マルチメディア--コミュニケートする権利の拡大と落とし穴
(日経MIX
1995年1月)上智大学文学部助教授 鈴木雄雅
◇マルチメディア・フィーバーは続く
昨年の「マルチメディア騒動」は数年前の「ボジョレ・ヌーボ」の騒ぎを思い出す、と揶揄(やゆ)する人もいるくらい「ウィンドウズ
95」「インターネット」といった言葉に代表されるパソコンブームが日本を覆っています。95年度の出荷台数530万台、家庭普及率10%をこえる勢いで「一家に一台」の期待も高く、今年は725万台にものぼるそうです。他方、日本の世帯平均を網羅したというある調査では、パソコンを持っている人は
100人中24人で2割強、使いこなしている人はその半分のわずか12人なのに、「21世紀にパソコンを使えないと〃おちこぼれ〃の烙印を押されてしまうと思う」人は過半数を超える結果が出ています(TBS、1995年12月)。いま、これを読んでいる方はいかがでしょうか。読んでいらっしゃるくらいですから、少なくとも前2者ではないはずですね。ところが、そうでない8割強の人々は皆さん方の現実とは裏腹に、日々の報道で「マルチメディア」をはじめとした言葉が溢れているのを目の当たりにし、またそれとともに日常的にパソコンを使っている光景が身近に感じるようになった今日、「分からない」「使えない」という危機感、恐怖感が彼らの間に芽生えているのもまた事実です。テレビのCMなども、このフィーバーに一役買っています。
これからわれわれが迎えようとする社会は、確実にこれまで以上に「双方向的な情報交換が可能な機器」が主役となることが予測されます。では一体誰がその主役を動かすのでしょうか。
主役はその利用の仕方によっては世界の政治、経済、社会を変える力を潜在的にもっているかのようにも伝えられています。マルチメディアの着眼すべき点は、コミュニケーション論でいう、双方向性、フィードバック機能がこれまで以上に人々に委ねられる機会が増え、さらにわれわれが容易に
information 《情報》=組織化されてコミュニケートされたデータにアクセスできるようになる社会に近付いているということです。もっと別の言い方をすれば、受け手がよりパーソナル的な状況で、つまりある目的に即するようなメッセージの入手と発信が限りなく容易になることを目指す社会に向かっていると思います。◇「コミュニケートする自由・権利」の拡大
考えてみると、パソコンに代表されるメディアの開発は、もしかすると人々のコミュニケーション領域を広げてはいるものの、確実に「コミュニケートする自由・権利」の実現の方向に、人類が知らず知らずのうちに進んでいるのかと思います。ジョン・フィスクという人は、メディアを3種類に分けました。
(1)現示的メディア=声、表情、肉体の動作など、コミュニケーター自身がメディア、(2)再現的メディア=本、絵画、写真など「テキスト」形態のもの、そして(3)機械的メディア=電話、ラジオ、テレビ、フィルムなど前2者を伝達するもの、の3つです。メディアの意味が広がり、その機能が収斂(しゅうれん)していることを強調しています。そして、この化け物のようなメディアの出現はわずか半世紀程前なのですが、人類が口頭コミュニケーションから文字を作りだし、洞窟画やロゼッタストーンに記録を残した時代から紙の大量生産が可能となり、活字文化が社会の中で知的・伝統的遺産の継承などの役割を果たすという認識が主流となる時代までに開発された(マス・)コミュニケーション・ツールを一挙にひとつに集約化してしまうようです。この急激な技術革新の普及が「ネチズン」(インターネット・シチズン)になりたい人々を増やす一方、「情報貧民」「情報難民」とか「情報プアマン」などの社会的格差、いわば情報格差を生むのではと危惧する声を醸し出しているのではないでしょうか。
マス・コミュニケーションの発展自体が近代資本主義の発展の産物ではあるものの、人々は市民革命による諸個人がもつ考えを表現する自由と権利を勝ち取りました。印刷術は人々が
knowledge《知識》をもって(に基づいて)自由に意思を表明する、参加するそして国民に知らせる役割を果たすメディアが社会のなかに産声をあげたのです。フランス人権宣言(1789年)の第11条は「思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利のひとつである。したがってすべての人民は、自由な発言に対し、記述し、印刷することができる。ただし、法律により規定された場合におけるこの自由の濫用については、責任を負わなければならない」。これによって、それまでごく一部の封建的な国家体制、エリートが持ち続けた印刷技術−印刷物の生産・流通−を、人々は受信ばかりでなく、自分たちの側からも発信する術(すべ)を獲得したのです。◇見えない落とし穴
ところが、この
200年の間にわれわれが見たのは、理論上の公衆の登場に代わる大衆と大衆社会の出現であり、自由主義経済の勝利は一方で送り手を高度に組織化された専門集団(マス・メディア/企業)を、他方大衆・マスがこれを一方的に受信し、消費する社会体系を作り出してしまいました。そして公共の利益、人々への奉仕が主たる役割といわれながらも、その過程で情報の鮮度と重要さを知っている、というよりそれを己の利にしようとする人々がいつの時代にもいました。それは現代メディア社会の高度な発達よりはるか昔から……。カエサルやアレキサンダー大王は広がった帝国内に通信網を張り巡らし、言論の怖さを熟知していたナポレオン一世は皇帝になると、新聞を取り締まりました。社会主義国の「国家に奉仕する」、途上国の「社会的発展の」ためのメディアとか、ヒトラーやファシズムなどにおける言論統制などは社会的に突出した側面ですから、分かりやすいでしょう。情報の独占ないし寡占、あるいは情報網の掌握・管理は、いつの世でも為政者にとって、権力を好む者にとって魅力溢れるものでした。
情報化社会においてこうした
wisdom《知恵》はますますそのやり方が巧妙になっています。一言で言うと、コミュニケーション・ネットワークの構築とその独占的使用でしょう。ハードの独占とそれに伴う情報の掌握、そしてそこから生み出される経済的富裕さが最終目標なのでしょうか。一歩間違わなくとも、ただし書きはいまでも警鐘を鳴らしているのです。
以 上