ルパート・マードックのメディア戦略

         「ダーティー・ディッガー」から世界のメディア王

               鈴 木 雄 雅

  はじめに

一 オーストラリア ジ・オーストラリアンの創刊、シドニーへ進出

二 イギリス、アメリカへ上陸 日曜紙、大衆紙

三 再旋風の時代  一九八〇年代 

   タイムズ獲得 オーストラリアを征し、買収にはずみ

四 再び買収活発化 一九九〇年代 

   アジア、中南米市場へ 日本に上陸さらにヨーロッパ大陸へ

五 帝国の将来 無限の事業欲

 はじめに

 マードックが日本においてマスコミばかりでなく、社会的にも知られるようになったのは、いまから三年前のテレビ朝日に対するM&A工作(正確には旺文社所有株の買い取り)で「黒船の襲来」などと騒がれ、衛星放送JスカイBの立ち上げなどをぶち上げたあたりからであろう。突然のメディア買収、一般的には決して高い知名度がなかった孫正義と組むこと自体で驚かせ、即座に日本上陸の第2弾をうつ。さらに、一度入り込めば「経営には口を出さない」といったようなことは翻して強硬策にでる一方、JスカイBが無理と思えば、パーフェクTVと組み直すやり方。ブラフに近い発言でまず相手を驚かせ、威嚇し、所有株をコントロールして硬軟を使い分けるあたりは、百戦錬磨のメディア買収人とうつるかもしれない。そして、うまいところで株を売却し、利益をあげて、次のターゲットへ注ぎこむのも彼の常套手段である(1)。

 どれもこれも、エリートのメディア所有主の父が亡くなり、母親と裸同然で放り出されたルパートが、その後半世紀近くマス・メディアと関わりながら学んだ経営哲学なのではないか。「拡大か、さもなくば死」−−それが彼のメディア戦略の根源にある。

 本稿では、オーストラリアが生んだ世界的なメディ王、ルパート・マードックの事業展開を軸に、小都市アデレードから、イギリスに進出してアメリカ大陸へ殴り込み、さらには中南米、アジア市場に旋風を巻き起こしている状況と問題点を考察する。

 マードックの事業拡大手法の特徴は、桂敬一がつぎのように分析している(2)。

(一)買収・合併を有力な手段とする。

(二)人を出し抜いて、新しい事業に果敢に挑む。

(三)事業成功のためには、いかなる手段も辞さない。

(四)新聞なら部数、テレビなら視聴率を、メディア・ビジネス成功の価値観としている

(五)事業を国際的な視野で展開し、その事業は全世界にまたがる

(六)事業領域の拡大が、映画、衛星多チャンネル・デジタル放送、電気通信、インターネット、データベース・サービスなど多岐にわたる

 マードックとニューズ・コープ(ニューズ・コーポーレーション、シドニー)は生き残るか。

 

 一 オーストラリア 『ジ・オーストラリアン』の創刊、シドニーへ進出

 マードック帝国の今日は、イギリスのプレス・バロン、ノースクリフにたとえられ、サウスクリフの異名を得た父キース・アーサー・マードック(3)の急死により、アデレードの小新聞社であったニューズ社(4)の経営を引き継いだことに始まる。その本家であったヘラルド&ウィークリー・タイムズ・グループ(HWT)(5)を買収獲得して、オーストラリアのメディア界を制するのはそれから三〇年近くかかるにしても、その道程が彼の生き方をそのまま示してくれる。

 一九六〇年代初頭までに、地方紙や郊外紙、オリンピックに合わせて開業したメルボルンのTV局などを手にして自力をつけていた彼は、オーストラリア最大の都市シドニー進出をもくろんだ。朝・夕刊紙をもつミラー新聞社をノートン家(6)から買収して、まずフェアファックス、パッカーに続く第三勢力であった同家を潰した。

 父と同様、イギリス流大衆ジャーナリズムにならい紙面改革で業績をあげると、三〇歳そこそこで偉業を成し遂げる。それが、一九六四年首都キャンベラでオーストラリア初の全国日刊紙『ジ・オーストラリアン』を創刊したことである。この広大な大陸で全国紙などは成功するはずがない、との既成の考えに真っ向から挑戦し、既に三十五年が経つ。そして、七〇年代初めシドニーの『テレグラフ』(朝刊・日曜紙)をパッカー家(7)から獲得、第二勢力を駆逐した結果、オーストラリアにおいてHWT、フェアファックスに続く新興メディア勢力としての座を占めるようになると、もう誰もマードックを「コピー・ボーイ」とあざ笑うものはいなくなった。

 ここまでが彼の第一段階である。

 植民地時代から新聞は同族経営であり、各州で一族経営者が勢力を保持し続け、HWTはそれを越えた大帝国として君臨していたから、HWTの頂点にいた父からマードックもその経営を継承できるものと思ったのも当然であろう。しかしながら、経営者であっても実際には少数所有株主でしかなかった父の死後、母親と彼の手元に残ったのは儲けのない小さな新聞二紙だけであった。それが今日ニューズ・コープ本社の本家とも言えるクルーデン、そして経営要所を親族で固め、所有株にこだわるところである。

 第二に、首都を本拠にした全国日刊紙創刊という大胆な発想も、のちの彼の生き方を現した証左であると指摘されよう。首都で新聞を発行することは新聞人誰でもが願うことである。しかし、オーストラリア大陸となれば別の話だ。当時はまだキャンベラでの印刷、各州都への発送は空輸という手段しかなかったが、その後の技術革新により、名実ともに唯一の全国日刊紙として君臨する。事実、マードックは当時一地方紙に過ぎない『キャンベラ・タイムズ』の買収を試みたものの、失敗している。

 思い起こして欲しい。オーストラリアと同じような地理的状況から、一九八〇年代アメリカで創刊された全国日刊紙『トゥデー』は成功するはずがないと言われた。同紙登場の時には、すでに衛星回線やファクシミリを使っての遠隔地印刷は十分可能だったにもかかわらず、多くの専門家は異口同音にそう言った。

 だが、今日『トゥデー』はアメリカばかりか、世界各国で印刷発行されている。読者がそこにいるからだ。そしてマードックは次から次へと読者を生み出している。

 

 二 イギリス、アメリカへ上陸 日曜紙、大衆紙

 シドニーで頭角を現す頃、マードックは母国への橋頭堡を築く道も歩み始めていた。既にカナダ系のロイ・トムソンが地方紙の雄『スコッツマン』(スコットランド)に続き『ザ・タイムズ』を買収したイギリス新聞界が確実に新しい時代に入っていたことに、彼は気づいていた。言い換えれば、十九世紀末のノースクリフ卿から始まったプレス・バロンとフリート・ストリートの時代に陰りが明らかに見え始めつつあった。

 一九六九年、カー家がもっていた最古参の大衆日曜紙『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』を、マードック同様アウトサイダーとして進出してきたロバート・マクスウェル(8)と争い、手に入れる。以後、マクスウェルはマードックの挑む所に必ずでてくるが、結局彼の前では舞台を引き立てる役者に過ぎなかった。さらにIPCの左翼系新聞『サン』を買収して、タブロイド紙に衣替え、大成功を収める。マードックにとって、それはさほど難しいことではなかった。シドニーの『ミラー』で成功したとおりやれば、大衆に受けたからである。IPCはノースクリフの甥、セシル・キングが持っていた新聞グループで、父はノースクリフに師事し、マードックはその強敵ビーバーブルック卿(初代)の『エクスプレス』で働いていたから、ある意味でイギリス新聞界に恩返ししたことにもなるのだろうか。 金に糸目をつけず、この二紙を、センセーショナルなタブロイド手法(ページ・スリー・ガールズ=第三面に女性のヌード写真掲載、小切手ジャーナリズムなど)成功させた自信を背に、即座にアメリカへ目を向ける。シドニー勢力にのし上がった翌年のことであるから、その動きは実にエネルギッシュであったとしか言い様がない。

 まずテキサス州の三紙を買収合併後、ニューヨークに乗り込んだ。『ニューヨーク・ポスト』など名門紙・誌を買いまくり、売却で儲けたものもあったが、アメリカ上陸はこれまでのマードック流のやり方だけでは成功しないことを教えてくれた。『タイム』一九七七年一月一七日号の表紙は、ニューヨークのビル街の上にマードックの顔をなぞらえたキングコングが仁王立ちする絵で「特報 オーストラリアのプレス・ロード、ゴッタム市(著者注:バットマンの舞台になる架空都市)を恐怖に陥れる」とある。手には『ポスト』のほか彼がアメリカ人から買い取った紙・誌が握られている。

 怨念のHWTへの二度目の買収工作は、競争相手のフェアファックス・グループらの強い阻止にあい失敗に終わるが、シドニーのチャンネル10ほか、アンセット航空、運輸大手のTNTなどが転がり込み、株式公開買い付け(TOB)をかけて結果的に高く買い取らせたことになり、思わぬ利益を得、いわば転んでもただでは起きない一面をみせた。実はこの、メディア以外の企業買収はのち多少なりとも続く。彼の戦略としては最初であり、いわばフロックとも言えるものであったかもしれないが、いずれにせよ、メディア経営を補完する材料として利用するところに、マードックの天才的な目利きを読み取れる。

 イギリス、アメリカへの進出は、彼のメディア事業拡大の第一段階のひとつの区切りとしてとらえれば、それはマードックの新たなる飛躍の前ぶれに過ぎなかった。

 

三 再旋風の時代 一九八〇年代   タイムズ獲得 オーストラリアを征し、買収にはずみ

  一九八〇年代、マードックは七〇年代から得た教訓を生かす。

 フリート・ストリートの雄である『ザ・タイムズ』を手に入れることがイギリス新聞界を制すること、それには、政治の中枢と組むこと(9)であった。まさにプレス・バロンの先駆者たちと同じ哲学であったかもしれない。トムソンの『ザ・タイムズ』『サンデー・タイムズ』などの買収には、政界をはじめかなりの抵抗感があったのは事実で、それでも赤字続きの、沈みかける名門紙を買い取ることに成功する。さらにロイター通信社にも手を染めた。ニュース配信、それも世界にネットワークをもつ本家をコントロールしたいと願う、これもまた先駆者たちの教えであった。彼は着実に成長してゆく。その一方、着々とHWT攻略を進め、積年の恨みを返す時期をうかがっていた。

 マードックの技術革新と経営を結び付ける手法は、『ザ・タイムズ』の経営合理化にみられるワッピング移転と成功に象徴されるが(10)、それは時代の先取りであり、以後フリート・ストリート=新聞社街の図式はあっけなく崩れ去り、輪転機の音は消える。技術革新にいち早く目を向け、既存のメディア・システムに取り込もうという斬新な方法は『ジ・オーストラリアン』創刊までにさかのぼられようが、それは時に強引さ、傲慢さとうつる。

 マードックが次に、というより既に目をつけていたのは、映画、テレビという映像メディアであった。五〇〇年続いた活字メディアの次に出現したメディアに成長した映像メディアと、オイルショックの後いかに流通コストを効率的にできるかの命題を克服するために実用化されつつあった衛星、コンピュータも視野に入れていた。そして、遂にメディア大国アメリカにおけるテレビ・ネットワークと映画産業に本格的な殴り込みをかける。七〇年代見事に跳ね返された屈辱感をバネに、巻き返しを図ったのである。

 こうした背景のもと、マードックのアメリカ攻略の第二段階は始まった。五〇年代のアメリカにおけるテレビ揺籃期を見たマードックは、オーストラリアにおいても草創期からテレビに注目していたから、彼の狙い目がはずれることはなかった。彼のメディア融合は既に始まっていたのである。

 一九八〇年代半ばまでに、再びアメリカのメディア市場に挑んだマードックは、なかでもハリウッドの四大メジャーのひとつ、二〇世紀フォックスを買収することに成功、フォックステレビとともに、既存のメディア王国の一角を占めるようになった。そのためにはオーストラリアを捨てる(アメリカ国籍を取得)彼の行動は、新世代メディ・モガルではあっても、理解しがたい一面があった。

 同時期オーストラリアにおいて、三度目となるHWTへの買収工作を仕掛け、長年の夢を果たす。それはHWTがマードックの軍門にくだる(彼は取り戻したと考えているだろう)一方で、オーストラリア・メディア業界の再編成と、まさに「土地転がし」のようなメディア買収が始まったのである。結果的に三大ネットワークの所有者が全て替わり、「ニュープレイヤー」と呼ばれるメディア・オーナーの進出を生んだ(11)。

 八〇年代をとおして、マードック旋風はイギリス、アメリカそして母国オーストラリアにおいて吹き荒れ、その影響はそれぞれの地でメディア変革を生み出すもとにもなった。最も顕著な例はオーストラリアであろうが、イギリスではフリート・ストリートの終焉を促し、マクスウェル、C・ブラックら外資系メディア・モガルが幅を利かせるようになった。オーストラリアとて同じ傾向が顕著になる。それらは再び競争の時代を呼び起こしたばかりか、確実に欧州大陸をメディア変革の嵐の中に引きずり込もうとしていた。アメリカでは次々とメディア買収を繰り返し、結果的にABC、SBC,NBC三大ネットワークの牙城への揺さぶりが始められた。

 その無理がたたったのか、八〇年代末から九〇年代初め過剰な投資と収益の悪化から業績不振となり、これまでにおいて最悪の事態を迎える(12)。

 四 一九九〇年代 業績不振から再び買収活発化アジア、中南米市場へ 日本に上陸さらにヨーロッパ大陸へ

 息を吹き返すきっかけとなったのは、皮肉にも、新しい時代の幕開けでもあった。

ヨーロッパにおいて、マードックが立ち上げた衛星放送スカイテレビと英国衛星放送会社BSBはまだ未開発の市場競争において共倒れする兆候をみせ、先に音をあげたのは後者のほうだった。彼のBSBを買収合併する形でマードックがBスカイBとして一本化した頃から、ヨーロッパにおける多チャンネル・商業放送の定着化が進行し、それがマードックを助けることになる。先を見越した過大な投資と失敗が足を引っ張ったのも事実だが、天が彼を味方したのかも知れない。

 アジア市場、とくに中国に彼が目を向けたのは、かつてのような新鮮さではない。世界のメディア・モガルやグローバル化を目指すメディア・オーナー達が九〇年代以降、競うあうようにアジアへなだれ込んだ(13)。彼等が生き残るための新しい市場として成長しつつあったアジアは、まだ未成熟の中南米やアフリカ大陸に比べて全て魅力的であった。逆の意味で、マードックが既に中南米へも手を伸ばしていることにもっと注目すべきだろう。

 一九九〇年代、マードックのメディア戦略で顕著化したひとつに、ソフト重視策がある。衛星とCATVに供給する番組ソフト、それもおおもとを押さえてしまい、高額で独占放映権を獲得するやり方だ。北米で人気のアイスホッケーリーグ、大リーグ・ワールドシリーズ、球団買収、ゴルフツアーにはじまり、ヨーロッパではサッカーチームを買い取り、ワールドカップの独占放映権を、そしてオーストラリアでは新しいプロラグビーリーグまで作るといった具合である。それはマルチメディア時代に向けて、その三要素と言われる「インフラストラクチャー」「プラットフォーム」「コンテンツ」の領域の中心部の王となるべく、「漁り」のようにもうつる。

 スポーツ有料チャンネルを視聴者獲得のコアとして、次々とスポーツソフトの独占を企てている。日本でも既にラグビーリーグの衛星放送独占化を画策した。気付いた時には、もう遅い。莫大な放映権料を払うか、マードックのチャンネルに加入しないと一流のスポーツ中継を見ることができない。いずれにしても、つけは視聴者に回ってくる(14)。

 と同様、三大陸をまたにかけた出版部門(ハーパーコリンズ)の勢いはまさに金に糸目をつけず話題作りを提供する。サッチャー、メージャーら英首相経験者をはじめとして、ギングドリッジ・米下院議長の回顧録、パッテン香港総督の自伝、 ケ小平の娘に父の伝記をかかせるために、そしてモニカ・ルーウィンスキーの出版に数百万ドルの報酬をオファーする。当然他のメディアも競争に走った。

 第二に新聞界で極端な価格値下げ競争を仕掛けている。八〇年代イギリスで始まった大衆紙のビンゴ競争や価格値下げ競争は沈静化したものの、今度は高級紙の値下げを画策し、それはイギリス以外の国まで及んでいる。いずれも大衆紙からあがる利益を回しているからマードック帝国自体は揺るがないが、『インディペンデト』のような高級紙はたまらない。『ザ・タイムズ』はこれにより、わずか数年で発行部数を倍近くの伸ばした。

 ただ、価格が安くなったから高級紙というカテゴリーの読者が増えたかというと、必ずしもそうでない。むしろ紙面が従前の紙面でなくなっていることに注意すべきであろう。逆説的に言えば、それだけ紙面が大衆向けになったのか、あるいは大衆がマードック好みになってしまったのか、ということだ。

 実に古典的なやり方である。歴史的にみれば、そうした現象はいずれ自分の首を締めることとなり、瞬間部数の増加は一時的な効果はあっても、最後は消え去る運命と言えた。ところが、今日部数、数量的に圧倒する媒体に、読者も、さらには広告主も移りやすい傾向にあるから、従来の検証例がそのまま通じるわけでもない。とくに単体メディアでなく、多メディアを傘下に収めているグループには有利であろう。メガ・メディアの登場である。かつて大衆紙をもたらした手法「タブロイダイゼイション」が現代の新聞ばかりか、映像メディアをも浸食し始めており、マードック流手法がまさにそれなのである。

五 帝国の将来 無限の事業欲

 一九八七年からのHWT買収工作により、オーストラリアにメディア再編の嵐が吹き荒れたのち、マードックは全国/大都市日刊紙市場で十二紙中七紙(発行部数比はそれまでの二八%から六六%へ躍進)、一〇日曜紙のうち七紙(同七六・四%)を占め、地方日刊紙では二割だが郊外紙にいたっては紙数、部数とも五割近くをもつほどになった。放送か活字かを迫られ、活字王になる道を選んだにしても、その後ペイチャンネル「フォクステル」を始めており、ホーク労働党政権がもくろんだメディア・クロス法(一九八六年)はあまり意味をなさなくなってしまった。同様、イギリスでも日刊紙市場での所有主の総発行部数の上限を設けたものの、マードック自身がBスカイBにシフトし、スポーツ・ソフト独占にみられるように次世代の読者(視聴者)を目標としている。マードック阻止を狙ったアメリカでも、結局国籍をかえるという、究極の手段をとることにより、三大ネットワークの基盤を揺るがすフォックスは、テレビ、映画そしてケーブルテレビへ侵攻している。

 話はややそれるが、ヨーロッパでは一九七〇年代から活字メディアの不振から、メディア企業の買収が進み、旧来のメディアオーナーから全く異種企業の、例えば石油会社や軍需産業などの進出もみられ、イギリスのような同業外資の参入はその中ではまだ救われた方かも知れない。そうした巨大化するメディア独占、寡占に各国は憂慮し、先のようなメディア規制(所有主の総発行部数の上限、複数所有制限、複合所有制限、所有主の国籍を問うなど)を設けたのだが、それはそれで次の知恵を生む。というのは、国内市場での勢力拡大が法的に無理ならば、その矛先を国外に向けたのである。コンピュータ革命、流通の改善、とりわけ衛星による伝送路の発達と、まさにメディア融合にふさわしい時代を迎えようとしつつあった。

 アメリカでも、一九七〇年代頃には前世紀から続く地方紙の世代交替がみられ、その相続税の高さに新聞を手放すものが増えた。そして大手所有主は肥大化する一方、弱小メディアは廃刊か、生き残るためには合併吸収されるかのどちらかを選ばなければならなかった。イギリスではもう少し早かったし、ヨーロッパでは例外を除けば規制緩和による商業テレビ開放は一九八〇年代以降活発化する。

 そのように、大陸ごとにやや時間的差異はあるにしても、既にアジア、いずれ残りの大陸にも同じようなことが起きるであろう。とすれば、世界のメディア・プレーヤーもマードック同様、同じ道を歩み始めている。

 ただ少しだけ、マードックが早く歩き始めただけである。前年比一四%増のニューズ・コープ一九九八年売上高一二八億ドルの四分の三はアメリカからで、二三%がイギリス、オーストラリアはわずか五%にとどまる。また、メディア別の営業利益をみると、TVが三分の一で、新聞が二五%、雑誌などが二二%、映画は一五%にとどまる。「タイタニック」(二〇世紀フォックス、一九八七年)のように映画史上最大の配給収入をあげても、映画部門のコスト高は頭が痛いところだろう。

 帝国の将来に疑問をはさむ声がないわけではない。ケビン・メイニーは、マードックが健在な限りメガメディアの大プレーヤーにならないわけではない。彼の権力と積極性とビジョンが強みである、と認めつつもそれが最大の弱点であると断言する(15)。ニューズ・コープの運命はポスト・マードックいかんというところだろう。すでにマードックはラクランを後継者として自社の中枢に配し、経営哲学を学ばせている。自分のもつ強みが弱点になることは十分承知しているようにも思えるが。

 付 マードック語録

 

「自分以外の全世界を相手にした、終生続く闘い」(父の遺産を継承した、二二歳の時)

「あれは理想の追求であった」(『ジ・オーストラリアン』の創刊を語って)

「君はもはや、私の思い通りの新聞作りをやっていない」(編集者を辞めさせる、彼の常套句のひとつ) この言葉によって、多くの良心的ジャーナリストが彼の前から去っていった。

「マードックの行動の裏には、いつも二つの目的があったように思う。一つは父親キースを追い越すこと。もう一つは世界を動かすこと」

「私の過去は絶え間ない戦争の連続だったと言える」

あの手紙によって、歴史が変わったのだ」(父キースが発表して、一躍名を不動のもの にした「ガリポリの闘い(一九一五年)」を語った書簡を読んで)

「陰りのある新聞は安く買いたたくが、欲しいメディアは高額でも欲しがる」(彼の買収哲学のひとつと考えられるだろう)

「マードックは世界一リスクを顧みない人物」(バイアコム会長S・レッドストーン)

「とんでもない天才」(CNN会長T・タナー、マードックは彼から、ヒトラー呼ばわりもされている)

(1)一九九六年の日本上陸は、それまでの彼のやり方からすればやや珍しかった。と言うのは、九〇年代彼がメディア市場戦略のターゲットとしたのは経済成長期に入ったとみられた中国であった。第一段階で入手した活字媒体『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』をあっさり切り捨て、衛星放送(香港のスターTV買収)に目をつけたが、同放送のBBCニュースの反中国内容に中国政府がクレームをつけたため、これをはずし行き先にやや暗雲が立ち込めたのである。そこに、マスコミ大国である日本が放送法の改正で、電波を国外に出すのも、また外国の電波を受信することも認めたからである。実にいいタイミングである。

 いわば、「棚からぼた餅」式の日本進出であったと分析できる。それは、孫氏と組んだこと、のちに彼とは袂を分かつ(孫氏側の理由があろうとも)結果をみれば、容易に想像できる。誰もが十分なリサーチをした上での参入とは思えない。まさか郵政省がマードック流の施策に便乗して市場開放政策を打ち出したとは思えないが、既に政治の世界と組むことが世界市場をはっきりと目標にとらえた彼のメディア戦略からすれば、そうしたことが全くなかったとも言い切れない面も残る。そして、いかに朝日側からの株買い取りがあったにせよ、同額での売却は彼の経営哲学からみれば不思議としか言いようがない。ここから導き出される疑問は、一連の過程でマードックに為替損益あるいは金銭以上に得るものがあったのならば、それは何なのであったかである。音好宏「巨大メディア資本が揺さぶる マードックの世界戦略の光と影」『放送レポート』一四二号(一九九六年九月号)、一六−一九ページ。

(2)桂敬一『メディア王マードック上陸の衝撃』(岩波ブックレット四一二、一九九六年)。

(3)父キース・A・マードック(Sir Kieth Arthur Murdoch, 1885-1952)については、D.Zwar, In Search of Kieth Murdoch (Melbourne: Macmillan, 1980). Australian Dictionary of Biography (MUP,1988 ), Vol.10, pp.622-627. などを参照。

(4)A.Savvas, comp., Sixty Nine Years of Events From The Pages of THE NEWS (South Australia: A.Savvas, 1992)

(5)HWTグループの社史はないが、G・ソータ著のフェアファックス社史が参考になる。G.Souter, Company of Heralds (Sydney: John Fairfax and Sons, 1981), HERALDS AND Angels (MUP, 1990)

(6)ノートン家については、Australian Dictionary of Biography (MUP,1990), Vol.11, pp.41-42. M.Cannon, That Damned Democrat (MUP, 1981). 拙稿「一九世紀後半のオーストラリア新聞界(3)」『コミュニケーション研究』第二五号、五四−五九頁。

(7)Paul Barry, The RISE and RISE of KERRY PACKER (Bantam Book, 1994) Australian Dictionary of Biography (MUP,1990), Vol.12, pp.117-118.

(8)J・ヘインズ、田中(訳)『マクスウェル』(ダイヤモンド社、一九八八年)。T・バウアー、山岡(訳)『海に消えた怪物』(文藝春秋社、一九九二年)。

(9)最もよく知られるのは、オーストラリアにおいて一九七〇年代初めのウィットラム労働政権樹立の後ろ盾にマードックがおり、その崩壊にもまた彼が大きく動いたことだ。HWTの買収成功には、閣内の政治的対立に絡んだキーティング蔵相(当時、のち首相)との密接な関係が役立った。マードックは労働党にとって「メイト」」だったからである。イギリスでもサッチャー政権を強く指示することで、ニューズ・コープの勢力拡大が図られたし、現在のブレア政権の擁立もマードック系メディアの強い後押しがあった。アメリカでもカーター、レーガンをはじめ多くの政治家との交際からもたらされたものは計り知れない程のものであろう。もっとも、マードックは政権を作りあげるより、壊す方に魅力を感じているようでもある。

(10)門奈直樹「マードックの新聞を買うな」『総合ジャーナリズム研究』一一九号(一九八七年冬)、六六−七三ページ。

(11)オーストラリア・メディア界の再編成については「混迷続くオーストラリアメディア界」『新聞研究』四八五号(一九九一年一二月)を参照。マードックの第一回HWT買収工作(一九七九年)については、拙稿「オーストラリアの新聞・放送界」『総合ジャーナリズム研究』九四号(一九八〇年一〇月)、第二回(一九八六−八七年)「オーストラリアのメディア事情」『新聞研究』第四五一号(一九八九年二月号)および「マス・メディアの寡占化と表現の自由の問題」『オーストラリア研究紀要』(追手門学院大学)第一四号(一九八八年)に詳細した。

(12)B.Benfield and others, MURDOCH: The Decline of an Empire (London: Macdonald, 1991).

(13) 拙稿「アジア太平洋地域におけるマス・メディア−衛星放送の進出は何をもたらしたのか」『東亜』三一号(一九九五年一月)、八六−一〇〇ページ。

(14)海部一男「放送事業におけるマードックの世界戦略」『放送研究と調査』一九九六年一〇月号、三二−三七ページ。村瀬真文ほか「変貌するメディアとスポーツビジネス(2)ヨーロッパ〜有料放送の独占に歯止め〜」『『放送研究と調査』一九九九年二月号、一二−二九ページ。

(15)ケビン・メイニー、古賀林幸(訳)『メガメディアの衝撃』(徳間書店、一九九五年)、二六八−二七七ページ。

◆マードックについて(注掲載以外)

J.アーチャー、永井(訳)『メディア買収の野望』上下(新潮社文庫、一九九六年)。今井澂・山川清弘『世界のメディア王 マードック』(東洋経済新報社、一九九八年)。T・トッチリー、仙名紀(訳)『マードック』(ダイヤモンド社、一九九〇年)。W.ショークロス、仙名紀(訳)『マードック 世界のメディアを支配する男』(文藝春秋、一九九九年)。「世界の新聞王ルパート・マードックが吠える」『フォーブス』(日本版、一九九四年一二月号)、一四−一七ページ。「メディア王たちの支配」『新聞経営』一一三号(一九九〇年)。拙稿「R・マードック:メディア・バロンの誕生」『ソフィア』(上智大学)三五巻三号 一三九号(一九八六年九月)、九九−一〇二ページ。拙稿「メディア・モガルに所有権が集中」『月刊民放』一九九八年九月号、三八−三九ページ。

◆その他 参考文献

T・グレー、江口ほか(訳)『さらばフリート街』(新聞通信調査会、一九九一年)。

M・クロージャー、川上ほか(訳)『創刊』(サイマル出版会、一九九一年)。

J.ローレンソンほか、倉田(訳)『ロイターの軌跡』(朝日新聞社、一九八七年)。

Piers, Brendon. The Life & Death of the Press Barons . London: Secker & Warburg, 1982.

Tunstall, Jeremy. Media in Britain . London: Sage, 1986.

          Newspaper Power: The New National Press in Britain. Oxford, 1996. 

 

「マードック帝国の拡大」年表は略

 以 上