徒然物草付録


憲法・教育基本法改定への不穏な動きの根本には(憲法記念日に寄せて)(2006-05-05)

憲法・教育基本法改定の動きが不穏である。 その動きの根本には、 自分の都合の良いように我々を利用しようという発想が見える。 そもそも立憲主義というのは権力を制約する為の仕組みである。 「教育の憲法」と言われる教育基本法も、 権力が教育を支配し利用する為のものではなく、 教育の主体たる学ぶ側が権力に利用されない為のものである。 学び手が権力の道具にされない為と言っても良い。 その根本に反する動きには断固反対せねばならぬ。

人が大勢いて暮らす時に、基本的には協力すると良いことが多いのだが、 すると自分のやりたいように出来ないこともある。 誰しも自分のやりたいようにやりたい訳で、 力づくであったり何だりして支配的になった人々がやりたいようにやってきたのだが、 余りにもバランスを欠くとよろしくない。 これを折衷する仕組みの一つが法治であって、 法に定められてないことは罪に問われないという範囲を決めて、 支配的でない人々も法に順って協力しつつ暮らしましょうという訳である。 とは言え、法を決める力が支配的な側にある以上、法がバランスを欠くことがある。 そこで立憲主義というのは、更に権力が無制限に法律を作らないように、 憲法によって権力に縛りを掛けておく仕組みである。 その範囲内で法律を作る訳ですね。

今の憲法改定を主導している人々の方向性は、この点に反して、 自分達の都合の良いように人々を統制し、 自分達の為に人々を利用しよう、という発想が見える。 ここが危険である。

一方、「教育の憲法」教育基本法であるが、 教育法の授業を担当していることもあり、また昨今の動きもあって、 改めて読み直してみた。 文部科学省サイト内の 教育基本法資料室〜教育基本法ってどんな法律?〜 を見ると、制定時の議会答弁なども掲載されていて興味深い。 教育は人格の完成を目指す。 つまり学ぶ人がどうなるかが問題であり大切なのであって、 教育はその為に行なわれる。 他の何かに利用する為に行なうのではない。 (例えば戦前の日本では国家に資する人材の養成が目的とされた。) ここが重要。

ということでつまり、必ずしも改定の内容の問題ではなく、 寧ろそれ以前の問題なのだが、或る種の必然として内容に絡んでくる。 憲法・教育基本法の改定に限らず、 このようにして人々や教育を利用しようと画策している勢力は、 現在それを画策し政治問題に出来る力がありながら、 そのような不自然な形でしか権益を維持できない勢力になり勝ちである。 これは多分それに組しない方が宜しい。

「国を愛する」だの「国家に奉仕する」だの言っておるが、 そういう気持ちが大切だと言うのなら、 自然とそういう気持ちになるような国にしていけば宜しい。 暮らし易い世の中で自分達が受け入れられているという実感を持てば、 「人格の完成」を充分に成し遂げた人々は、 程度の差こそあれ自然にその環境を大切に思うであろう。 でも、画策勢力が求める「愛国心」はそういうものではないのであろう。

ちょっと補足。 この場合の自然に現れる「愛国心」は多分"patriotism"であって "nationalism"ではなかろう。 "nationalism"を訳すなら本来は 「国粋主義(自国が一番優れていると考えること)」であって、 本来「愛国心」と訳されるべき"patriotism"は 区別するなら寧ろ「郷土愛」とでも言う方が誤解されないかも知れない。 日本の現状の不幸な所は、 「愛国」の名の下で「国粋」が行なわれた過去をきちんと総括していないことで、 その為にこの両者共に「愛国」という言葉で呼ばれ、 その結果として議論の中でこの両者が区別されていないことである。 この混同状況を利用して「愛国」の名の下に「国粋」を再び行なおうとする勢力が 力を得てしまっている訳で、 それの良し悪し以前に、議論が錯綜している状態は少なくとも解消さるべきである。

真摯な愛国思想者とは案外きちんとした議論になるもので、 時折そういう思想の団体の大物と呼ばれる人と真逆とも思える思想の人との 対談記事が雑誌に掲載されたりして、 それで結構噛み合ってたりして面白いのだが、 「愛国」を利用しようという勢力は結局は権益維持が目的なので、 議論にならないんですな。 議論が出来ないというのは不幸を産むことだと思う訳です。