「新放送下、変革の大波に揺れ動く豪放送界」
                                 鈴木雄雅
                                 『新聞通信調査会報』378号(1994/5/1)


第四段階に入った放送界
 これまでの豪州TV界みると、第二次大戦後、公共放送のABCと民放のTV放送が始まり、三大ネットワークが完成する一九六四年までが第一段階。続く十年の第二期では輸入番組一辺倒から自主製作・配給、視聴率の増加といった具合に、放送業界は国内産業として一人だちするマス・メディア産業の一角に成長する。成熟の第三期はおおよそ八七年頃まで続く。ABCの改革(八三年)や多言語放送のSBS(八〇年)が始まり、それまで根源をなしていた二元放送体制が崩れ、多様な放送サービス導入が始まった。カラー放送の開始(七五年)や放送衛星のAUSSATの打ち上げ、VCRの普及、それらを複合的に使う情報提供(VAIES)など、技術面あるいはそれに伴い、一端下り坂を見せた視聴者の増加や伸び続ける広告費が裏付けとなるだろう。

ABTからABAへ
 さて、その第三期からオーストラリアの商業放送のお目付け役ともいえるABT(オーストラリア放送行政委員会)が一昨年十月、ABA(Australian Broadcasting Authority) に衣替えした。一九四八年に発足したABCBが七七年まで続いたのちABTに代わって以来の、十五年ぶりの改革である。これは豪州で放送が始まって五十年の間、その骨子を担っていた旧放送法が全面的に改められ、「一九九二年放送法」が施行されたひとつの現れでもある。その背景には、引き続く経済不況の活性化を目指して、テレコム・オーストラリアの独占などを規制緩和した電気通信分野の改革があった。

 ABAの初代会長に就任したのは、一流日刊紙の政治記者出身のブライアン・ジョーンズ。彼はその後政府機構に入り、七〇年代ウィットラム労働政権そして引き続くフレーザー自由党政権で総理府の秘書官、政策立案者となった。この時、ラジオ放送に関する政策提言のシンクタンクの一人として活躍。出版社「ペンギン・オーストラリア」取締役としてオーストラリア出版物の促進に尽力した成果を肩に、公募のABC会長の座に挑んだが破れ、一九八七年からSBSの専務取締役に横滑りしていた。彼のアングロ=ケルトという背景はエスニック・コミュニティから疎まれているともいわれる。

 一言で言えば、ABAは前ABTに比べ、放送局の番組編成や譲渡、所有、コントロールに関して「公共の利益」擁護を守るべき権限、機能が大幅に縮小された感が否めない。発足直後、カナダのメディア・グループ、キャンウェストによる三大ネットワークのひとつチャンネル10(テン)買収劇に直面し、その真価が問われた。結果は、マス・メディア諸団体からあがった公聴会も開かないまま、阻止することはできなかった。

 ABAの主な役割のうち、ABTから引き継いだのは放送局の事業免許の申請・受理・付託・更新に関する権限だが、新たに監督官庁である運輸・通信省から放送全般の政策立案権が託された。その他に、コミュニティ放送の免許・付託に関する調査、コミュニティにできるだけ沿った実務基準の設定をアドバイスし、監視すること、国内放送番組の番組基準の開発と監視、全国放送を含めて放送サービスに関する苦情を監視し、調査すること、そして放送産業における技術発展、サービスの傾向を収集し、大臣にアドバイスすることなどである。

 ABAは新放送に基づき一九九三年六月現在、商業TV(旧商業/遠隔地TV)=四十四、商業ラジオ(旧商業/遠隔地/補完)=百六十六、コミュニティ放送(旧パブリックラジオ)=二百十一の、計四百二十一放送の免許を認可した。うち、八十二のコミュニティ放送がアボリジニを対象にしたもので、これまで限定的であったものを正式認可。さらに「ナローキャスティング」の区分を設け、懸案の有料放送の導入に備えるとともに、ABC、SBS、三大ネット局に続く第六チャンネル導入など、変革の時代に突入した豪州放送界は目まぐるしい第四期を迎えている。
(鈴木雄雅)




海外情報 多言語社会の現実重視へ 九〇年代の豪放送界

                                    鈴木雄雅
                                    『新聞通信調査会報』No.380 (1994/7/1)

 前号に続いて豪州放送界を紹介する。
 現在進んでいる放送法の改正で、在日外国人の増大に対応して外国語を専門としたFM放送局を認める方針が打ち出された日本とは異なり、マルチカルチュラリズムを標傍するオーストラリア社会が一九七〇年代から取り組んだのが、多言語放送専門のSBS(Special Broadcasting Service)である。それは多様化する人々に社会的機関としてマス・メディアの機能を対応させようとする国家的政策であったばかりか、従来の公共・民放という二元放送体制を覆す試みでもあった。

 軌道にのった SBS
 試行錯誤の八〇年代を経て、今日ではラジオサービスがシドニー、メルボルンをはじめ四都市で、またテレビ放送も衛星と再送信施設を使い、州都ばかりでなく、多くの都市でも多言語番組を視聴できるようになった。言語別で見ると、シドニーのSBSラジオ放送ではギリシア、イタリア、アラビアの三言語が上位を占め、スペイン語、ポーランド語、広東語が続く。この六言語で一年間の総放送時間七千時間の三割が流れている。それがメルボルンではドイツ、やオランダ、マルタ、トルコ、ポーランド各語の放送時間が増え、逆にスペイン語やアラビア語放送が減る。
 日本語放送は毎週水曜の夜十時から四十五分間、年三十九時間だから、年間の総放送時間量では〇・五%に過ぎない。男女のパーソナリティーが一週間の日本関係ニュース、リスナーからの手紙を読んだりと、オーソドックスなDJスタイルで、NHK的な万人向けの内容だ。同比率にあるのはコリア、フィン、タイ、タミールなど、アジア言語が目立つ。いずれにしても、英語を含め六十言語以上という多様さと内容は、オーストラリア社会における移民の多さと文化の多様性を示すものだろう。
 一方、一九八〇年に始まったSBSのテレビ放送はイタリア、スペイン、ドイツ、フランス、ロシア語番組の順に多く、必ずしも移民の数に比例しているわけではなく、言語数も四十言語近くと減る。一九九二/九三年度の総放送時間は三千八百三十六時間余りだから、ラジオと比べ半分程度の放送時間である。SB視聴者の四人に一人は海外の非英語圏の生まれだ。日本語番組は五十五時間(一・四%)だから、ほぼ週一回程度あったことになる。九三年二月に筆者がシドニーで見た番組は山田洋次監督の「キネマの天使」(一九八六年)と「人間の条件」(小林正樹、一九五九年)。英語字幕がつく。このほかに、欧米のJSTV程の規模ではないが、テレジョン・オセアニア(TVO)が衛星を利用して日本語番組を提供している。ただし、多言語専門といってもSBSの三〜四割の番組は英語放送である。

 メディアとマイノリティー
 現在の放送の骨子となっているのは、改正された「一九九一年SBS法」である。同六条には「エスニック、アボリジニ/トレスアイランダーのコミュニティを含めてマルチカルチュラル社会のコミュニケーション・ニーズに貢献し」「引き続く社会発展のための文化の多様性に寄与する」こと、さらに「国民に文化的、言語的、エスニックな多様性に理解と受容を促進する」ことなどが、SBSの主たる機能とうたわれている。
 豪州社会でギリシャ、イタリア、アラブ、スペイン人などはもうマイノリティーではない。著名な歴史家ジェフリー・ブレイニーは一九八四年、「労働党政権があまりにアジア人種の移民を許容したため、都市労働者階級の仕事が奪われ、オーストラリア社会の柔らかな調和を崩している」という人種差別発言をして論争となった。アボリジニやマルチカルチュラル団体がその先頭であったことは間違いないにしても、幾度となくSBSの経営や放送体制について論議がなされるなかで、豪州社会は柔軟にマイノリティーに対するメディアの多様性を重視する方向に進んだ。
 翻って日本社会を考えると、外国語のコミュニティ・ペーパーや広報などの活字メディアの多言語化が始まったばかり。いずれ、TVメディアへの拡大に動くのであろうか。