意味と真理パラダイム論批判 白頭翁の覚え書き(論文ではありません)
パラダイム論者は、しばしば次のような主張をします。 「二つの理論で共通に使用されている基本用語が異なった意味を持つならば、二つの理論は互いに共約不可能である。」 つまり、パラダイムの相違は意味づけの違いであり、同じ語を使用していても、双方は別の対象について語っているのだから、二つの理論のいずれが「真」であるかを決めることは出来ない、という主張です。 この主張を、検討してみましょう。ここでは、 「意味」という観念は曖昧さを孕んでいるので注意が必要。 まず、フレーゲの言うSinn(内包的意味)とBedeutung (外延的意味)、クワイン等英米の分析哲学者が言う、meaning とreference の区別から始めます。 「宵の明星」と「明けの明星」は内包的意味は異なるが、外延的意味は同一であるとフレーゲは主張しました。その理由は、 宵の明星=宵の明星 は論理的な同一判断であるが、 からです。 そして、経験的な認識価値を持っているのは後者、即ち、内包的意味の異なるものの間に成立する外延的意味の同一性。 さて、「外延的意味」の同一性は何が保証するのでしょうか。 宵の明星と明けの明星の例ならば、「金星」という固有名を使えばよい、と言うかも知れません。 固有名によって、言語は、言語の外部にある、言語とは独立の対象を名指すことが出来ると。 このような考え方にたいして、たとえば、バートランド・ラッセルは、固有名と考えられているものを確定記述(the satellite of the earthのように、記述内容を媒介として唯一の対象を指示する表現)に還元する理論(「記述の理論」といいます)を提案しました。その心は、我々は記述内容を一切捨象して「裸の個体」を指示することは出来ない、という所にあります。 ここでいう、記述内容は、内包的意味によって与えられますから、結局の所、外延的意味は、内包的な意味から独立に定めることは出来ない、という結論が生まれます。言い換えるならば、外延的意味というのは、内包的意味の差違性における同一性という場面を離れて、独立に指定できないというわけです。 さて、ここまでの議論を、この論考の冒頭で紹介したパラダイム論の定式に応用してみましょう。 それは、 私は、この定式は、外延的意味と内包的意味の区別がなされていない点において適切でないと思いました。 (もし私が、筋金入りのパラダイム論者であったなら) 「二つの理論で共通に使用されている基本用語が、果たして同一の外延的意味を持つかどうかは決して認識し得ない。それ故に、その二つの理論は共約不可能である」 と言うでしょう。 この主張を補強するために、パラダイム論者は、クワインが『言語と対象』のなかで主張したテーゼ「外延的意味(reference)の不可測性」を持ち出すことができます。 クワインは、二つの競合する理論の間の共約不可能性の文脈ではなく、二つの異種言語間での、原始的なレベルでの「翻訳の不確定性」の文脈で論じたのですが、「外延的意味(reference)の不可測性」がパラダイム論者に有利な議論であることは明かです。 従って、真にパラダイム論を批判しようと思ったら、それ自身きわめて曖昧な形で定式化されたテーゼ(ソフトなものもハードなものも)でなくて、上で再定式化されたようなテーゼを批判すべきだと思います。 それでは、クワインの緻密な議論によって補強されたパラダイム論を、どのように批判できるでしょうか。 S.クリプキは、示唆に富む論文「名指しと必然性」で、固有名や類種名の言語に於ける働きは、内包的意味には還元できないこと、より厳密に言えば、それは「記述の束」と等値ではないことを、様相論理学の文脈で論じています。そのような等価でない機能を、彼は「固定指示子」と呼びました。 クリプケの議論を、私なりに(やや粗雑に)再構成すれば、こうなるでしょう。 たとえば、歴史上の人物である使徒パウロは「ヘブライ人への手紙の著者」等々の確定記述によっては説明できない働きをします。ある聖書文献学者が、現実にはパウロは「ヘブライ人への手紙」を書かなかった、あの書簡は別の人物の書いたものであるという学説を唱えたとします。 これに対して、別の文献学者が、「ヘブライ人への手紙」はパウロの真正の書簡であると、反対意見を述べたとします。 もし誰かが、固有名「パウロ」の指示機能が、理論の中の内包的意味だけに依存するのであるならば、 「この二つの対立する学説は、「パウロ」という固有名のもつ内包的意味がまったく異なるのだから、それらは共約不可能であって、議論そのものが成立しない」と述べなければなりますまい。 その場合、明らかに「パウロ=『ヘブライ人の手紙』の著者であり、かつ『ローマ人の手紙』の著者でもあった人」という内包的意味を持っている人と 従って、「パウロは『ヘブライ人の手紙』を書かなかった」という主張を、相手に対して説得的に述べることが出来なくなると言うことが帰結いたします。つまり論争の必要が全くなくなるということです。 しかしながら、聖書文献学というきわめて実証性を重んじる人文科学で、ある書簡がパウロの手になるものであったかどうか、ということが議論される場合には、議論の当事者は、固有名「パウロ」が、歴史的に実在した人物の名前であって、いくつかの真正の書簡(ローマ人への手紙)を書いたということなどについてかなり良く意見が一致しているのが普通です。つまり、意見の不一致が問題になり得るためには、広範な意見の一致が共有されていることが必要であります。そして、そのような背景知のもとで、「パウロは『ヘブライ人の手紙』を書いたのか」と問うことは、十分に意味のあることです。 そうすると、このような議論をアプリオリに不可能にしてしまうような意味理論は、どこかおかしなところがあると言わなければなりますまい。 即ち、固有名には、記述の束には還元されない「固定指示子」としての機能があり、それが、異なる理論を信奉しているもの同士の間での議論を可能ならしめている----これがクリプケの意味論のもつ基本的な洞察であります。 固定指示子の機能を説明するときには、様相論理学の文脈で「複数の可能世界で、常に同じ個体を名指す」とかいったたぐいの定義が使われることが多いのですが、私は、「可能世界」というかわりに世界の「可能な記述」と言い換えたい。 実際、様相論理学を専門に研究している人の多くも、悪しき意味での形而上学的響きを持つ「可能世界」ではなく「世界の可能な全体的記述」をもって代用しております。「世界の複数の可能な全体的記述(理論)において、常に同じ個体ないし類種を名指す」固定指示子の機能に着目する事は、科学史における理論の発展にともなう用語の(外延と内包の両方に於ける)意味の変化を語るときに必要です。 たとえば「電子」の概念は、まさに科学者の様々な実験観察によって、豊かになりました。 この場合、私たちは、「電子」の語の外延が時代によって異なっていた、ということは出来ます。エレクトロンという語はもともとギリシャ語で、その時代と今との間で、外延的な指示の同一性をいうのは愚かなこと。又、ローレンツは「電子」という語を「正と負の荷電をもつ素粒子」と定義しました。電子の「実在性」は、まだ実験によって確証されていませんでしたから、純然たる理論概念であったわけです。彼の場合は、当初のうち、全ての素粒子は荷電を持つ、という思いこみがあったようです。 余談になりますが、宮沢賢治が読んだような、古い科学の教科書には「物質は電子からなる」という記述がありますが、これは一時代前の「電子」の「内包的意味」に従っているのです。 やがて、原子の内部構造を探索する実験技術が進歩したお陰で原子核のまわりに軌道を描く負の荷電素粒子と原子核を構成する正の荷電粒子を用語上区別する必要が生まれ、「電子」は、負の荷電粒子に限って適用されるようになりました。 一つの電子の電荷の大きさ、その質量などが精密な実験によって測定されるに及び、電子の「外延的意味」が、様々な実験観察によって固定されたのです。 ですから、ある理論語の「外延的意味」を定めることは、科学史においては重要な作業となります。 次の段階は、そのようにして「外延的意味」が固定した「電子」が波動的な性質を持つこと、がまずド・ブロイの物質波の理論で予言されました。そして、電子線の干渉効果を示す実験によって電子の(正確には多数の電子の統計的集団の持つ)波動性が実証され、「電子」の「内包的意味」は変化しました。 しかし、この場合は、「電子」の外延的意味はそのままです。なぜなら、電子の波動性を示す実験そのものは、一個の電子と検出器とのエネルギーのやりとりを前提しており、この検出実験は、電子の粒子としての個体性を前提して初めてなされうるからです。 このように、科学の歴史において、理論語の「外延的意味」と「内包的意味」の同一と差違の事例は、理論のダイナミックな進展を語る上で有益であると思っています。 さて、 問題A「真理は概念枠に依存するか」の考察に移ります。 私は、この問いに対して、すぐに結論を出すというのではなくて、その参考にすべき一つの議論を提供しましょう。 まず、真理概念、それも対応説で言われる所の「真理」を考察します。 フレーゲの場合は、「真理」は命題の外延でした。(内包は、「思想」です) そこで、言語表現の事例として命題をとり、その外延(真理)が、「理論の外部に根拠があるものではない」かどうか考察してみましょう。 議論を単純化するために、ここで言う「理論」とはカルナップ等が言った意味での、LOGICAL SYNTAX のように、言語にあくまでも内在的な、基本語と文法、構成規則、変換規則等々からなるシステムを意味すると仮定してみます。 徹底した logical syntax の立場に立てば、全ては言語の内部での話になります。 事実と命題、語と対象の関係の関係を語ることも同一の言語、(ただしメタ言語)のなかで行われます。 さて、このメタ言語の中で、あくまでも言語内在的に、真理概念を普遍的に定義出来るでしょうか。 私は、ここでタルスキーの仕事が決定的な意味を持ってくると思います。 ただし、彼の仕事は、しばしば 「真理の定義を与えた」と誤解されています。この誤解が、生じたのは、多くの論者が 「雪が白い」は、雪が白い時、そしてそのときに限り真である という引用符排除の規則を「普遍的定義」と勘違いしたことに起因します。 タルスキーが実際にしたことは、 もし我々が、算術の公理を含むような、十分に豊かな言語を問題にしているのであれば、そのような「真理」の普遍的定義は二律背反に陥る---これが、タルスキーの有名な論文の重要な結論であると、私は考えています。 この証明は、ゲーデルの「不完全性定理」とおなじく、対角線論法という帰謬法(間接証明)に基づきます。 ゲーデルの場合は、数学を言語に内在的な規則のシステムに還元することは出来ないことを、かの有名な「不完全定理」で証明しました。ちなみに、ゲーデルは数学的対象についてはプラトン主義者(実在論者)ですが、それは、このことと深く関連しています。 数学的対象が、数学的言語に内在的なものではないことを示すゲーデルの不完全性定理と同様、真理概念を主題とするタルスキーの定理は、「真理」が、言語的枠組みに内在的なものではないことを教えます。それは、そのような内在説を徹底した立場が二律背反を導くからです。 このような事情は、我々の議論が進むべき方向を示唆しているように思います。 私は、実在論を、言語以前の直接的な認識によって、その正しさを証明できるようなものであるとは思いません。言語の外延的意味を与えるべき対象を、ラッセルが言ったような「直接知(knowledge by acquaintance)」に還元することは出来ません。言語は、本質的に社会的なものであって、他者とのコミュニケーションという文脈を欠いた直接認識によっては外延的意味は確定しないのです。 実在論は、言うなれば、「実在論を否定する議論の否定」として主張できるのです。この二重否定は、単純な肯定とは違います。 実在論を否定する議論は誤りである----この二重否定の議論を個別に、様々な文脈に置いて示すプロセスにおいて、我々は、言語の枠組みの内部にとどまることの限界を学び、又、様々な概念枠の相違にもかかわらず、つねにそのようなパラダイムの相違を越えて、無限なる実在を探求しつづけるべきであることを、知ると言えましょう。 |