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湯浅 誠(便利屋あうん) | ||||
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私はかれこれ10年近く、野宿者(ホームレス)の支援活動に携わってきましたが、「ともに活動する」ことはあっても、このようなスタンスで活動するのは初めてのことでした。それまでは、活動とは別に労働と生活の場を持った「支援者」だったわけです。 これまでの活動経験と現在とで何がどう変わったのか。「あうん」の活動を紹介しながら、そんなことも自分自身で考えてみたい、そんな原稿になれば、と思っています。 この期間は、自分自身が関わる前のことゆえ、詳しいことは書けませんが、当初はとにかく「食べることができて、風呂に入れて、そしてとにかく仕事をして、月3万円の収入を作り出す」ことが一番の目標でした。そのために風呂付20坪のスペースを借りて店舗兼事務所とし、フードバンクという食料支援団体からお米などの寄付を受けて活動していました。労働+ドロップインセンター的な機能で働く当事者を支えていたわけです。 最初の月は、なんとか家賃の13万を支出するのが精一杯だったと聞いています。そして、2002年12月にはじめて、スタッフとして働いていた当事者3名に3万円の月収を出せたのでした。当事者スタッフとともに働いていた常勤の支援者スタッフは2名で計5名。当時の苦労が想像できます。 |
そしてちょうどそのころ、あうんは店舗とフリマの売上げが5〜60万に到達したもののその段階で停滞し、月収3万の壁をどうすれば突破できるかを思案していたところでした。より多くの仕事づくりを通じて、より多くの仲間たちにより多くの収入を。「便利屋あうん」がこうしてスタートしました。 | ||||
そして、始める際に「一年間で携わるみんなに月収8万を確保する」と目標を立てて、「な〜に言ってやがる」と冷やかされた便利屋事業も、次第に顧客と注文を増やして仕事の日数と売上げを増やし、現在ではリサイクル事業と合わせて月額150〜200万、9人の当事者スタッフと2人の支援者スタッフ、それに私も含めて数人のパートスタッフに月額80万の人件費を回せるようになりました(グラフ参照)。 |
そして今、一定の経験と事業運営の仕方に関する蓄積を元に、いかにみんなで仕事を開拓してより多くの当事者が働ける環境を作っていくかが、次の課題として見えてきています。 私にとってよかったことの一つは、これによって「生活」と「活動」のジレンマから幾分なりとも解放されたことです。「活動」していると「生活」ができない。「生活」をしていると「活動」ができないというジレンマは、当事者・支援者がともに抱える問題でした。生活の余白を活動に充てると言うとき、余白にはどこかに限界があり、そして余白はどこまで行っても余白に過ぎません。理由は単純。それでは「食べていけない」からです。そして食い扶持を他に確保すれば、「活動」はやはり余白にならざるを得ない。しかしそれを自分では認めたくない。自分にとってそれは余白ではない、と言いたい。だからこそ逆に「活動」に過剰なアイデンティティを求める。自分はこれにすべてをかけているのに、中途半端な「ボランティア」はけしからんとなる。そんな甘いもんじゃない、などと言いたくなる。自分だけが「当事者」の置かれた状況や気持ちを理解しているような気になる…。 | ||||
こんな悪循環にはまっている人たちをたくさん見てきたし、自分自身もそうでした。それは当事者も同じです。彼らこそ「生活」を立てること(食料や寝場所を確保し維持すること)に本当に忙しいのに、その上「活動」する。「活動してたら食えない」という声を山ほど聞いてきました。それでも「活動」する以上、そこには何らかの「利益」がなければならない。「活動」に参加する当事者が何かしらの意味で「特権化」されていくのも多くの場所で目にしてきました。そしてそれは多くの場合「意識」の問題として片付けられてきました。「野宿者全体が大変なことになっているのになぜ活動に参加しない?」「そういう特権化は他の野宿者の手前どうなのか?」…しかし根は物理的・物質的な問題であり、心構えの問題ではないわけです。 当事者・支援者を取り巻くこのジレンマが、年々私にはキツクなっていました。現実に「活動」が「生活」を飲み込んでしまうほど忙しくなってきて生計が立たなくなってくる上に、無意識のうちにはまりこんでいた悪循環が見えてくるからです。しかし「ともに働く」ときには、「食っていくための仕事であり活動である」というきわめて単純な事実の前に、このようなジレンマは吹き飛びます。「おれもあんたも食えるように一緒にがんばろう」とてらいなく言えるし、どんな人のどんなわずかな支援も受け入れられるようになります。 |
もう一つの成果は、基本的には同じことですが、「あうん」に対して、そして仕事に対して、当事者も支援者も平等と感じられるようになったことです。私はそれまでずっと「当事者運動体」で活動してきましたが、「当事者運動」と言うとき、それは「本来」当事者のもので、支援者はその運動の外部からそれを応援するに過ぎない、という意味が含まれています。しかし、現実に運動を引っ張っているのは支援者でした。支援者がビラを書き、当事者に呼びかけ、運動を組織し、意見を集約し、「これが当事者の意見だ」とそれを代表する。支援者としての私自身の立場と役割は常に曖昧でした。前にいるのに後ろにいるような顔をしている…混乱するのは当たり前です。しかし「ともに働く」というときには、自分の立場ははっきりします。仕事をこなして「あうん」を盛り立てるために、自分のもっている力を発揮すること、それだけです。自分の得意なことはどんどんやるし、自分の苦手なことは人から学ぶ。仕事の現場では、それぞれの役割が単純で、かつ明確です。片付ける人、運び出す人、積み込む人がすぐに別れ、それぞれの役割をこなします。そしてそれは自然とそれぞれの得手不得手にしたがった分担となります。理由は単純。限られた人数で一定の仕事をこなそうと思えば、それがもっともスムーズで、かつ効率的だからです。「誰の」仕事ということはない。「われわれの」現場があるだけです。 | ||
「ともに働く」というときの「ともに」がごくごく限定された人たちの間でしか成立していないのです。その地域に暮らす野宿者全員を相手にする、そうした活動とは根本的に違ったレベルに位置する、と言うべきなのかもしれません。「あうん」は現在、メンバー拡大のためにさまざまなことを準備していますが、それとてしょせん10人が20人になるだけの話で、圧倒的多数の野宿者には依然として無関係なままでい続けることに変わりはないでしょう。 しかし私は、少なくとも現在、それでいいのではないか、少なくとも自分の役割はそこにあるのではないか、と感じています。 80年代頃からグローバル・アンド・ローカルといった標語が市民活動の中で一般化してきたと記憶していますが、私が最近よく思うのは「空間づくり」ということです。この社会には野宿者を生み出すような社会構造があって、それは本当にすさまじい勢いで進行していっています。今や人材派遣で不安定就労者がドシドシ増えていくことにほとんど誰も驚かなくなりました。若者はアパートを立ち退かされ、派遣会社に複数登録して、毎日マンガ喫茶に寝泊りして、なんとか路上に出るのを瀬戸際で食い止めている。いい年をした中高年はリストラや配置転換され、コンビニやファーストフードで夜勤のアルバイトをしている。アメリカの知識人はこうした流れを「底辺に向かう競争」と名づけましたが、経済的に貧乏なだけでなく、不安定で生きづらい社会になっている…。私の目に映っているのはそんな社会です。 そうした中で自分に何ができるかを考えるとき、それはさしあたって「砦」作りではないかと思っています。「空間づくり」と言ってもいい。 |
何かの拍子にいとも簡単に仕事が回ってこなくなる日給月給制の仕事に汲々としがみつくのでなく、自分を受け入れ、一緒に働いていける空間を自分たちで作っていく。どんなときでも行けば誰かしら知り合いと出会えるような居場所としての喫茶店やバーなどの寄り場を作っていく。すぐに追い出される危機にさらされるのではなく、地域との付き合いをもった生活を築ける住居スペースを作っていく。悪化していく社会の流れに流されないような空間を自分たちの力で築いていく。小さくてもいいから、とにかく基本的なところさえ共有されていれば、それぞれが自分の興味と能力でドシドシ作っていく。四の五の言わずに作っていく。そしてそれらがつながって、仕事・生活など人の生活すべてをカバーできるような空間ネットワークを築いていく。そんな夢を持ちます。 「あうん」の取組みは小さい。それは世間一般の規模から言えば零細企業にすぎません。しかし、大きくなりたくてなれない、競争社会で勝ちたくて勝てない零細企業ではなく、負けないための拠点となりたい。負けないこと、オルタナティブとはそういうことではないかと最近感じています。 | ||