「ともに働き、一緒に生きていく」――2002年に発足した「あうん(正式名称:アジア・ワーカーズ・ネットワーク)」が掲げるのは、しばしば目にすると言えば目にする、このような目標です。 私はかれこれ10年近く、野宿者(ホームレス)の支援活動に携わってきましたが、「ともに活動する」ことはあっても、このようなスタンスで活動するのは初めてのことでした。それまでは、活動とは別に労働と生活の場を持った「支援者」だったわけです。 これまでの活動経験と現在とで何がどう変わったのか。「あうん」の活動を紹介しながら、そんなことも自分自身で考えてみたい、そんな原稿になれば、と思っています。
私が「あうん」に関わったのは、ほぼ一年前の2003年7月でした。しかし、あうん自体はさらに一年前の2002年8月に発足しています。設立当初に発せられたメッセージは、「当事者(野宿者)も支援者もともに働き、自分たちで事業を展開していく中で、野宿しながらでも生活していける最低限の3万円の収入を確保する」というものでした。そして、古着の寄付を集めてそれをリサイクルショップと出店したフリーマーケット会場で販売する、という事業を開始しました。 この期間は、自分自身が関わる前のことゆえ、詳しいことは書けませんが、当初はとにかく「食べることができて、風呂に入れて、そしてとにかく仕事をして、月3万円の収入を作り出す」ことが一番の目標でした。そのために風呂付20坪のスペースを借りて店舗兼事務所とし、フードバンクという食料支援団体からお米などの寄付を受けて活動していました。労働+ドロップインセンター的な機能で働く当事者を支えていたわけです。 最初の月は、なんとか家賃の13万を支出するのが精一杯だったと聞いています。そして、2002年12月にはじめて、スタッフとして働いていた当事者3名に3万円の月収を出せたのでした。当事者スタッフとともに働いていた常勤の支援者スタッフは2名で計5名。当時の苦労が想像できます。 |
「あうん」店舗外観
 | 他方、私自身は別の団体で生活困窮者に対するアパート入居時の連帯保証人を提供する活動をしていたために、アパート退去時の片付けなどを活動として(つまり仕事としてではなく)やることがありました。連帯保証人が片付けをしなければならない事態というのは、つまりトラブル発生ということです。片付け作業は、すでにいなくなってしまった人の「後始末」という、まったく展望のない作業でした。展望のないこと、未来を感じられないことはやりたくない、しかしたとえどうであれやらなければならない、というときは、ではどうすれば同じ作業を展望あるものにできるのか、を考えます。思い付いたのが「これを野宿者や生活保護受給者の就労支援として事業にできないか」ということでした。ふだんこういう場合、片付け仕事などはどのような手続を経て、誰が、いくらくらいでやっているのか。ちょっとした「市場調査」を経て、これを仕事として、事業として展開していくことを本気で考えるようになりました。 そしてちょうどそのころ、あうんは店舗とフリマの売上げが5〜60万に到達したもののその段階で停滞し、月収3万の壁をどうすれば突破できるかを思案していたところでした。より多くの仕事づくりを通じて、より多くの仲間たちにより多くの収入を。「便利屋あうん」がこうしてスタートしました。
|
2003年の7月30日に片付けの初仕事を行った便利屋事業は、三つの力によって支えられています。一つは、当事者の力。衣類の細かい仕分けを必要とする古着販売と違い、片付け仕事や引越しなどの便利屋事業は、いわば当事者のオハコです。私のように、これまで肉体労働をまったく経験していないようなインテリ崩れは、一緒に仕事をしながら当事者たちから学ぶことのほうがはるかに多い。梱包、積み込み方、道具の使い方、重い物の持ち方・運び方、そして集団で労働するときの間合い・休息の取り方・和の取り方。現場はごく自然に当事者主体で回っていきます。二つ目は、支援者の力。そうは言っても仕事は現場だけで完結するわけではありません。商品の製造が、製造だけでなく買い付け・仕入れから営業・販売までの一連の流れの中で初めて完結するように、便利屋事業も営業から電話受け、見積もり、人の手配、車や道具の用意、鍵の受渡し、請求書や領収書の発行等々といったさまざまな事務仕事が現場の前後を固めて初めて一つの仕事として完結します。そして多くの当事者はこうした事務作業の経験がなく、かつ苦手です。経験がないことは私も同じでしたが、それでもやはり現在では見積もりの仕方などを当事者に伝える側に回っています。そして三つ目は、協力者の力。便利屋事業は発注してくれる人たちが存在して初めて成り立ちます。野宿者運動のようなマイナーな問題においては、金も技術も権力もない中、人脈だけが唯一の財産ですが、その人脈を最大限に活用して仕事を掘り起こしていきます。そして、最初はどうしても半信半疑の中、それでも「じゃあ頼んでみるか」と仕事を出してくれる人たちの存在が、便利屋事業を支えています。 そして、始める際に「一年間で携わるみんなに月収8万を確保する」と目標を立てて、「な〜に言ってやがる」と冷やかされた便利屋事業も、次第に顧客と注文を増やして仕事の日数と売上げを増やし、現在ではリサイクル事業と合わせて月額150〜200万、9人の当事者スタッフと2人の支援者スタッフ、それに私も含めて数人のパートスタッフに月額80万の人件費を回せるようになりました(グラフ参照)。
|
そして今、一定の経験と事業運営の仕方に関する蓄積を元に、いかにみんなで仕事を開拓してより多くの当事者が働ける環境を作っていくかが、次の課題として見えてきています。
あうんは、労働者協同組合(ワーカーズ・コレクティブ)的な集まりとなることを目指しています。それは現場で働く人たちが同時に運営を担い、自らの意思と責任であうんという集まりを盛り立てていこうとするためです。それゆえ、あうんに「ボランティア」はいません。当事者も支援者も含めて全員が有給であり、そして同一賃金です。現在は、店に入った日は一日3000円、便利屋に入った日は一日6000円と決め(交通費と食費は別に支給)、出勤して働いた日数に応じてそれぞれの取り分が決まります(なお、あうんの収入のみで経済的に自活している当事者スタッフを支援するため、住宅手当もあります)。 私にとってよかったことの一つは、これによって「生活」と「活動」のジレンマから幾分なりとも解放されたことです。「活動」していると「生活」ができない。「生活」をしていると「活動」ができないというジレンマは、当事者・支援者がともに抱える問題でした。生活の余白を活動に充てると言うとき、余白にはどこかに限界があり、そして余白はどこまで行っても余白に過ぎません。理由は単純。それでは「食べていけない」からです。そして食い扶持を他に確保すれば、「活動」はやはり余白にならざるを得ない。しかしそれを自分では認めたくない。自分にとってそれは余白ではない、と言いたい。だからこそ逆に「活動」に過剰なアイデンティティを求める。自分はこれにすべてをかけているのに、中途半端な「ボランティア」はけしからんとなる。そんな甘いもんじゃない、などと言いたくなる。自分だけが「当事者」の置かれた状況や気持ちを理解しているような気になる…。
|