を営むかたわら、移民協会から得た年百ポンドの収入を新聞発行に回していた。しかしそれはニュージーランド初の日刊紙となる『オタゴ・デーリー・タイムス』につながる。
『オタゴ・デーリー・タイムス』はカットンとジュリアス・ヴォーゲルが共同所有となり、六一年十一月十五日、最初から日刊紙として創刊された新聞であり、前述した初期の植民地新聞状況からも分かるように、現存する最も息の長い新聞に成長する。創刊号一部三ペンス、二千七百五十部印刷された。
南島とくにオタゴ地方が注目を浴びるきっかけは、一八五〇年代の金の発見であり、それは六〇代を通して続いた。ヴォーゲルは卓越した記者として知られるが、彼はその後政治の世界に転身し、蔵相までになった。一流のケインズ経済の導入者であり、十九世紀後半のニュージーランド社会建設の功労者の一人として知られる。
クライストチャーチでいまなお発行されている『ザ・プレス』は六一年五月二十五日、J・E・フィッツジェラルドの手により週刊のタブロイド紙として創刊された。二年後の六三年三月からカンタベリー地方最初の日刊紙となった。
以上見てきたように、ニュージーランドの新聞の日刊化は一八六〇年代を待たなければならないが、入植から二十年間でわずか十五紙しか登場しなかった新聞は、続く二十年間に百八十一紙が創刊され、百紙程が生き残る。植民地初期の新聞は入植者が上陸した港に現れ、印刷人が編集人であり、かつ経営者ともなった。一八五一年当時、六居住地合わせて二万六千人程の人口の少なさが新聞経営を困惑させた最大の要因であった。北東では自治政府、南島ではニュージランド会社の強い影響下にあったこと、電信がまだ到達せずニュース収集に組織性がなかったことなどが、この時代の新聞の性格を形作ったと言えよう。
(この項続く。参考文献類は次回に掲載の予定)
参考文献
Day, Patrick. The Making of the New Zealand
Press:1840-1880. Victoria University Press,1990.Otago DAILY Times Centennial Supplement Nov.15, 1961.
Schofield, Guy H. Newspaper in New Zealnad. Wellington: A.H.& A.W.Reed, 1962.