ニュージーランド新聞史 二

―世界との距離を縮めた電信―

『新聞通信調査会報』No.444 (1999.11.1) pp.14-16

 はじめに

 今年のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の主役を務めたホスト国、ニュージーランド。東ティモール独立問題には隣国オーストラリアとともにイニシアティブをとる。総人口の五〇%が四大都市(ウェリントン、オークランド、クライストチャーチ、ダニーデン)に集中し、日刊紙の競争が少ない寡占化傾向の強い国である。

 さて、その日刊紙が揃いでるのが一八六〇年代の植民地時代である。六一年の『ザ・プレス』(クライストチャーチ)を皮切りに、最初の日刊紙『オタゴ・デーリー・タイムズ』(ダニーデン)や『ニュージーランド・ヘラルド』(オークランド)、ウェリントンの『イブニング・ポスト』(六五年創刊)、『ザ・スター』(六八年『クライストチャーチ・スター』で創刊)など、その後百年以上の歴史を続ける新聞が登場した。

 『ニュージーランド・ヘラルド』

 一八六三年十一月十三日にW・C・ウイルソンがオークランドで創刊した『ニュージーランド・ヘラルド』は現在も続く有力日刊紙の一つである。創刊者のウィリアム・C・ウィルソンが六頁建て、一部三ペンスで始め、息子のウィリアムとジョセフが後を引き継いだ。七六年十二月にはアルフレッド・ジョージ・ホートンがヴォーゲルから古豪『サザンクロス』(四三年創刊)を合併して、競争紙を凌駕してゆく。

 この時共同経営者となったホートンはヨークシャーの出身で、『ザ・プレス』で働いた後新聞を創刊しており、ジャーナリズムに造詣が深かったことも、同紙の発展に大きく貢献した。まだ電信がなかったから、創刊直後の六五年四月十五日に起きた米大統領リンカーン暗殺の報道は、オーストラリア経由の乗船客から三か月遅れで入手、『ヘラルド』紙の七月九日付けでもたらされたという。七六年トランス・タスマン電信線が開通し、一変した。

 『ヘラルド』社は技術革新に熱心だった。八三年にはホートン自らが渡英し、新しいロータリープレスを導入した結果、従来の一時間千二百部から一挙に十倍の一万二千部の印刷が可能となった(現在は七万部)。続いてライノ型印刷機十台の購入や、一九〇九年に始めたクラシファイド・アドなど、各紙に影響を与えたものが少なくなかった。

 一九二〇年代までにハミルトンへの鉄道輸送をはじめとして、バスやトラックを使って地方への新聞配送に力を注いだ。二五年、資本金六十五万ポンドでホートン・アンド・ウィルソン社に改組され、二八年には飛行機を導入、三〇年代の電送写真とともにニュースの近代化を成し遂げたのである。

 ところで、一八七八年には『サザン・クロス』が六三年以来発行していた『ウィークリーニューズ』を発展させ、『オークランド・ウィークリー・ニューズ』(−一九七一年)としたが、九八年からリソグラフに替わって写真を入れ、同誌は読者を魅了した。以後七十年以上もの間、『ウィークリー』の愛称でフィーチャー紙の代表格の座を占めた。三〇年代から六〇年代までの黄金期は十六万部以上の発行部数があった。現在では、国内で根強い人気をもつ『ニュージーランド・ウィメンズ・ウィークリー』(一九三二年創刊、約十三万部)が核となっている。

 政治家、J・ボーゲル

 『オタゴ・デーリー・タイムズ』の創刊者として知られるジュリアス・ボーゲル(一八三五−九九年)が大蔵大臣としてW・フォックス植民地政府に入閣したのは一八六九年(首相=一八七三−七五、七六年ほか)のことである。彼は向こう十年間に一千万ポンドという巨額な借款を、鉄道・道路・電信線の整備など、いわば社会的コミュニケーションとなる基盤整備に投資する計画を立てた。この計画には反対もあったが、結局投資額は倍になったものの、八〇年までに人口は倍、鉄道は二十倍の千八百マイル、そして電信線も六倍近くの四千マイルが建設されたのである。

 ボーゲルに話を戻そう。彼は『デーリー・タイムズ』と『ウィットネス』両紙の編集を行ったが、編集方針は「オタゴで起きるあらゆる出来事をうつす鏡」であった。当時、対抗紙『コロニスト』が『デーリー・テレグラフ』を始めたから、オタゴはニュージーランドにおいて最初の日刊紙競争が行われた地ということになる。

 ボーゲルは英国流ジャーナリズムを植民地にもたらしたことで評価は高いが、他方、明らかに自身の政治的野心のために新聞を効果的に使おうとした。まだ独立した政治、政党というべきものが存在しなかった植民地社会において、新聞というメディアは意見の発表の場として最適であった。 彼はダニーデンで『ニュージーランド・サン』(一八六八−六九年)を創刊、続いて『サザンクロス』を入手している。と思えば、すぐ譲った後七三年ウェリントンで『NZメール』(週刊、一八七〇年)を買収し、同時にNZタイムズ新聞社を興した。二十八年の歴史をもつ『ウェリントン・インディペンデント』を手に入れるためでもあった。

 ボーゲルが同紙をニュージーランドのタイムズとすべき、『NZタイムズ』と改題したのは、彼の並々ならぬ意欲が表されている。それは「朝食か夕食時に国民の半分に届く新聞」として全国紙にしたい目論見があったからと言われる。が、政治的に偏向した新聞はすぐに飽きられ、ボーゲルがグレイ政権に破れるや、その運命は決まった。

 電信の上陸

 電信の事業化とオーストラリアとの間に海底電信の敷設を進めたのもボーゲルだった。電信は一八六二年、オークランド、クライストチャーチ、ダニーデンに架設された陸上線が最初といわれるが、実はその前後の六一年から六四年にかけて南島カンタベリー県のクライストチャーチ=リトルトン間など三か所でも電信が架設されていた。同地の『リトルトン・タイムズ』(一八五一年創刊)は五八年九月に早くも電信の効用を報じている。それらが六五年に植民地政府に置かれた電気電信省により統括されたのである。

 翌年電信はクック海峡を越え、北島と南島が結ばれたが、まだ七百マイルに過ぎなかった。マオリ戦争(一八六〇−七二年)の勃発で電信は一挙に拡張された。七二年にオークランド=ウェリントンが完成し、いよいよオーストラリアとの接続が次の課題となった。そして、ボーゲル自らがこの困難な協議の先頭にたち、七六年二月にトランス・タスマン・ケーブル(シドニー=ネルソン)が開通したのである。それはジャワ、シンガポール、インド、エジプト、マルタ、ジブラルタル、スペインそして本国というルートで陸を、海をつたい、電信が世界とニュージーランドの距離を一気に縮めた時でもあった。

 電信の上陸により植民地間コミュニケーションは一気に向上したが、新聞界ばかりでなく所管省の設置にみられるように、政界でも強い関心を示した。地方政府をつなぎ、中央政府が主導できるものであったからだ。

 六五年、『ザ・プレス』を創刊したフィッツジェラルドの弟、ジェラルド・ジョージが植民地最初の通信社であるNZ総合電信社を設立し、同紙ほかクライストチャーチの新聞は海外ニュースで他紙を圧倒した。しかし、高額な電信料金では採算がとれず、カンタベリーなどの新聞もこのニュースグループの仲間に入れざるを得なかった。

 一方、オタゴの新聞所有主・編集者の地位にあったボーゲルも電信に強い関心を示し、ロイター通信のシドニー代理店、グレビル社のニュージランド代表であるC・O・モントローズを使って、彼の新聞を含み十三紙が海外、植民地間のニュースの収集、配信を行っていた。高額な電信料金(七二年でも基本料金は二十五語=六ペンス)解消を目的に、この両者に共同組織を作る動きが芽生え、一八七〇年二十七社からなるPA(プレス・アソシエーション)が誕生した。それがアメリカのUPをみならったUPAの前身となる。

 ところが、PAは各地で朝刊、夕刊一紙ずつなどの独占的支配を進めようとしたため、オークランドの主要紙が独自の通信組織PA(プレス・エージェンシー)を作ったのである。この二つのPAは激しい競争するが、七九年にウェリントンでユナイティッド・プレス・アソシエーション(UPA)に再編成され、翌年には「オーストラリアとの間に電信を開通させるため」、ニュージーランド・プレス協会(NZPA)が設立されるに至り、ニュージーランドにおける国際ニュースのルートは一本化されたのである。一九〇二年のオールレッドルートの完成を経て、遂に四一年悲願の「大英帝国内の一語一ペニー」の願いを達成する。

 首都 ウェリントン

 一八六五年にそれまでの北島の北東オークランドから南端のウェリントンへの遷都が行われた。そのウェリントンで二月八日、四頁建て『イブニング・ポスト』を創刊したのはヘンリー・ブランデル(一八一四−一七八年)と息子らである。

 ダブリン生まれのブランデルは『イブニング・メール』で働いたのち、ビクトリア植民地経由で、一八六一年ダニーデンにやって来た。『オタゴ・デーリー・タイムズ』などで働き、D・カールとともに『ヘイブロック・メール』を創刊した。しかし、すでに同地でのゴールドラッシュは陰りを見せ始めていたことが分かったため、首都に決まったウェリントンへやって来たのである。

 ブランデルは新聞の独立性を維持するため、決して政府よりの報道はしなかった。

 息子らは一八七八年父の死後新聞発行業を継承し、九七年にブランデル・ブラザーズ社を結成。『イブニング・ポスト』はブランデルの息子のひとりL・プロクター、甥のヘンリー・P・ファビアンそしてヘンリー・ネイルと、四世代のブランデル・ファミリーにより経営が続けられた。グレスリー・ルーキンのように、『クインズランダー』や『ブーメラン』(クインズランド新聞社、クインズランド植民地)といった有名な新聞で活躍した腕のあるジャーナリストらを擁したことも紙面の充実に役立った。

 ところで、首都のウェリントンで一九〇七年、新たに創刊されたのが『ドミニオン』である。出版元は同紙発行のために創業されたウェリントン出版社。現在首都ウェリントンで発行される唯一の朝刊紙『ドミニオン』はこの時期に成功した数少ない新聞である。第一号は九月二十六日、ニュージーランド植民地が自治領(ドミニオン)になった日だった。

 同紙が発刊された背景には、自由主義の台頭に反発する保守的政治グループの動きがあった。一九二七年には前述した『NZタイムズ』を買収合併し、当面の競争紙を退けた。一九一〇年代から労働党も機関紙を発行する計画をもっていたが、現実には戦後を待たざるを得ず、結局はそれも長くは続かなかったから、『ドミニオン』の独占を揺るがすような新聞はついには登場しなかった。 ウェリントン出版社は六五年首都で最初の日曜紙『サンデー・タイムズ』を創刊し、まさに首都圏新聞の牙城を築き始めた。その前年、ルパート・マードックの海外進出の最初の標的にされたのがウェリントン出版社である。カナダのトムソン卿との争い(パッカーの進出争いの話もあったという)に勝利を収めたマードックは二九・五七%株の取得に成功し、現在は四九%を所有している。 ほとんど語られることはないが、マードックはニュージーランドの首都紙に一大影響力をもっていることになる。というのは、一九七二年には前段で述べた歴史ある夕刊と首都唯一の朝刊、日曜紙を発行する二社が合併されてウェリントン新聞社となり、結局は、それが現在の二大グループのひとつ、INL(インディペンデント新聞社)を形作ることになったからである。 

[参考文献]

キース・シンクレア 『ニュージーランド史』 (評論社、一九八二年)

地引嘉博『現代ニュージーランド』(サイマル出 版会、一九八四年)

Day, Patrick. The Making of the New Zealand Press:1840-1880. Victoria

University Press, 1990.

Otago DAILY Times Centennial Supplement, Nov.15, 1961.

Schofield, Guy H. Newspaper in New Zealnad. Welington: A.H.& .W.Reed,1962.

The Weekly News Vol.2:1920s. Auckland: Moa Publications, 1988. 

(この項続く)