《研究ノート》 カナダの新聞:草創期の植民地新聞史

      (『新聞通信調査会報道』No.454 2000年9月号, pp.14-16 掲載)
                                        鈴木雄雅
 上智大学

はじめに

 現代カナダ社会の新聞は一九八〇年、サザム社(Southam)とトムソングループ(Thomson Newspaper chain)の都市新聞が相次いで休刊し、ケント委員会の設置から始まり、九〇年代のコンラッド・ブラック(Hollinger Inernational Inc.) のサザム社買収、成長、そして最近はトムソンが新聞業から撤退して電子メディア・情報産業への転進といった流れがある。そして放送、通信メディアは議論はあるものの、技術革新の急成長下に引きづられる様相で先進国同様、デジタル化へ走っている。

 カナダのメディアと言えば、このところコンピュータ社会へいっそう進展するわれわれへの警鐘として、M.マクルーハンを生んだ国、メディア・リテラシーの先進国、あるいはオンタリオ州にみられるようなメディア教育の進んだ国として紹介されている。しかしながら、その研究・研究書がどれだけ広まっているかというと、いささか心もとない。最近では、マルチカルチュラル社会の好例として社会学系の翻訳書や著作がでてきたものの、カナダ研究者には申し訳ないが、政治・経済などの邦語文献も限られている。マス・メディアに関する日本語文献を見ても分かるように、特定領域に特化しており、またカナダの歴史書も新聞の発達、影響をとくに論じる傾向にあるとは言えない。「ミドルパワー」を自称するオーストラリアなどと同じく、国際関係の舞台での活躍がそうした傾向に影響を与えているのは確かである。
 そこで、本稿は原点にもどり、カナダの新聞史を描くことにする。

  一 草創期の新聞

 最初の新聞『ハリファックス・ガゼット』
 カナダで最初に発行された新聞は『ハリファックス・ガゼット』(Halifax Gazette)で、ジョン・ブッシェル(John Bushell,〈 Bushel〉, 1715-61)が同紙を創刊した一七五二年までさかのぼる。北米植民地と同じくそれは商業印刷機により生まれ、植民地政府ほかからも独立した存在であった。

 ブッシェルという男はボストンで印刷業の徒弟に入り、一七三五年には『ボストン・ポスト=ボーイ』(Boston Post-Boy)を印刷、四九年頃までは同地で仲間と印刷の仕事をしていた。彼は父親の死による相続で家屋や土地が手に入ったことから独立し、五一年ハリファックスに移住し、バーソロミュー・グリーン(Bartholomew Green, 1699-1751)が持っていた印刷工場の権利を獲得して、そこからカナダ最初の新聞が生まれたのである。

 そのグリーンとは、マサチューセッツ植民地の『ボストン・ニューズ=レター』(Boston News-Letter, 1704)の印刷人であったグリーンの息子で、一七二五年から五一年まで時には義理の息子ジョン・ドレイパー(John Draper)や上述のブッシェルと組みながら、印刷業を営んでいた。知られている限り、グリーン自身、『ボストン・ガゼット』(Boston Gazette)という新聞を創刊したり、『ボストン・ニューズ=レター』を一七二五年あるいは翌二六年あたりから三二年まで印刷している。

 一七五一年、引退したグリーンはハリファックスに移住し、カナダに最初の印刷機を持ち込んだのである。残念ながら、その年の十月彼はこの世を去るが、もしそうでなければ、ブッシェルとともに『ハリファックス・ガゼット』の創刊者として名を連ねていた人物であることは間違いない。二人の息子は印刷人になったが、ハリファックスには二度と戻ってこなかったという。

 さて、グリーンの夢であった新聞の創刊を引き受けたのがジョン・ブッシェルである。『ハリファックス・ガゼット』の第一号は、一七五二年三月二十五日に出された。二コラム建て両面つづり、フールスキャップ大の大きさで、植民地初期に登場する新聞の体裁だった。近着の船舶からの物資販売や奴隷の逃亡、印刷人自らの広告などが載せられた。いまでいう、案内広告、告知といった類ではあるものの、いわゆるクラシファイド.アドの先駆けとも言える。

 政府とは独立していたとはいえ、法律の公布や公告などを掲載する見返りの代金は初期の新聞経営にとって重要な収入源であった。また英国、欧州の政治家からの寄稿はニュースとして価値あるものだったし、ハリファックスは当時有数の商業地であったにもかかわらず、印刷のための物資に不足した―とくに用紙―ことも、初期の植民地新聞に共通する悩みを抱えていたのである。さらにそうした経営難は、結局 多額の負債を生じることになり、ブッシェルも同様で、数年後には倒産の憂き目に遭う。

 印刷人アンソニー・ヘンリー
 ハリファックスでは一七七六年に一紙そして七九年に『ノヴァ・スコシア・クロニクル』(Nova Scotia Chronicle and Weekly Adversiter)が姿を現すが、ブッシェルの後釜を引き受けたのは、アンソニー・ヘンリー(Anthony Henry)というドイツ系移民の印刷人である。

 彼は軍人としてカナダに渡ってきたが、紛れも泣くヨーロッパのどこかで印刷の徒弟を経験していた。二年ほどニュージャージーのとある印刷屋で働いた後、ブッシェルの仕事場へやってきた。一七六〇年には共同経営者となり、彼の死後の六一年、『ガゼット』の発行を引き継いだのである。

 ヘンリーは、五八年以来植民地新聞の監督官であったR・バルクレー(Richard Bulkeley)に近づき、政府からの財政援助を引き出しながら、印刷設備の改善に努力したようだ。ところが、彼が六五年秋頃に雇った若い奉公人、I・トーマス(Isaiah Thomas)がノヴァ・スコシアの住人は印紙税法に反対であると紙面で訴えたことから、雲行きが怪しくなった。

 『ノヴァ・スコシア・ガゼット』を始めた植民地政府印刷人ロバート・フレッチャーがヘンリーの後任になり、彼は追い出される形でその職を離れた。それから三年後、上述の『ノヴァ・スコシア・クロニクル』を発行することになるが、同紙は政府の財政援助を受けない点で、独立紙の最初と言えるかも知れない。

 内外のニュースを載せたり、またヨーロッパ、アメリカで発行されたものからの抜粋そして、自治政府の議会議事録なども掲げたが、広告はわずかであった。どうやら、ホィッグ党支持の紙面が、その資金源を呼び寄せていたようである。

 一七七〇年に入り、ついにヘンリーの新聞がフレッチャーを打ち負かし、合併される形で、題号も『ノヴァ‐スコシア・ガゼット』(Nova-Scotia Gazette and the Weekly Chronicle)となった。ヘンリーは政府印刷も引き受けるようになり、題号はさらに八九年『ロイヤル・ガゼット・アンド・ノヴァ‐スコシア・アドバタイザー』(Royal Gazette and Nova-Scotia Advertiser)となり、その後三十年以上にわたり、ホィッグ党が消えるまで公式媒体として存続した。一八八八年ヘンリーは正式に「キングズ・プリンター」の称号を得、それまでの不確実な生活に終止符をうつことができた。

   二 英領植民地カナダ

 新フランスに新聞がつづけて出なかった大きな理由は、植民地政府が植民地における印刷機の設置の自由を認めようとしなかったからである。他方、英領植民地の方では一七六三年の七年戦争を境にアメリカから印刷人がやってきた。

 ウィリアム・ブラウン(William Brown,1737-89)とトーマス・ギルモア(Thomas Gilmore,1741?-73)という二人のフィラデルフィア人が一七六四年、ケベックで英語・仏語紙『ケベック・ガゼット』(Quebec Gazette/ La Gazette de Quebec)を創刊した。ダブリン生まれのギルモアは十七歳でフィラデルフィアのウィリアム・ダンロップで印刷修業にはいり、そこで、ブラウンと知り合う。

 六十三年に再会した二人はケベック地方で、共同で印刷業を始めることを決めた。同地での創刊予告などはブラウンが、またギルモアはロンドンへ出かけて印刷機やインク、紙を購入する準備を進め、一年後には百四十三人の購読者を集めて創刊号が六月二十一日に現れた。購読料と政府公告のための年額五十ポンドだけでは新聞を経営していくのは困難であり、結局書籍やカレンダーの印刷、発行などで賄わなければならなかったのである。さらに英語、フランス語の両言語での発行は能力あるスタッフの欠如などもあって二人に仲たがいが生じた結果、一七七四年両者のパートナーシップは解消され、ブラウンが単独経営者として、同紙を続けることになった。

 W・ブラウンは十五歳のときに生まれ故郷のスコットランドから母方の親戚を頼ってアメリカに渡り、バージニアのカレッジを終え、はじめは事務員の職に就いた。その後フィラデルフィアに移住して、七八年からW.ダンロップの印刷工場へ移り、そこで経営能力を発揮して二年後には複数の店舗を任せられるようになっていた。

 ダンロップはベンジャミン・フランクリンの知り合いであったことから、ブラウンはニューヨークのジェームズ・リビングトンの店でしばらく奉公をして、彼と新しい店を開くことになるが、まもなくダンロップがバルバドスで新店舗を開設する計画を手助けしたりと、かなり転々とした人生を送った。

 その彼が次の新天地として選んだのがケベックであった。ダンロップからの支援もとりつけ、ギルモアと七十五ポンドずつ出し合った資本金で工場を始めたわけで、新聞が起動にのると、ダンロップに翻訳者や奉公人(印刷助手)を送ってくれるよう依頼している。

 ギルモアとの共同経営解消後、ブラウンは新聞発行だけでなく、ケベック法の草案など多彩な印刷を手がけ、新聞からの広告収入以外にも多くの収入を得ることで比較的安定した経営になったといわれる。

主張する新聞が誕生
 一七八五年フランス人F・メスプレはかつて同地のアメリカ併合を主張した男だが、『モントリオール・ガゼット』(Montreal Gazette)を創刊。九三年には、最初の総督の指揮下で、オンタリオで『アッパーカナダ・ガゼット』(Upper Canada Gazette)を発行するようになる。

 アッパーカナダでは、スコットランド出身の民主政治運動家のウィリアム・L・マッケンジー(William Lyon Mackenzie,1795-1861)が議会に、地元に最初の製紙会社を創設するにあたり資金援助するように働きかけた。新聞と政府との間に密接な信頼関係をつくることを狙ったのである。マッケンジーは英国の著名なジャーナリスト、ウィリアム・コーベットと知己であった。

 北米英領植民地は次第に商業が発展し、ハリファックス、セントジョン、モントリオール、キングストン、ヨーク(当時、現在のトロント)に商人たちが集まってきた。週刊紙、とくに植民地政府と結託した新聞は政治的意図、様々な商業的あるいは農業的利益と結びついた。

 一方、ロウワーカナダでは、ケベックで『マーキュリー』(Mercury,1805)、モントリオールで『ヘラルド』(Herald, 1811)の二紙が英語圏商人たちの筆頭紙となり、仏語圏のそれは『ル・カナディアン』(Le Canadian, 1806)、『ラ・ミネルバ』(La Minerve, 1826)があった。マッケンジーは自分の新聞『コロニアル・アドボケート』(Colonial Advocate, 1824)を、支配層と大商人グループに対抗して市民と農民の改革運動を起こす政治運動の道具に使った。ハリファックスのジョセフ・ハウの『ノヴァスコシアン』(Novascotian, 1824)も権力に対抗する新聞となった。

 【参考文献

大原祐子・馬場信也編『概説カナダ史』(有斐閣、一九八三年)。
Dictionary of Canadia Biography. University of Tronto Press, 1996+. Vol1+
Fetherling, Douglas. The Rise of Canadian Newspaper. Tront: Oxford University Press, 1990.
Impressions: Stories of the Nation's Printer Early Years to 1900. Canadian Government Publishing Centre, 1990.