Sali Augustine/サリ アガスティン | Faculty of Global Studies, Sophia University/上智大学総合グローバル学部

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倫理的スーフィズム

罪は悔い改めによって消える

 僕(しもべ=預言者=人間)から罪(dhanb)が生じると、それに伴って[無明の]闇(zulmah)が生じる。悪行をたとえれば火であり、闇はその煙である。家の中で70年も火を燃やしてきた人のようなもので、[家]は真っ黒になっているのにきっと気づくだろう。それと同様、心も悪行でまっ黒になっており、それはアッラーにむかって悔い改めなければ、清められることはない。なぜなら、卑しさとか闇とか覆いとかが悪行と結びついているからである。アッラーに向かって悔い改めれば、[心の汚れのもとである悪行とこれに付随する卑しさ、闇、覆いなどから免れて]もろもろの罪の痕跡が消え去るのである。

罪を犯したらすぐ悔い改めよ

修行階梯(かいていmaqamat)の第一は、悔い改め(tawbah)である。[階梯において]そのあとに来るものは、[悔い改め]によってみ受け入れられる。悪行を犯したときの僕をたとえれば、新しい鍋が一時間火で熱せられ、黒くなってしまったようなもの。いそいで洗えば、このこげつきは落ちるが、放っておいてなんどもそれで調理していると、そのこげつきが固まってしまい、ついには[鍋が]こわれてしまう。[そのときになって]洗ってみても何のやくにもたたない。さて悔い改めというのは心のこげつき[汚れ]をあらいおとすものであり、そうなれば、もろもろの行いは、受容の[芳]香を伴ってあらわれる。それゆえいつも至高なるアッラーに許し(tawbah)を求めよ。

(イブン・アター・アッラー1309年没)
〈東長靖「中世イスラームの倫理説―イブン・アター・アッラー『魂の矯正を内包する花嫁の冠』問題ならびに訳注(1)」『東洋大学紀要教養課程篇』第35号、1996年より〉

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