国際コミュニケーション論の再考と展望

                         ジャーナリズム研究会(代表 鈴木雄雅)*
                       『コミュニケーション研究』No.30(2000.3)掲載
 はじめに(鈴木雄雅)
1.国際コミュニケーション論の系譜 
 1−1 開発コミュニケーション論(原田)
 1−2 文化帝国主義的アプローチ(上原)
 1−3 ポスト文化帝国主義的アプローチ(椎名、朝桐)
2. 国際コミュニケーション論の展望              
 2−1 文化帝国主義的国際コミュニケーション論の展望(上原)
 2−2 批判的国際コミュニケーション論の展望(椎名)
 2−3 「グローカリゼーション」への可能性(朝桐)
 2−4 日本発のマンガ・アニメにみる国際コミュニケーション論(原田)  
おわりに(椎名)
参考文献

*本稿は研究会の原田繁(日本マス・コミュニケーション学会会員)、 椎名達人(国際通信経済研究所主任研究員)、(上原伸元同研究員)、朝桐澄英(福島工業高等専門学校コミュニケーション情報学科助手)による共同執筆である。また編集にあたって本学大学院新聞学専攻・浅利光昭氏より多大な協力を得た。


はじめに
 21世紀を直前にひかえ、大学教育が揺れるなか「国際」「情報」「コミュニケーション」の名を冠した学部、学科が急増している。
 「国際コミュニケーション論」の科目が本学科に設置されたのは1969年度からである。学科設立当初からの「比較新聞学」「英字新聞研究」といった科目が出発点となり、本学の国際性をいかし、国際コミュニケーション論、比較コミュニケーションとに発展させ、米英、ヨーロッパ、アジアなどの外国マス・メディア論を設けた(『新聞学科五十年の記録』より)。名称に多少の変更があったのものの、現在も基本的な流れは同じと言ってよい。1984年度から学科2年生の必修科目になり、筆者も数度担当したこともあるが、学科の中心的科目のひとつである。

 International Communicationに由来する国際コミュニケーション研究ではウォルター・ウィリアムズ(米・ミズーリ大学)、ドイツのカール・デスター、そして小野秀雄の3人の名が先駆者としてあげられているように(Fischer and Merrill 、1975)、70年前に小野が目指したアカデミニズムとしてのジャーナリズム研究・教育のディスプリンとして必要欠くべからざる研究が日本でもようやく育ち始めた感がする。彼らはマス・メディアの拡張と国際環境のなかでマス・メディア−当時はまだ新聞が主流−の機能、役割に注目しており、その影響が国境や地域を越えて、世界中へ広まりつつあることを見事に予見し、現実化していることに気付く。
 用語としてinternationalization、globalism(globalization)、はたまたsatelliteやinternetが脚光を浴びようとも、時代時代によりメジャーな組織がシステム内に組み込むしたたかさは変わらないだろう。そして、この国際コミュニケーションの分野は、世界の主要紙が現地印刷・発行を、またメガ・メディアが活字媒体を世界各地で直接、間接に発行しようとも、衛星放送が本格的な時代に入った今日、映像メディアのグローバルな影響は図り知れなくなりつつある。
 映画「ユー・ガット・メール」では見知らぬ男女がひょんなことからEメールで知り合い恋に落ちるが、男の方は実は大書店の御曹司、女はその大書店の進出に閉店を迫られている、子供たちに本を読み聞かせることで知られた小さな絵本屋さんを経営しているという設定だった。これだけでも現代社会のメディア状況を醸し出しているわけだが、ここで注目されるのはそのEメールなるものにAOLのロゴがやたらでてくるということ。コンピュータ社会の恐怖を描いた「インターネット」ではPC画面やアイコンはやたらとでてきたものの、アイコンをクリックして画面が消えるというところで終わり、特定の会社のロゴなどは出てこない。
 と思えば、「ホーム・アローン」ではAA(アメリカン・エアライン)、「インディペンデス・ディ」ではアップル・コンピュータがラストシーン直前に重要な役割を果たしている。IBM(「コンタクト」や「ミレニアム」)、コンパック(TV映画「ER」「X−ファイル」)といったコンピュータ・メーカーも頑張っているし。女性の上司対部下の男性という、いわゆる逆セクハラ問題を扱ったとはいえ、実はコンピュータの役割を見事に描き出している「ディスクロージャー」ではマイクロソフトが実に巧妙に入り込んでいる。
 マイクロソフトの独占、分割が話題となれば「ネットフォース」では、世界の美術財産をコンピュータネットを使って手に入れようとする偽善者のモデルになってしまった。「007」シリーズでは英国の秘密諜報員が活躍する場面でかつてのアストン・マーチン(英国車)からBMW(ドイツ車)へと変わっているし、前作ではマードックを模したメディアの帝王の陰謀を暴くというシナリオだった。そして、「星の王子、ニューヨークへ行く」では、エディ・マーフィーが最初に働くハンバーガーショップの名が「マクドゥエル」だ。マクドナルドの映画への登場は枚挙にたたない(G・リッツア、1999)。
 なぜ映画のなかの商品について触れたかというと、ハリウッド映画の世界制覇がこの国際コミュニケーション論の領域で多く語られてはいるものの、これを文化帝国主義の象徴ととらえるか、地域の活性化のよき刺激剤となり能動的視聴者へ期待するのか、はたまた文化多元論的論者の見解が今後よりいっそう高まるのか、興味深い。何よりも時代によりアカデミニズムの議論が進展しているのか、いや実はそうは見えても同じような繰り返しなのか、はたまた退歩なのかさえ不明瞭ではないのか。こうした問題意識をもちながら、われわれはまず国際コミュニケーション論を再考することから始めたのである。


                                 

        
         
1.国際コミュニケーション論の系譜


1−1 開発コミュニケーション論


国際コミュニケーション論における「コミュニケーションと開発」という知的パラダイムは、1960年代初期の近代化論の中から生まれた。当時、「開発」は国際コミュニケーションの領域において、最も重要なコンセプトのひとつであった。
 開発コミュニケーション論の先駆けは、ダニエル・ラーナー(Lerner、1958)によりもたらされた。それは、ウィルバー・シュラム(Schramm、1964)らの議論によってさらに展開されていく。
 50年代においては、世界の大部分に経済開発計画が拡大し、新興独立国家が出現し、それにともない必然的に急速な社会的変化が現れた。この状況を受けてラーナーは、マス・メディアが社会変動の主要な原因であるとし、「マス・メディアが近代化とデモクラシーの発展に重大な影響をもつものであるとすれば、こうした望ましいものを促進するにせよ、阻害するにせよ、第一の条件は、マス・メディアは拡大しなければならない」(ラーナー、1967、p.321)、「一国の経済発展の水準は、マス・メディアが拡大するかどうかを決定する。工業の発達した国ではどこでも、マス・メディアの体系が生み出される」(ラーナー、1967、p.321)といった「経済的条件」がマス・メディア拡大の主要な条件であり、その条件の下で、メディアの生産物を消費する能力を拡大すべきで、読み書き能力がメディア消費にとって技術的な必要条件だとしながら、「読み書き能力がメディア消費者を増やし、消費者はメディア生産を刺激する。こうして両者の相互依存的な関係が活発になり」(ラーナー、1967、p.328)近代化が進むのだと結論づけた。
 シュラムもまた、「高性能のコミュニケーション体系は工業的発展を促進するし、工業的発展はコミュニケーションの発展を容易にする」(シュラム、1967、p.51)として、国家経済の発展のためには、広範囲をカバーするマス・コミュニケーションの組織がどうしても必要だとの論を展開した。
 また、経済とコミュニケーションとの相互作用の政治的意義に言及し、「先進国では完全な言論報道の自由を享受することが容易なのに対して、低開発国ではそれが非常にむつかしい」(シュラム、1967、p.73)と述べ、さらに、コミュニケーションの発展−例えば、外国のニュースや外国との交流の増大−が、政治の民主化や国民の政治参加の拡大をもたらすかどうかという問題を取り上げ、いかなる国であれ、知識というものは「伝播性をもつものであり、知識が豊かになって視野が拡大していけば、人々は身近な事を、より大きな枠組みのなかにはっきり位置づけて考えるようになる」(シュラム、1967、pp.75-76)と結論づけている。
 以下、「コミュニケーションと開発」について、ラーナーとシュラムが提示したパラダイムを要約すると、
・途上国の国内的な発展、民主化、近代化にとってマス・コミュニケーション、マス・メディアが重要な役割を果たすとの見方を示した。
・政治的には権威主義から民主主義への移行、経済的にはGNPの成長にとって、メディアが重要な役割を果たすものであるという見方を示した。
・近代化/開発コミュニケーション論的な見方によると、開発途上国における伝統的価値観は政治・経済的発展の障害であり、そうした価値観に基づく態度を変容させるのがマス・コミュニケーションの拡大およびマス・メディアの拡大であると指摘した。
 ちなみに、「メディア拡大(すなわち近代化/開発)の指標」として、発展のために最低限必要とされる、映画館の座席数、ラジオやテレビの受信・受像機数、日刊新聞発行部数の対人口比といった量的なものがユネスコによって採用されていった。
 西欧の社会科学理論では、近代化=工業化=合理化を命題として受けとめ、主としてパーソンズの構造=機能分析に従って、さまざまな角度から近代化の問題に取り組んできた。近代化の指標として、「大衆の経済・政治問題への参与の拡大」「読み書き能力の普及」「マスコミの発達」などが取り上げられ、日本はこの指標に沿って近代化のコースを確実に歩んでいると思われた。しかし本間康平は、60年代から70年代を通じて経済成長を遂げるとともに、先の過程を通じて克服されるはずであった日本の伝統的諸制度が、逆に、工業化を促進する要因として受けとめられることを指摘した(本間、1993)。このことは、合理化・近代化を促進する大きな要因がマス・コミュニケーションだとするパラダイムに対し、非近代的な要因がむしろある種の近代化論と結びついているということを示唆している。(原田繁)
                       

1−2 文化帝国主義的アプローチ

(1)「文化帝国主義」という概念
 「開発コミュニケーション」という概念が、コミュニケーションの発達に連動する形で社会システムも発展するという肯定的パラダイムなのに対し、それに対する批判的パラダイムとして台頭してきたのが「文化帝国主義」(Cultural Imperialism)である。
 同分野の先駆けであるH. シラー(H.Schiller)の初期の定義によれば、「文化帝国主義とは、現代世界の支配的システムの価値観や構造などの様々な要素が、それ自体が持つ魅力や強制力によってある社会で普及していく過程」であるとしている(Sreberny-Mohammadi、1997、p.49)。同様にC. J. ヘムリンク(C. J.Hamelink)も、歴史過程における文化間の相互作用を認めた上で、「文化的な中心国家と周辺国家が存在する以上、文化的生産物の流通が活発になれば、ある方向に文化の画一化が進行する」と指摘している(Sreberny-Mohammadi、1997、p.51)。
 「文化帝国主義」は、政治経済の従属体制を表す「帝国主義」の概念を「文化」に応用したものだが、J.トムリンソン(J.Tomlinson)も指摘するように非常に曖昧で包括的な概念のため、論者によって研究の方向性や限界を押しつけかねないという問題点を持つ。
 その点に関しては、「文化帝国主義」の基礎となった「帝国主義」が政治的支配と経済的支配という全く異なる問題を一つの概念として包含しているのが象徴的である。例えば、政治的支配に関する帝国主義の概念が19世紀の植民地主義的思想を源流とするのに対し、経済的支配に関する帝国主義の概念は20世紀のマルクス主義的思想を源流としている。こうした現状を踏まえ、R.ウイリアムズ(R.Williams)は「帝国主義を一つの概念として定義づけるのは不可能であり、それぞれの枠組みの中で研究されるべきものだ」と結論づけている(Williams、1983)。
 一方、「文化」に至っては「帝国主義」以上に定義として把握することが困難である。英国の人類学者E.B.タイラー(E.B.Tylor)は、「文化とは、知識、信念、芸術、法律、風習など、社会参加の中で人間が獲得した様々な能力や習慣を含む複合体である」(Tylor、1980)としているが、そこから得られる知見は「文化」とは社会構造に深く組み込まれた概念だということである。言い換えるなら、「文化」において重要なのは定義の探求ではなく、各時代における「文化」概念の検討といえる。従って、これら二つの概念で構成される「文化帝国主義」の定義の探求は非生産的な行為であり、各論者が自らのパースペクティブに基づいて「文化帝国主義」を論じていると見なすことが重要である。
 また、「文化帝国主義」という概念は、多元性を尊重する近代の自由主義的イデオロギーを基盤としているが、そのイデオロギー自体が西欧の歴史的成果であるという矛盾を抱えており、「文化帝国主義」をめぐる議論をさらに複雑にしている。

(2)「文化帝国主義」をめぐる様々なアプロー
 このように「文化帝国主義」を一つのパースペクティブで捉えることには難があるため、トムリンソンは、「文化帝国主義」を論じる上で重要なことは、幾つかの異なるアプローチを批判的に検討していくことだと指摘し、これまでの先行研究を4つのアプローチに分類している。
メディア帝国主義 メディアのグローバル化という状況を背景に、「文化帝国主義」をめぐる議論においても、メディアの支配的役割をめぐる研究は非常に多く、結果的に「文化帝国主義」と「メディア帝国主義」が同一視されることも少なくない。しかし、厳密には、「文化帝国主義」は、マルクス主義的な包括的概念であり、支配という全体的なシステムの一部としてメディアを捉えている。その一方、「メディア帝国主義」は、より多元主義的で経験主義的な概念であり、「文化帝国主義」に関する理論上の仮説を提示するのではなく、現状分析に重点を置いている。その結果、「メディア帝国主義」的アプローチは、文化と密接な関連を持つ政治、経済など、他のアクターとの関係性を検討した上でのマクロ理論の構築を困難にしている。
国家の言説 「外国文化」の驚異に晒される「地域文化」という図式を基にした概念だが、地理的区分を意味する「地域」は、実質的には「国家」を意味することが多く、最終的には国家アイデンティティ、いわゆる「想像の共同体」をめぐる議論に行き着くことになる。「文化的自立性」が、このアプローチの根拠となりえるが、文化的事象に限定された支配の過程を説明するのが困難という点に問題がある。
資本主義のグローバル化に対する批判 マルクス主義的な視点であり、文化的支配をグローバルな資本主義市場における文化的商品の所有、管理、譲渡といった問題から捉えたり、資本主義の拡張過程における経済システム及び階級間の機能的な役割として捉えるアプローチである。ただし、いかにして資本主義を文化として捉えるかという点に問題があり、政治、経済、社会などの様々な要素を統合した上で、資本主義的文化による世界支配という言説を説明しなければならない。
近代性批判 「文化帝国主義」を個々の文化に関してではなく、現代世界全体への影響力に関して重心を置いたアプローチで、その他の全てのアプローチを包含し、再編を目指す試みである。この場合の「近代性」とは、グローバルな発展に向かう文化を指しており、「近代性批判」としての「文化帝国主義」は、こうした文化的支配に対する批判を意味する。このアプローチは、「近代性」の理念を単純に資本主義社会の理念に還元しがちであるという点に問題を抱えているが、「近代性」が、全ての文化的発展の目標であるという主張に疑問を呈する挑戦的な議論を提示している。
 このように、これらのアプローチは、いずれもある事象を分析する上で優れたツールとなりえる反面、そこから得られる知見に限界があるため、様々なアプローチによる相互補完的な検証が重要である。(上原伸元)
                                

1−3 ポスト文化帝国主義的アプローチ


(1)カルチュラル・スタディーズ的観点からの議論
 カルチュラル・スタディーズにおいて、特にコミュニケーションの問題に関しては、S.ホール(Hall、1980)のエンコーディング/デコーディングの図式の影響力が大きい。ホールは、この図式は送り手のものとは異なるコードによってメッセージを読み解く(デコードする)受け手を、マス・コミュニケーション過程の中に明確に位置づけている。ホールは、受け手は、単にメッセージを受け取る受け身の存在ではなく、むしろ意味の担い手としてのポジションおり、積極的にマス・コミュニケーションの過程に参与し、送り手側の意味表示とぶつかり合う読みをなし得ることを捉え得るモデルを提示shたのである。J.フィスク(J.Fiske、 1987)の研究に代表されるような、カルチュラル・スタディーズにおけるいわゆるアクティブ・オーディエンス論は、ホールのモデルを踏まえ、受け手側の意味生産を積極的に捉え、提示していこうという志向を有する理論的態度及び研究として捉えられるものである。
 こうしたカルチュラル・スタディーズの特徴を批判理論における研究視点のシフトとして捉えるならば、以下のように提示できるであろう。
・受動的受け手から能動的受け手へのシフト
・イデオロギー的主体の構築論からヘゲモニックなイデオロギー闘争論へのシフト
・政治経済的要因の重視から文化的要因の重視へのシフト
・合理化=工業化=近代化といった線的成長や構築を理想とするモダニズム的発想から、それらを西欧中心主義的とし、価値の多元性、意味の多様性、合理的決定の不可能性、脱構築の強調を旨とするいわゆるポストモダン的発想へのシフト
 こうした傾向は、国際コミュニケーション研究の分野にも見いだすことができる。カルチュラル・スタディーズ的観点での文化帝国主義的アプローチからポスト文化帝国主義的アプローチへのシフトは、上述の批判的理論における研究視点のシフトとパラレルである。そこでは、文化帝国主義的アプローチにみられるような、一方的で帝国主義的な文化支配や、文化による経済システムのイデオロギー的サポートといった問題が強調されるのではない。逆に、たとえ米国文化産業によるドラマや映画であっても、途上国においては種々の文化的背景によって様々に解釈され読み解かれ(支配文化にとっては逸脱的に読み解かれ)ているという点が重視され、そうした異なる読みのなかに、ある種の対抗的な可能性をみていこうとするのである。
 別の見方をするならば、単一的普遍的に地球上を覆う世界的な経済システムの決定力が強調されるのでなく、受け手が有する文化的・歴史的背景等の、複雑で複合的な要因が強調される。テキスト(例えば日本の文化・社会・歴史)に対する途上国の意味表示は、経済的な諸関係によって決定されるものではなく、そのコンテクスト(それが読みとられる社会的背景)に大きく依存するという見方がとられるのである。
 ここにおいて、これまでの発展コミュニケーション論における近代西欧中心主義的傾向及び、文化帝国主義的アプローチの経済決定論を乗り越える新たな価値原理として称揚されるのは文化多元主義(Cultural Pluralism)(注1)であり、これを、カルチュラル・スタディーズ的視点からの国際コミュニケーション理論の柱となる理念と捉えることができよう。

(注1)"cultural pluralism"(A.Sreberny-Muhammadi,1991,p.119) "multicultura-lism"(B.Parekh, 1997, p.165)の両者に対し、ここでは「文化多元主義」という訳語をあてている。

 文化的多元性を重んじるという中心的特徴は、西欧近代主義を乗り超えナショナリズムからグローバリズムの社会的想像力へのシフトを模索するトムリンソン(J.Tomlinson、1991)、グローバルなものとローカルなもの及び国家の三極モデルに基づき複雑なメディア環境やコミュニケーション効果を考察すべきであるとするモハマディ(Sreberny-Mohammadi、1991)、ポストモダンで多様かつ交渉的な国際コミュニケーション過程の分析に有効なものとしてヘゲモニー理論に注目するパーク(Hong-Won Park、1998)らに共通してみられるものである。(椎名達人)

(2)文化多元主義的観点からの議論

 文化帝国主義論について盛んに議論されたのは、1970年代から80年代にかけてであった。その間に現れた見解、アプローチは前項までの通りであるが、この議論が再び活発化したのは、メディアの急速な発展とグローバル化を背景にした90年代である。本項は、90年代のメディアのグローバル化を背景に従来の文化帝国主義論に異論を唱える「文化多元主義」からの見解を概観するものである。
 「帝国主義」という言葉に表される概念に対し、トムリンソンは、「グローバリゼーション」と「帝国主義」は区別されるものだと述べている(Tomlinson、1991)。つまり、現在の状況を帝国主義という概念で国と国の関係における上から下への流れ的な発想で捉えるのではなく、地球規模での相互的なつながり、相互依存と捉えることが重要であると指摘している。
 現代の国際的メディア市場では、国際的なリソースとプロダクションを組織し、かつさまざまなメディアを所有し管理運営を行う、メディア・コングロマリットを形成している多国籍企業が上位を占めている。中でも上位を占めているのが、アメリカのメディア企業である。アメリカのテレビ番組は多くの国々で放送され、CNNは世界のニュースを速報し、ディズニー映画は世界中の人々を魅了している。このようなアメリカ発の情報やサービスのグローバル化の現実を文化帝国主義と捉えられるかどうかについて、シラー(Schiller、1991)とペトラス(Petras、1993)は、コカ・コーラやマクドナルドの世界的拡大を含め、これらを文化帝国主義だと認めている。彼らは、90年代においてもなお欧米系のメディアが人々の社会的態度や世界観を変え得るほどの力をもつとみている。70年代から80年代にかけての文化帝国主義論者は、欧米の番組ソフトは自国のオーディエンスを設定し制作されているために、一国から他国への文化の流れがその国の文化や社会観に影響するという懸念を示していたが、リーベとカッツ(Liebes & Katz、1990)が指摘するように、海外からの情報に対して視聴者は、自らの経験からメディア・メッセージを解釈するという能動的視聴者論も唱えられている。
 さらに文化帝国主義論では、アメリカ・メディアの国際的拡大が他の国々における文化的支配を引き起こしていると指摘する。これに対しリード(W.Read)は、文化帝国主義論ではアメリカ・メディアによる他国文化や社会への影響についての実証的研究が欠けている点を挙げ、他国における欧米文化のプレゼンスに対する議論の曖昧性を指摘していた(Read、1976)。ギデンス(A.Giddens)は、アメリカなどの欧米諸国からの文化や社会的観念の流入に対するローカル(土着)文化の脆弱性への指摘に対し、ローカルの伝統的文化価値観やヴィジョンは、海外からのメディアやコンテンツを吸収し、独自文化にはめこみ、つながれ、維持されていくものであると述べている(Giddens、1990)。つまり、ローカル文化は淘汰されて消えていくのではなく、むしろ新形態をとり強化されていくという考えである。
 メディア企業の国際的展開は、対象となるオーディエンスを世界市場に設定する一方で、各地域に子会社をもちローカルな市場をも対象としている。すなわちその戦略は、グローバルでありローカルでもある。そして一方では、アメリカにおけるスペイン語放送の拡大などに見られるような、これまでの欧米を中心とした「英語中心によるメディアの第三世界諸国への輸出」という構図の逆を行く情報の流れも注目されている。コミュニケーション技術の発達により、情報はトランスナショナルというよりは、むしろグローバルに伝達されるといってもよいだろう。
 アイシュ(M.Aysh)は、これからの世界の潮流として2点を挙げている(Aysh、1992)。一つはコミュニケーションと情報技術のつながり、もうひとつは世界規模での社会システムの民主化である。さらにもう1点、ジャン・ウォン(Jian Wang)は、西欧をベースとした企業の地球規模での拡大と強化を加えている(Jian Wang、1997)。コミュニケーション技術や社会システムは変化していくものである。この現実を踏まえた上で現在の国際的メディア市場を鑑みた場合、国際的メディア企業もその受け手である国際的メディア消費者も、それぞれ異なってはいるがある意味で利益をエンジョイしているということがいえるであろう。(朝桐澄英)

                                            


        2.国際コミュニケーション論の展望


2−1 文化帝国主義的国際コミュニケーション論の展望

(1) イデオロギー闘争の終焉
 第二次大戦後に始まった冷戦は、1989年のマルタ会談によって正式に終結が宣言されたが、これによって半世紀に渡ったイデオロギー闘争は、資本主義の勝利に終わった。
 F. フクヤマ(F.Fukuyama)は、その著書『歴史の終わり』の中で、民主主義が歴史の最終段階であり、全ての国家が最終的には民主主義に移行していくことを示唆しているが、言い換えるなら、西欧の歴史過程で誕生した民主主義と資本主義という社会システム、そしてその背景となる西欧文化の受容こそが、国家の発展に必要不可欠なものだということになる。
共産主義という対抗イデオロギーが崩壊した現在でも、西欧型の近代化を唯一の発展モデルと見なさない「内発的発展論」などのオルタナティブな視点がないわけではないが、発展モデルの主流は資本主義的システムであり、欧米先進国の様々な社会制度の導入が国家の発展を保証するといえる。当然のことながら、そこには政治経済に関する領域のみならず、必然的に文化に関する領域まで含まれることになるが、一見、社会システムの発展に不可欠なグローバルスタンダードに見えるこれらの制度や文化も、実際は西欧の歴史過程で生まれた文化的生産物の一つに過ぎず、言うなれば、資本主義の拡張過程における「文化帝国主義」の実態がここにある。
発展途上国のみならず、先進諸国間においても、経済のグローバル化にともなって社会システムの画一化は避けられない傾向にあるが、政策レベルで国家的アイデンティティの重視をうちだしても、近代化を進める上では資本主義を基盤とする欧米の社会システムの導入を避けることはできない。資本主義と西欧文化への対抗が十分可能な強力なオルタナティブとしての発展モデルが不在の現状では、西欧型資本主義という一極文化による支配構造はますます強化されつつあるといえよう。
 論者によっては、冷戦終結後に世界各地で噴出する民族問題に地域文化の復権を見る向きもあるが、そうした地域は従来の国民国家の枠に留まるのを拒否する一方で、いずれもEUやNAFTAに代表される国家間組織への参加を希望しており、世界システムの構築に向けて、グローバリゼーションは加速する一方である。

(2) メディア産業のグローバル化
制度といった社会システムの側面における文化支配の構造は冷戦終結以降、ますます強固になりつつあるが、それをさらに加速させているのがメディア産業のグローバル化である。メディア産業という文化的生産物の大量生産システムは、市場原理に基づいて国境を越え、世界各国に文化的生産物を供給していく。当然、商品となる文化的生産物は国際競争力を持つ先進国で生産されたものであり、社会制度の導入といった間接的な形でなく、映画や放送番組、出版物、音楽等といった直接的な形で世界各国に西欧文化を輸出している。
米国最大の輸出産業は自動車産業だが、それに次ぐのが映画産業、いわゆるハリウッドである。89 年のデータによれば、米国映画産業の総収入の38%が海外におけるものだという(Sreberny-Mohammadi、1991、p.202)。この巨大なメディア産業は、メディア産業のグローバル化の現状を如実に示しているが、現在の国際的メディア市場は、メディア・コングロマリットと呼ばれる一部の巨大メディア企業の寡占状況にある。
 89年に発表されたユネスコの報告によれば、30億ドル以上の収益を上げたメディア企業は、米国のタイム、独のベルテルスマン、豪州のニューズ・コーポレーションなど僅か10社にも満たない。しかも、これらの企業はいずれも、出版、音楽、放送など様々な分野を包括する複合メディア産業であり、日本のソニーに代表されるようなハードとソフトの両方を持つ垂直統合型の企業も珍しくない。これらの企業はトランスナショナルな存在として、市場原理に基づいて国境を越え、コミュニケーション・サービスとして「文化」を輸出しているのである。
 そこでは当然のことながら、国際競争力を持つ外国文化に対して、地域文化が競争を強いられることもあり、場合によっては競争力において劣る地域文化が衰退の危機に瀕することも少なくない。こうした文化的生産物をめぐる国際的な摩擦が、経済的問題なのか、文化的問題なのか、状況と立場によってアクターの主張は異なるが、それを端的に示したのがGATTウルグアイラウンドにおける米国とフランスの協議である。
 欧州へのハリウッド映画の輸出を経済活動と見なす米国に対し、フランスは文化侵略と見なす論理を展開し、輸入規制を保持した。その後、この問題はGATTの後身であるWTOにおける検討項目として再び議題にあがっているが、メディア産業のグローバル化と自国の文化産業保護政策との対立は、今後避けられない課題であり、フランスに代表される文化政策と米国に代表される市場原理の議論の行方が注目される。

(3)「文化」における中心と周辺
 西欧の歴史過程で誕生した資本主義イデオロギーがヘゲモニーを確立し、西欧文化がグローバルスタンダードとして確立しつつある現在、「文化帝国主義的」パースペクティブに対して、「多元主義的」パースペクティブがないわけではない。
 トランスナショナルなコミュニケーション・サービスを展開しているのは、先進国資本による多国籍企業のみならず、第3世界のメディア企業も含まれる。ブラジルやメキシコのメディア産業は、ラテンアメリカを中心とするスペイン語圏のメディア市場にソープオペラを大量に輸出しているし、メディア先進国の米国においても大手のスペイン語テレビ放送局Telemundoにソニーが出資するなど、エスニック市場の需要は拡大している。東アジアに目を向ければ、先進国とはいえ、非西欧国家の日本製コンテンツに対するニーズが、台湾や香港などの中華圏を中心に高まっている。
しかし、これらは注目される動向ではあるものの、いずれもある地域内に限定された状況であり、総収益などで比較しても現時点では西欧のメディア・コングロマリットには遙かに及ばず、「文化多元主義的」パースペクティブの強力な論拠となりえないのが現状である。
ただし、これらの国々が将来、コミュニケーション・サービスにおける地域大国になる可能性まで否定するわけではない。ハリウッドに代表される西欧発のメディア産業が、国際競争を意識した文化生産物を輸出しているのに対し、第三世界におけるこれらのメディア産業は言語や宗教などの共通の文化的背景を持つ地域メディア市場においてヘゲモニーを確立する可能性がある。言い換えるなら、先進国メディア企業を中心として、その周辺に第三世界の有力メディア企業が位置し、さらにその周辺に競争力の劣るメディア企業が位置するという構造が成立する可能性は十分あり得るのである。いわば、これはI. ウォーラースティン(I.Wallerstein)が論じる「世界システム論」的なパースペクティブだが、経済領域のみならず、文化領域においても階層構造が成立し、資本主義的イデオロギーを背景とした西欧文化を中心に、各文化圏が相互に優勢な文化との対立と受容を繰り替えす可能性は否定できない。
確かにユネスコの新世界情報通信秩序宣言(New World Information and Communication Order)に代表されるような情報流通におけるバランスの是正が必要だという主張は根強いが、現実的課題としてそれを実現するのは困難である。なぜなら、「文化帝国主義」に対する批判は、結果的に現代の支配的システムである「資本主義イデオロギー」の批判に繋がり、最終的には「近代性」の拒否に行き着くからである。ある歴史過程における支配的システムである中心とそれに従属する周辺という構造は、アクターの役割交換は行われても永続的なものであり、それゆえにどの時代においても、「文化帝国主義」は適用しうる概念だと思われる。(上原伸元)

                         

                                                   
2−2 批判的国際コミュニケーション論の展望

(1) カルチュラル・スタディーズの貢献
 周知の通り、批判学派における論点対立は以下のように示すことができよう。
   ・political economy: 政治経済学的アプローチ
   ・cultural studies: カルチュラル・スタディーズ(文化研究的アプローチ)
 政治経済学的アプローチは、社会構成体における経済的審級の決定力を重視するが、一方でカルチュラル・スタディーズは、経済決定論を否定し、文化的な領域の経済に対する相対的自立を主張するものであり、特にそこでの権力作用の分析に焦点をあてるものである。政治経済的研究においては、経済的審級の分析が中心となり、また経済決定論的視点から行われるきらいがあるため、例えば支配と規律に関する問題、いわば政治の問題を扱うとしても、そこで焦点となるのは、いわゆる「マルクス主義」的な階級関係に関するものが中心となる可能性が高い。
 カルチュラル・スタディーズ的アプローチは、特定の支配関係のみに還元されない開放性を有している。例えば、民族、ナショナリティ、世代、ジェンダー等の諸問題を扱いうるし、また現在問題化ないしは言語化されていない潜在的あるいは無意識的な政治的位相さえも扱いうる可能性を有しており、さらにそれらの間の複雑な諸関係をも射程に入れうるという点において評価されるべきである。ただし留保しておきたいのは、そうした多元的な政治的分析が、旧来の多元主義的な政治学とさしてかわらぬものとなるならば、ことさらカルチュラル・スタディーズ的アプローチの有効性を言い立てることはない、ということである。ここで論者の意識するカルチュラル・スタディーズとは、共時言語学や、記号論、構造主義的な知に基づき、言語的、言説的位相の分析の重要性を背景に有し、経験的な領域を超えたところで分析的知見を得うることを可能にする知的アプローチである点、指摘しておく。

(2) 経済的なものの定位
 
 カルチュラル・スタディーズ的アプローチの重要性を認めた上で、しかし、国際的なコミュニケーションを問題にするとき、経済的な側面(特にグローバルな資本の運動)を無視して語ることはできない、という点を強調したい。サービス貿易に関する米国と欧州との摩擦、メディア・コングロマリットの世界進出は現実の経済的問題である。これは「文化侵略が資本主義のグローバリズム化にイデオロギー的に寄与する」とか「異なる読みは、文化的支配に対する対抗的な文化の存在の証左である」といったイデオロギー論的問題ではなく、まずもって資本の問題であり、この場合、文化的な問題は資本の運動に対するリアクションとして捉えるべきと考える。
例えばグローバルな資本の運動に対するリアクションとして、ナショナリスティックな保護主義的言説が生み出されるものであり、また、批判的言説としての文化帝国主義という問題構成自体も、まさに外国メディア企業の国内市場進出によって生み出されたある種の知的反応なのである。国際コミュニケーションにおける資本のグローバルな運動の優位は、カルチュラル・スタディーズ的アプローチをとる場合でも、考慮しておかなければならない。

(3) 個別性の重視―マードックの日本進出を例として―

 ただし、このとき個々の事象の特殊性を十分考慮に入れる必要がある。これは文化的な領域についても、政治経済的な領域についてもいえることであり、それらを単に経済的なものの優位の下で一般論で括ってしまうとき、経済決定論への逆戻りや単純な還元論に陥る危険性があると考える。つまり日本においては、日本にとって特殊な問題があるのである。
 例えば、マードックの日本進出は、基本的には資本のグローバルな運動として理解しなくてはならないことであるが、ここで考慮すべきなのは、放送という分野のマーケットとしての特殊性、日本に特殊な歴史的背景、ニューズ・コーポレーションに特殊な歴史的背景や世界戦略におけるアジア、さらには日本の位置づけ等々の様々な個別の要素及びそれらの関係性であろう。
 特に、マードックの日本進出に対する日本国内のメディアの反応としての「黒船」という表象の提示などは、一般化してしまえば資本のグローバルな運動に対するドメスティックな言説的反応として括り得ようものであるが、より深い理解のためには、日本に特殊な歴史的背景を考慮に入れることが重要であると考える。マードックの日本進出は、現代日本の言説空間において、ペリー提督の「黒船」来航という歴史的事実の象徴的回帰として表象されているのであり、だとするならば、百数十年前の出来事と現在の出来事との関係性を精査してみることもあながち無駄なことではないと思われる。ペリー来航は、ある意味では後々まで影響を落とす日本の近代化にとっての「トラウマ(精神的外傷)」と考えることが可能であり、実はこの傷こそが、想像の共同体としての近代日本という国民国家とその外部(他者)を結ぶブラックボックスを形成しているのだという見方ができるであろう。
 ナショナルなものは、それのみで自律、完結した観念ではなく、その外部との関係において、喚起され、さらに再生産される。例えば「外圧」といった表象は、外国からの働きかけを直接には意味表示するが、同時に、外国から圧力をかけられる「内部」(国内)というものを同時に意味表示しているのである。「黒船」は日本に特殊な外部との関係を規定するある種の象徴的機能を果たし、マードックの進出においてもそれは象徴的に回帰したのである。

(4) 批判的展望
 それでは、マードックの日本進出、「黒船」としてのマードック進出について、それをどう評価するのか、という問題が生起する。これは例えば以下のようなタイプの二者択一の選択、すなわち、「黒船」が封建的な日本を近代化へと起動される「外圧」となったように、マードックの進出を、寡占状態といっていい日本の放送市場に風穴をあけるものととるのか、あるいは、これまで築き上げられた放送文化の喪失を招きかねない事態として捉えるのか、といった二者に収斂されがちのように思われる。
 しかし、上に表象されている「日本」とは、まさに想像の共同体としての「日本」であり、観念的なものであるということに注意を払うべきである。この「日本」とはある意味で、全ての人にとっての日本であり、また同時に誰のものでもない日本である。上記のような二者択一の議論を提示した途端に詳細な分析によって明らかになるであろう利益関係は捨象されてしまい、「日本」という表象の代表性の罠にはまる危険性が生起することになる。また同時に、上記のような二者択一の立場の選択は、「日本の放送」という産業/制度の自明性を前提にしてなされているのであり、その点に関する批判的な認識を欠いている。さらにはホールの図式を引くまでもなく、放送は受け手の側のプロセスなしには成立しないコミュニケーションである。「日本」の放送という表象の罠は、受け手の不在において産業/制度のみを代表してしまう点にあるのだ。
 しかし、一方において受け手の存在の単なる称揚は、再び同じような表象の代表性の罠に陥ることになりかねない。また、能動的受け手を称揚する言説(アクティブ・オーディエンス論)の批判的有効性を手放しに異議なしとしない。受け手が十分能動的存在であるならば、既に受け手は社会変容の担い手として十分成立しているわけであり、であるならば、能動性称揚の言説は、むしろ現状追認の線にとどまる危険性が高いと考えるからである。受け手に依拠することは、国際コミュニケーション論にとっても重要であることは確かであるが、受け手という表象のイデオロギー的機能に注意する必要があるのだ。
 ここで論者は、批判的に有効な研究の方向性を、カルチュラル・スタディーズの切り開いた多様な支配関係の分析可能性にみたい。それは、何かを代表するという表象の機能と、実際の具体的な集団及び諸個人における支配的諸関係を分析可能だからである。これは端的に述べるならば、国際コミュニケーション的諸関係におけるイデオロギー言説分析を志向するということである。例えば、ポスト文化帝国主義的アプローチにおける文化多元主義という理念において、表象の代表性の罠(言説のイデオロギー的機能)が起動しないかどうか、という点を視野にいれることこそ、批判理論にとって肝要なものであると思われる。(椎名達人) 

                        
  
2−3 「グローカリゼーション」への可能性

(1)「グローバル」「ローカル」「国家」の三極構造の概念
 「グローバル」という言葉についてよく引用されるのは、1960年代にマーシャル・マクルーハンが唱えた「グローバル・ビレッジ」の概念であるが、マクルーハンはグローバル・コミュニケーション・ネットワークにより世界が一つの地球として結ばれると示唆していた。一方、「ローカル」という言葉は、一定の地域や場所に属するという意味で、「グローバル」とは相対する概念である。そして、この2つの用語は、「国家」という枠組を越え議論されがちであるが、国際的メディア企業が拡大し、コミュニケーション技術の進展により情報が即座にグローバルに伝えられる現状においても、国家を主体としたコミュニケーション政策は存在する。モハマディは、国家の政策策定を政治、経済、文化面での意思決定において重要なレベルにあると位置づけている(Sreverny-Mohammadi、1991)。情報を通じて世界はグローバルに凝縮されながらも、その構成要素は国家であり、「グローバル」と「ローカル」は国家を介在して相互依存の関係を築いていると捉えられる。

2)シンガポールを例とした三極構造
 一国における三極構造の視座を複数民族国家のシンガポールを例に挙げてみると、同国は1980年代以降、アジアにおけるコミュニケーションのハブとなることを見据え、コミュニケーション政策を推進してきた。欧米を中心とした海外の企業を積極的に誘致するための環境整備を行い、国内では英語教育が強化され国民の情報リテラシーに対する関心は高い。その結果、香港が中国に返還された現在、シンガポールをアジアの拠点とする企業は着実に増えている。しかしながら、世界規模のグローバリゼーションに対する外向きの政策とは逆に、国内のコミュニケーション政策は衛星放送の直接受信が禁止されているように厳しく規制されているのが現状である。複合民族国家という特性上、国家秩序の安定を保持するために、異質なイデオロギーの流入を制限する政策が行われてきたのである。
 「同質性」と「異質性」に関連してアパデュライ(A.Appadurai)は、グローバルな相互作用の中心的課題は、文化的同質性と文化的異質性の間の緊張にあると述べている(Appadurai、1990)。この同質性と異質性を「グローバル」と「ローカル」に置き換えると、その間に介在する「国家」の政策がグローバルな相互依存関係の緊張に影響を与えると考えられる。我々は、人種、民族、言語、宗教、文化、政治システムなどにより特色づけられるそれぞれの国や地域に暮らしているが、グローバル・ネットワークの拡大がもたらす情報の同質性をもっても、国家というフィルターを通すことにより、民族や文化が同質化され変わるものではないということがいえるだろう。シンガポールの例に戻ると、同国は、一方ではグローバルな同質性を享受し、また他方ではローカルの異質性を保持しているのが特徴といえ、その間の緊張を左右しているのが、政府によるコミュニケーション政策なのである。

(3)「グローバリゼーション」から「グローカリゼーション」へ
 今後の展望として、「グローバル」と「ローカル」のシナジーの視点として、ロバートソンが提唱する「グローカリゼーション」(Glocalization)という新たな概念を取り上げたい(R.Robertson、1995)。それは、「グローバリゼーション」という言葉が、同質性を柱とするより狭い概念で捉えられローカルへの言及が欠如しがちな点に対し、社会変化の過程の中で「グローバル」は「ローカル」を補填するものではなくつながりを含むものであり、その線上に「グローカリゼーション」があるとする考えである。「グローバル」をテーゼ、「ローカル」をアンチテーゼと仮定するなら、「グローカリゼーション」はシナジーといえよう。
 文化多元主義論においては、グローバリゼーションが楽観的に論じられがちであるが、ロバートソンの「グローカリゼーション」という「ローカル」を視野に入れた概念、およびモハマディのグローバルとローカルの間にある「国家」構造を考慮することは、90年代以降の複雑な国際コミュニケーション構造を検証する上で有益な概念といえよう。(朝桐澄英)

                                               

2−4 日本発のマンガ・アニメにみる国際コミュニケーション論

 西欧の社会科学理論で提示されてきた図式は、近代化=工業化=合理化であり、それはとりわけ西欧化を指し、いわゆる西洋から途上国へのコミュニケーションの流れから論じられてきた。今までの国際コミュニケーション論は西洋発信のものを中心に扱っていたと言えよう。
 現在、日本のマンガ・アニメは欧米を始め、アジア諸国に普及している。日本の大衆文化の一つとして、これほどまでに海外に浸透していったのはなぜか。そこにはどんな意味があるのか。ここで日本発のものを扱うことは、従来の論説に新たに修正を加える意味合いがあると考える。ここでは、今や世界的な広がりを見せている日本のマンガ・アニメを重要なケース・スタディとして取り上げ、とりわけアジアへの進出について記述する。

(1) 日本のマンガ・アニメ市場の現状と海外進出
 98年のマンガ市場(販売金額)は5、680億円(前年比99.6%)で、出版全体におけるマンガの比率(部数ベース:37.4%、金額ベース:22.3%)は、金額・部数ともに増加している(電通総研、2000)。コミックの売れ行きは好調(前年比102.1%)で、売り上げ上位を占めるマンガのほとんどがテレビドラマ化、テレビアニメ化、ビデオアニメ化されている。
 一方、98年のビデオソフト、劇映画、テレビ放送(制作売上ベース)、企業映像におけるアニメ売り上げは国内1、550億円(前年比94.7%)で、劇場用アニメーション推定配収は110億4、000万円となり、セルカセットでは相変わらず宮崎駿作品が好調である(電通総研、2000)。
 日本のテレビアニメは、80年代に世界中で放映されるようになった。84年に宮崎駿による「風の谷のナウシカ」が登場したのをきっかけに、日本の劇場用アニメが世界で注目されるようになった。アメリカでは、93年に「となりのトトロ」が公開され、95年には、士郎正宗が描く「攻殻機動隊」のアニメ版がついに売り上げナンバーワンを獲得した。99年7月から「もののけ姫」が全米1、000館規模で公開されている。
 アメリカでは、日本のアニメはマニア向けと認識されており、子供向けとしてテレビ放映されるものは多くない。「ニューヨーク・タイムズ」は、「アメリカでアニメとは厳密には成人向けの日本製アニメーションを指す」と伝え、研究者は、「アニメ」を「日本が西洋の言葉から借りたアニメーションの外来語で、今では西洋のファンが日本版を他の国のそれと区別するのに用いられる」とさえ定義している。
 欧米のテレビ放送では、「暴力的な表現」や「セクシーさを強調した表現」への規制は厳しい。アメリカでは、「セーラームーン」の入浴シーンで胸の谷間が塗りつぶされ、フランスでは、「北斗の拳」がきわめて暴力的で子供の教育上よくないとの理由で放送中止となった事例などがあげられる。

(2) 韓国への日本のマンガ・アニメの流入
 アジア諸国への日本マンガの進出には一定のパターンがある。まず日本製のアニメがテレビで放映されて人気を得る。すると原作本の海賊版が現れるが、この場合、原作に忠実な翻訳本よりも自国民に受け入れられやすい勝手な翻訳の方が面白がられる傾向がある。最近では、著作権に関しての法的整備が進み、正式な契約のもとに原作本が出版されるというパターンが定着してきている。
 当時の国際社会における文化進出の説明として「従属理論」が広く受け入れられつつあったこともあり、70年代の韓国では、文化的従属論や文化帝国主義の観点から、外来大衆文化の浸透を批判する見方があった。とりわけ、アジア諸国に対する日本の大衆文化の浸透は、政治的、経済的、文化的な支配を強め従属国に編入しようとするものだとの痛烈な批判にさらされた。衛星放送のスピルオーバーを、「空からの文化帝国主義的侵略」として批判したことは記憶に新しい。
 98年10月、韓国政府は日本の大衆文化の段階的開放を宣言したが、その是非をめぐる議論では、日本の「文化侵略」とともに韓国の大衆文化産業が受ける打撃を懸念する意見がかなり強かった。
 韓国文化観光省の97年の推計によると、韓国国内の文化産業の市場規模(広告/放送/ゲーム/キャラクター/音楽/アニメ/ビデオ/劇映画)は1兆円に達する。広告と放送を除けば2、000億円程度となるものの、韓国にとって、アニメ産業は決して看過できない市場である。韓国内市場での日本マンガ占有率は47%で、海賊版まで合わせれば90%に達すると言われている。日本マンガの開放により自国のマンガが葬り去られるのではないかと憂慮する声も出ている。

(3) 海外への日本アニメ進出における文化受容の態度
 日本のマンガやアニメは、人種や言語、イデオロギーを超え得るツールとして世界に普及していると言われているが、相対国に流入する過程において、独自の文化概念や生活習慣に則り、政府の制限を受けたり、作品自体が加工修正されたりする。
 現在韓国では、「ポケットモンスター」が放映され視聴率をあげているが、伝統的な日本家屋や関取、日本語の看板などの場面はカットされ、日本語はコンピューターを使ってハングルに修正し、まるで韓国アニメのように変身させられている。「ドラえもん」のコミックは発売されているが、放送では、主人公の住む町や部屋の中、ストーリーが日本を強く感じさせるという理由で、事実上放送禁止状態となっている。全体として、過去の植民地統治の影響から、日本文化が色濃く反映した場面はカットされたり、独自に手直しされて出版、放映されているのが現状である。
 しかし、テレビアニメを日本製(韓国語吹き替え)と知らずに見ている今の小学生達が大人になった時、韓国文化が維持されているかどうかを心配する声もある。こうした中で、98年から韓国の3大テレビ(KBS、MBC、SBS)は、毎週30分から50分間、韓国産アニメ番組の放映が義務付けられた。その代わりに制作費の20%を国が負担している。最終的にアニメ番組の半数を韓国産にするのが目標である。
 社会主義国家では、番組内の体制批判や反政府示威場面などは検閲され、イスラム圏国家では、卑賎だとするものや魔法を使用するものが主人公であるような番組の放送は許可されず、アニメといえどもミニスカートをはいた女の子の場面などは編集される。
 欧米ではこうした事情は異なる。子供向けのテレビ番組において、暴力的な要素や猥褻な表現は徹底して排除されるが、日本の伝統的な文化や言語はそのまま受け入れられている。アメリカのマニアの間では、「MANGA」「OTAKU」という言葉が定着しているほどである。
 以上、日本のマンガ・アニメ市場が巨大化し、海外に進出している現状を概観したが、なぜ日本は海外市場を開拓したのか、そしてそれはどのようにしてなし得たのかという疑問が提起されてくる。また、欧米を始めとして、とりわけアジアの諸国がなぜ日本のマンガ・アニメを受け入れたのかという疑問へと結びついていく。放送産業としてのテレビドラマは、これまで海外に進出するという発想はなかった。それは、国内放送で採算が取れるという産業構造があったからだ。それに対して、アニメの制作現場は零細企業の集合体であり、現にセル動画の制作などはアジア諸国に負っている部分が大きく、決してコングロマリットな産業にはなっていないという現状である。しかし、日本のマンガ・アニメが、ある一定の影響力を世界中にもっているのは事実である。こうしたことから、産業的背景についても考察する必要性が生じる。
 元来、マンガやアニメは無国籍であるから海外でも受け入れられやすいと考えられているようだが、それぞれの国によって、その受容形態は異なっている。ひとつの国の歴史と文化がそのまま溶け込んでいるマンガやアニメを海外に輸出するためには、相対国の地域別の特性と文化的背景に従って審議基準の見通しを迫られる。それゆえに、マンガ・アニメをメディアとして捉え、国際間におけるコミュニケーションとしての生成過程を分析しようと試みるならば、相対国との歴史的・文化的差異にも考慮することが重要だと考える。
 アニメは、セルビデオは別として、放送権の販売という形態で展開されるビジネスである。それに対して、マンガは出版物の販売として取り扱われるビジネスである。それゆえに、マンガの方が海賊版が出やすいという要素がある。このように、メディアとしての表現形態も異なり、流通経路も異なるマンガとアニメを同様には論じられないかも知れない。また、アニメは、キャラクターの存在が別のビジネスを生んでいくという、メディア生産物としての特殊性を有しており、単純に放送権の販売のみには限られない要素があるということも視野に入れておく必要があるだろう。
 以上のことから、これまでの国際コミュニケーション論で展開されてきたような単純な、開発コミュニケーション、文化帝国主義、文化多元主義などのパラダイムには決してあてはまらない複雑な事情がさまざま浮かび上がってくる。従来のモデルとは適合しない部分を検証するのに、日本のマンガ・アニメは恰好のケース・スタディであり、こうしたことへの分析を試みることは、国際コミュニケーション論研究にとって、新しい知見を加えることになると考えられる。(原田繁)

                        

おわりに

 以上示してきたように、本論においては、複数の論者によって、これまでの国際コミュニケーション論の展開が簡単に記述されるとともに、複数の視点からの国際コミュニケーション論が展望されてきた。
 論者ごとの展望を簡単にまとめるならば、

1) 資本主義が世界システムとして支配的である以上、ポスト冷戦的な環境が到来した現在においても文化帝国主義的アプローチの有効性・批判論的重要性が減少するものではないとするもの。
2) ポスト文化帝国主義アプローチの有効性を認めた上で、しかしそれが含むかもしれないイデオロギー性に注意を向けるべきであるとともに、経済的なものの重要性を再認識すべし、とするもの。
3) ポスト文化帝国主義的アプローチとして、新たに国家を加えたモデルやグローカリゼーションという概念を提示し、従来のグローバル−ローカルの二極的対立に基づく議論を乗り越えようとするもの。
4) 西欧発ではない日本発の国際コミュニケーションを精査し、その特殊性や複雑性をみていくことによって従来のアプローチを修正し、さらには乗り超えていこうとするもの。

と示しうるであろう。
 それらの展望についてさらなる分析や討議を加えることは今後の課題となるが、現在の時点において国際コミュニケーションを論じるにあたり、文化帝国主義的アプローチについては、それに対していかなる距離をとるにせよ、意識せざるを得ない不可避の問題群を立ち上げたものとして一定の評価が与えられるべきであると思われる。文化帝国主義的アプローチの提起した諸問題に立ち返りそれを捉え返すことが重要である。既に乗り超えられつつあるともみられているこのアプローチが提起した諸問題は、現在及び今後の国際コミュニケーションを考える際の端緒なのだということができるであろう。

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