ブラック家の人びと:J.R.Black and his family
鈴 木 雄 雅(1993年8月30日記)
昨年度英国・オーストラリアにおける在外研究期間中、日本で最初に英字新聞を創刊したアルバート・ウィリアム・ハンサード(1821−66)を追跡調査した。そしてもしかすると彼と同じように、ハンサードの『ジャパン・ヘラルド』の継承者であり、快楽亭ブラックの父であるジョン・レディ・ブラックの未詳の部分についても何か調べられのではないかと思い始めた。
まずは、ブラックの子供の生年時から逆算して、通称セント・キャサリンズ・ハウスと呼ばれるロンドンの人口統計調査局(OPCS)でインデックスを十年近く引っ張り出しては入れる作業を続けた。その結果、「8153年11月10日、ケント州ダートフォードの教会でエリザベス・シャーロッテ(旧姓・ベンウェル)と結婚している」事実と、父と同名の次男の出生届け(1867年4月6日、横浜生まれ)にはJ・R・ブラックの職業は「競売人」と記されていることが判明。
ブラックの結婚証明書によれば、父もまた彼と同名で、職業は海軍大尉、花嫁の父ヘンリー・ベンウェルも海軍軍医と記載されている。従って、後年しばしば引用されているブラックは「少年時代の教育をロンドンのクライスツ・ホスピタルで受け、のちブルーコート・スクールを出て、彼の家代々の慣習により海軍士官となった」という後半の一部は事実であると言えよう。
ところが前半部にある、クライスツ・ホスピタルとブルーコートスクールの関係がいまひとつ不鮮明である。実はこれは「ブルーコートスクールとして有名なクライスツホスピタル」(制服の色から来ている)と正さなければならない。また、ロンドンのギルドホール図書館に所蔵されている同校の記録を調べた限り、彼が教育を受けたと思われる1830、40年代にその名前は見当たらなかった。ただし、この記録はロンドンのものだけなので、当時60以上同校をモデルにしたブルーコートと呼ばれる学校があったというから、そちらの方の可能性もなくはないが、いずれにしても今後こうした確証がとれていない孫引き引用は避けるか、出典を明示すべきであろう。
ハンサード追跡のかたわら、シドニーへ研究先が転じてもJ.R.ブラックについての調査も続けた。むしろ、彼はオーストラリアに移住しているので、その分英国での調査方法を生かす資料探索ができるのではという期待もなかったわけではない。
それが現実となったのは、『国際系図索引』(版年確認できず)と『英国人名録伝』がともにマイクロフィッシュの形であったからだ。
この『国際系図索引』では、英国はスコットランドやイングランドなどに分かれ、さらに州別となっている。そして最初に姓と名(クリスチャンネームも含む)がでてくる。次の日付は出生、洗礼、結婚、死亡日だが人によりまちまち−−両親の名前がでてくるのもあれば、片親の場合や結婚相手名のこともある。出生は洗礼日の場合が多いが、まれに実際の誕生日が記載されていることもある。今回のブラックは、運のいい希な例であろう。そして洗礼(結婚式をあげた)教会、土地の名が続く。従って、同じ家系を探すことができることもあるが、結婚式をあげたところが生まれ故郷でないと載っていないことになる。ブラックの出身のファイフシャーには、何と「ブラック」だけで1600年代からまで4,300人以上記録されている。
以下は、概ね上の二資料と関連文献から作成したブラック家の人々である。
まず、J.R.ブラックはこれまで言われていた年よりまる一年早い、1826年1月26日、英国ファイフシャーのダイサートで生まれている(ただしスコットランドでの出生証明書は1855年以降しか入手できない)。出生地については、筆者が日本を離れている間に出版された『快楽亭ブラック』(講談社、1992年)の著者イアン・マッカーサー氏が探し出している(同書、39頁)。
父は彼と同名のジョン・レディ・ブラック、母はソフィア・キフィアーナ・ジュリアナで、旧姓ハーディス。1787年1月25日にダイサートで海軍軍人のジェームズ・ブラックと、グリゼル・レディとの間に生まれた父ジョン・レディは1797年二等水兵として英海軍に入り、黒海の守りについていた父が指揮する艦隊を振り出しに退役後も含めて1843年まで海軍に従事している。また、母の出身であるサセックス州のハーディス家でも、兄のジョージ・クラークは二人の結婚当時、海軍大佐であった。従って「代々海軍軍人……」といわれているのは、より一層正しいことになる。
マッカーサー氏によれば、ブラックの両親はイングランド出身ということだが(前掲書、37頁)、北のスコットランド出身の彼が、南のサセックス州、その一番南部のシーフォード(出身)のハーディス家のソフィアと結婚しているのは、やはり海軍という関係からか。もう少し調べる必要があるだろう。ジェームズ・ハーディスとジョン・レディの二人の子供がいた。
さて、そのJ.R.ブラックは、上述したようにエリザベス・シャーロッテ(父ヘンリー、母マリー。少なくとも4人の兄弟姉妹の長女)と結婚した。興味深いことにエリザベス・シャーロッテは1829年4月23日、グリニッジの聖アルペイジ教会で洗礼を受けているが、そこはブラックの父が結婚式をあげた場所でもある。この洗礼日を考えても、「ブラックの妻が年上であった」という話にはならないであろう。
もうひとつの発見も記しておこう。ブラックはその後、南オーストラリア・アデレードに移住し、そこで長男のヘンリー・ジェームズ(のち、日本初の外国人落語家、快楽亭ブラック)が生まれたことはよく知られるようになったが、当時の植民地新聞『レジスター』の誕生・死亡欄を編年体でまとめた記録書から、1856年9月1日付けで「(8月)29日、エンフィールドのジョン・R.ブラック夫人に長女誕生」とあり、翌年1月には「アニー」という名前が出され、その後死亡届けが出ている。入手した南オーストラリア州の証明書によれば、彼女は事実ジョン・レディ・ブラックの長女であり、ヘンリー・ジェームズが長男であることに変わりはないが、J.R.ブラックの二番目の子となる。
ここまでは、経験がものをいったのか、比較的スムーズだったが、ひとつまたややこしい一件が出て来た。それは、ブラックの祖父にあたるジェームズ・ブラックは「西インド諸島で兵役中死亡したジェームズ・ブラック海軍大尉の兄弟で、1814年に死亡したジョン・ブラック海軍大尉の甥である」という。彼らを調べるには参った。ジェームズとかジョンとかは先のブラックのなかでも、圧倒的に多い名のひとつだからだ。ジェームズなどはファイフシャーのインデックスの中だけで三百に以上いる。それでも、ジェームズ、ウィリアムという名をもつブラック兄弟が海軍軍人名鑑にあったため、これを糸口にインデックスと悪戦苦闘の末、現在照会中ではあるが、今後の課題であろう。
もし彼らもブラック家の姻戚であれば、なおさら海軍軍人として由緒ある家柄を離れジョン・レディ・ブラックは、一体何をもとめて南オーストラリアに渡ったのだろうか。そして日本に……。
今年は、ブラック上陸百三十年目という説もある。
詳細は拙論「ある英人新聞発行者を追って」『マス・コミュニケーション研究』第23号(1993)を参照。