徒然物草付録


「文」「理」について(2005-05-14)

教育課程について色々と深刻に考える機会が最近多いのだが、 その中で「文」「理」の違いについて最近考えることを書いておく。 誰しも漠然とは感じていることと思うが、 一度改めて文書化して意識的に捉えておくのも意味があると思う。

学問の対象は森羅万象ありとあるもの全てであって、 それらを深く理解して、 出来れば何らかの体系として捉えようというのが学問という文化であろう。 学生には常日頃 「解析も代数も互いに関係ないものではなくて、 同じ対象を研究するのに色々な方面から見て詳しく調べる、 その見る方面・手法の違いに過ぎない」 と言っているのだが、 「文」「理」もこれと同じようなもので、互いに関係ないものではなくて、 人間の文化を考える際の手法の違いに過ぎない。 深い理解に達するには双方連携して色々な方面から見ることが望ましい。 「文理連携」ですな。

(余談:「衆盲象を撫づ」の個人的肯定的解釈…‥… 全体が一望できなくても、色々の方面から調べてそれを正しく総合すれば、 全体像を正しく知ることが出来る。 こういう積極的な意味でこの言葉を使っていきたい。)

さて、その際、夫々の手法の違い・特性については正しく理解する必要があるが、 その部分を意識的に再認識することが大切だろうと考える。 これについて次のような捉え方を提唱してみたい。

最終的には広く深く判ることが目標であるが、対照的に言えば、 「文」の手法は「先づ広く知ることによって深くに達する」、 「理」の手法は「先づ深く知ることによって広くに達する」。 「帰納的」と「演繹的」と言えば古来の用語でしょうか。 公理的な手法でどんどん深く抽象度を高めることによって 適用範囲が拡がってゆく、というのは我々数学に携わる者には馴染みの経験です。

大学ではこれを課程という形で実現する必要がある。 「文」では横並びに多くの科目の選択肢を提供することで 広く知ることを助けて、それを深めることは個々に任される。 「理」では体系的に深くまで達せる課程を提供することで 深く知ることを助けて、それを拡げることは個々に任される。 自づと課程のあり方が変わってきます。

基本的に夫々の指向を持つ学生が入ってくる訳で、 基本的な方針は上の通りとして、 行き過ぎないように或る程度は人為的にバランスを取ることも大切であろう。 「文」では単に拡散した摘み喰いの寄せ集めにならないように 横方向の歯止めを掛ける必要があると考えられる。 一方「理」でバランスを取る為には、専門のみに偏った履修にならぬよう、 広い分野の科目の履修を推奨する必要があると考えられる。 「文」「理」夫々の特性を正しく把握して、 同じことを目指す為にも違う方策が必要なことを理解しないと、 適切な課程や制度を作ることが出来なかろう。

様々な議論に際して注意しなければならないことに、 同じ言葉が「文」「理」両側で違う意味を持ってくることがある、 ということがある。 例えば「基礎教育」という言葉。 「文」では幅広い教養を身に付けることを意味することも多かろう。 しかし「理」では各人の専門の基礎理論を意味することは勿論で、 しばしばそれを正しく理解する為に必要になる数学などを含む。 「理」で「幅広く基礎を学ぶ」というのはしばしば危険な考え方で、 どれくらい危険かと言うと、 「文」で基礎教育の段階から特定の狭い分野に限って深く入ってしまうのと 同じくらい危険。 多くの人はどちらか側の文化の中で育っていて、 自分の育った側の相手側に於けるこの危険さに鈍感になりがちではなかろうか。 「理」で深く入ること、「文」で幅を広く持つことは、夫々良いことだから。

一つ重要なこと。 課程編成において、広く横並びを主とする「文」の課程よりも、 互いに連携して深く掘り進めていく「理」の課程の方が 遥かに精密に注意深く構築されなければならないということには 充分注意すべきであろう。 中でも数学の課程編成は最も繊細なる注意を以て行なわれねばなるまい。