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プロセスと循環

―ハイデガーにおけるプロセス論―

関西外国語大学大学院博士課程後期 村田康常

 

ハイデガーの思索は、存在の時間的・動態的本質を論究しているにもかかわらず、プロセス論的視座から捉えられることがなかった。しかし、彼の存在論は、思索がその原初(Anfang)を目指して回帰するという解釈学的循環を打破し、そのつど螺旋的に前進するプロセスの思索と捉えることが可能であり、ここにホワイトヘッドのプロセス論との接近を見て取ることができる。

ホワイトヘッドとハイデガーは、思想的に互いに没交渉ながらも、ともに、存在そのものと知との相互連関という根源的な問題意識を持ち、知性的認識に先立って情的・全体的な把握があるという洞察から出発する。この前意識的な知は、在ることでもって自らの存在を全体において知るという仕方で、世界の内に置かれて在るという経験の「原初相」(PR.83)、現存在の「本来的在り方」(SZ.42)をそのつど開示し、世界を知り自己へと生成するプロセスの原点となるのである。本論文の目的は、両哲学者の捉えた知の在り方を追思索して、知の営みを存在との連関における世界開示と新しさの創造のプロセスとして定位することである。そこで主題となるのは、ハイデガーの存在論をプロセスの思想として解釈する試みである。 

1.存在そのものと情的知とのプロセス論的相互連関 

プロセス論の核心は、端的に、ホワイトヘッドの「現実世界はプロセスであり、プロセスとは現実的諸実質の生成であること」(PR.22)という言明に要約されよう。プロセス論において、従来の形而上学的存在論と認識論は統合されつつ乗り越えられている。事物の根拠を探求する存在論的な問いへの答えは、「究極的事実は一様にみな現実的実質である」(PR.18)という言明において見出され、現実的実質の「存在」は、それが現実的実質の「生成」によって構成されるとするプロセスの原理によって説明される。一方、主観-客観構図に基づいて人間と世界との関わりを捉えた従来の認識論は、生成のプロセスにおける現実的諸実質間の「関係性の具体的事実」を解明する抱握理論によって克服される。ホワイトヘッドは、抱握理論において、存在と知とを相互に連関する営みとして一連のプロセスにおいて捉えている。すなわち、世界を知ることは自己へと生成することであり、自己自身として存在するとは、自己を超越して他のものへと知られるべく与えられてあることである。知の営みは、単なる感覚-知覚でも、意識の働きでもなく、過去的に与えられた客体を抱握しつつ主体へと生成し、未来へと自らを超え出る現実的実質の生成のプロセスにおいてある。換言すれば、知は「新しさへの創造的前進」(PR.28)においてある。

ホワイトヘッドによれば、意識的な知に先立つ経験の原初相は情緒的なものである(PR.241-243. AI.175-176)。同様に、ハイデガーは存在そのものでもって把握された本来的な根本的気分としての知の在り方を「情態性」という語で示している(SZ.133-140)。これらの知は、従来の知性的認識としての知の在り方に対して「情的知」と呼ぶことができよう。注目すべき点は、両哲学者とも、情的知を考察する際に他者との関わりを示唆して「配慮」(concern, Sorge)という語を用いていることである。この関わりは、他者を空間的配置に基づいて対象的に認識するだけでなく、そのつど世界を開く時間的ダイナミズムにおいて、他者を自己と相互的かつ「存在論的」に関わるものとして世界の内に見出すことである。情的知のこの時間的即空間的な性格は、ホワイトヘッドによって空−時統一体としての現実的実質の生成のプロセスによって説明され、ハイデガーにおいては他の存在者への「配慮」を時間の時熟の議論に結びつけることで根拠づけられている。

ホワイトヘッドは、存在そのものと情的知の相互連関における他者との関わりを、超越するものの内在によって動機づけられ、内在するものの超越において終焉する生成のプロセスにおいて捉えている。現実的実質は、他なるものを自らに対して与えられた与件としてそのつど受容しつつ自己へと生成し、生成のプロセスを終えて満足に達すると、自己を超え出て他なるものへと自らを投げ出す。受容と伝達、内在と超越との交互的ダイナミズムにおいて、世界をそのつど把握しつつ自己へと生成し、自己を超え出て世界の創造に参与するという仕方で、現実的実質の知と生成の営みは存在する。

こうした存在と知とのプロセス論的な連関性を、ハイデガーは存在を問うこと、また存在が問いかけることとして、「存在の問い」(Seinsfrage)と呼び、そのプロセス論的性格を思索の「道」(Weg)という語で表した。ハイデガーは、かかる連関を、哲学が記述する対象としてではなく、自らの哲学する営みそのものを規定する根源的な事態と捉え、この連関に基づいて基礎的存在論を構築せんとする。しかし、そもそもハイデガーは、存在と知との相互連関を当初からプロセスとして思索していたのではなかった。ハイデガーが直面したのは、存在と知との相互連関における「循環」(Zirkel)の問題であった(SZ.152ff.)。すなわち、存在を解釈し意識的・言語的な理解にもたらすには、存在がすでに前もって理解されていなければならない、という解釈学的な循環である。そこでは理解のプロセスの原初がプロセスの終結点となる。理解は円環を描いて自らの原初相へと回帰する。このとき知の営みは、端的にいって、閉じられた営みとなる。かかる閉鎖的循環は、その閉鎖性のゆえに、新しさへの創造的前進を欠いたニヒリズムに陥りかねない。

 

2.存在そのものと情的知との循環的連関

 

解釈学的循環は、存在の問いをめぐる基礎的存在論の根本問題である。基礎的存在論とは、現存在は常に漠然と存在を理解しつつこの存在理解の内に生きているという「前提」を踏まえて、その現存在自身が自らの前理解的な存在理解を手がかりに存在をあらためて問うていく企てである。しかし、既に知っていることへと問いをかけ、既知のことへと自らを企投することこそ、循環を生じさせるのではないか。なぜハイデガーは、自らの思索の道を循環的な問いから開始したのか。

存在そのもの(das Sein selbst)は、現存在の意のままにならない何か異質なものとして、存在者(das Seiende)との「存在論的差異」(GA24.452ff.)においてある。しかし、存在そのものと存在者との差異にもかかわらず、現存在が自らの存在において存在を理解しつつその存在へと関わる存在者である限り(vgl.SZ.52-53)、存在そのものは現存在の存在の内に与えられてある。最も遠いものが現存在の根底に開ける(vgl.GA65.27)。存在そのものには現存在の知性によっては把握できない余剰がある。しかし、現存在はそのつど既に存在そのものを自らの存在において全体として漠然と情的に理解している。ハイデガーは、存在が情的に知られつつ知性においては知り尽くせないがゆえに、『存在と時間』において、循環の内に身を投じて問うのである。

現存在は、実存として在るという個の境域において、自らをその最も固有な存在可能性へと企投していく。この能動的在り方において、現存在は、原初的には、気分づけられて在るという受動的在り方において既に漠然と自己の存在が全体として把握されてしまっていることを見出す。全体を理解するとは、個の能動的在り方において、かかる個の能動的在り方が、原初的には既に全体に受動的に掴まれて在ることに基づくことを見出すことである。現存在は、自らが今、ここに既に投げ出されてあることに、すなわち自らの被投性に立ち返るのである。この能動即受動的な反復から、全体を個別の要素へと分節化しつつ把握する知性的・分別的な理解が由来する。能動即受動的な知の循環構造は、瞬間において成立する現存在の存在のダイナミズムが本来的に循環的であることに根差す。ハイデガーによれば、現存在は、実存として在るという立場から死へと先駆的に決断して自らの存在を投げ出していくこと(将来)によって、既に投げ出されて在るという事実に立ち返り(既在性)、ここから自らの存在が世界内存在として全体的に開示されて、いわゆる日常性へと退落しつつ他の存在者との交渉へと自らを差し向ける(現在)のである。

今のこの「瞬間」において、将来と既在性(過去)とのダイナミズムからなる開け(das Offene)として現在が発現し、ここに世界が開かれる。ハイデガーの存在論には、こうしたプロセス論的な時空統一の思想が見られる。しかし、この統一のダイナミズムが、ハイデガーとホワイトヘッドとでは、反対方向で成立するのである。時熟の議論では、まず未来的契機があって過去的契機が反復されるという仕方で時間が循環的に生起する。まず個の立場があって、そこから全体が開示され、退落をへて再び個が取り戻されて全体へと向かうのである。未来と過去、能動と受動、個と全体という各契機は、ホワイトヘッドにおいてはこれとは逆のプロセスで捉えられている。現実的実質は、抱握の原初相において与件として与えられた過去的世界を全体において受容しながら、多を一へと統合しつつ自己へと生成し、生成を終えると一つの存在となって、世界を構成する一要素として後続するものに与えられる。現実的実質の生成のプロセスは、受動的な相から始まって能動的な自己限定へ、過去を受けて未来へと向かうのであり、まず全体を受けて個へと生成し、最後に全体を構成する個として後続するものへと与えられる。両哲学者のこうした相違は、「決断」という、両者に共通する語の使用において顕著である。ホワイトヘッドにおいて、「決断」(decision)は、生成のプロセスの原初相において過去的世界が自らを超え出て後続するものへと自らを与える内在的決断として、またプロセスの終焉においてこの瞬間から未来へと自己超越的に自らを与える超越的決断としてなされる(PR.42-43,149-150)。過去からの決断を引き受け、未来へと決断するという2つの相が、存在と知の相互連関的営みを動機づけ、完遂する。すなわち、まず全体から個への決断があり、最後に個から全体への決断がある。ハイデガーにおいても、「決断性」(Entschlossenheit)は脱自的な自己超越という性格を持つが、それは現存在がこの瞬間に立って自らに固有の存在へと将来的に自己の存在を投げ出すことであり、その存在企投が立ち返って既在性を開示する。個が個へと決断することが、立ち返って全体を開示するのである。ホワイトヘッドのプロセス論は過去から現在を経て未来へというダイナミズムによって、世界の創造的な前進とそのつどの新しさの獲得とを整合的に捉えている。一方、ハイデガーは時熟の議論で、情的知の存在開示が、瞬間において成立する原初相への反復運動、すなわち将来から既在性へ、能動から受動へ、個から全体へと立ち返る循環においてなされることを提示している。この循環は新しさの創造の無化ではないか。

 

3.循環における「外」なるものの回帰

 

ハイデガーは現存在の存在理解にとって根源的な循環を、悪循環として否定するのではなく、「むしろ根源的に、また全体的にこの『円環』(Kreis)の中へと飛び込む」(SZ.315. Vgl.ibid.153)ことによって、存在忘却の直中から、存在と知の相互連関の原初へと思索を推し進める。この「飛び込み」は、ニーチェの永遠回帰の教説との「対決」においてさらに徹底して遂行される。ハイデガーはそこで、循環がもつ新しさの否定を正面から取り上げ、将来へと向けた知によって過去のことが知られるのは奇異なことではないか、確かに奇異なことだ、と反問する。この反問は、理解における解釈学的循環と時間性における時熟的循環を、永遠回帰の教説における時間の円環という洞察の内に読み込むことによって、解きほぐされていく。

ハイデガーによれば、永遠回帰の円環の結び目は、今のこの「瞬間」である。永遠回帰の教説でハイデガーが特に重視するのは、この瞬間において、将来と過去とが互いに「頭を突き合わせている」(vor den Kopf stosen)というニーチェの特異な表現である(GA44.59;N1.311. Vgl.KGW.Y1,193)。ハイデガーの解釈では、将来と過去は、順々に来っては流れ去るのではなく、「互いに向き合って流れる」(gegeneinander laufen)。無限の広がりを蔵するものが、将に来たらんとし、また既に自らを与えてしまったという仕方で、互いに向き合ってこの瞬間へと流れ込むのである。将来と過去とがこの瞬間において「衝突」(Zusammenstos)することによって、時間の輪は閉じられ、永遠回帰が成立する。永遠回帰とは、時間の流れが全体として無限大の円環をなすなどということではなく、この瞬間における時熟的循環の内に永遠が自ら流れ込んでくるということである。瞬間には「永遠がかかっている」のである(GA44.145;N1.398)

現存在が与えられた存在を自らの知において原初的に受容するということは、現存在自身が、存在がそこに与えられてくる「瞬間の場」(Augenblicksstatte)(GA65.323)として在ること、すなわち決断して自ら瞬間の中に立ち出て無限なるものの衝突を自らの存在に引き受けることである(GA44.59-60;N1.311-2)。衝突において流れ込むのは、瞬間を凌駕し、現存在を超えた永遠である。流れ込み衝突するという仕方で与えられた将来と過去を引き受けるということは、自ら瞬間として永遠なるものに場所を開き、永遠の重みを持つ将来へと決断して自らを投げ出しつつ、与えられた無限の過去を引き受けることである。このとき、現存在の決断とは、「次の瞬間」へと、それが永遠に回帰する瞬間であることを知りつつ、自らを投げ出すことであり、引き受けとは、この瞬間が永遠であると知ることによって、存在そのものを自らの内に全的に受容することである(GA44.145-6;N1.397-8)。これは、「外」なるものとして与えられたものを全体において自らの内に受け止めることによって、自らの根拠となす、という仕方での存在そのものと情的知の連関である。このようにして、自らの実存において開かれ、存在そのものを引き受け自らの内に蔵する知の立場は、端的に自覚の立場といってよいであろう。

ハイデッガーのニーチェ論は、『存在と時間』の時熟の議論を踏まえながら、そこでは暗示的にしか示されなかった現存在の「外」なるものの「現存在の存在」への関わりを論究している。さらに後期の思索では、現存在の存在の閉鎖性を打破する「外」なるものが主題的になる。ここにいわゆるハイデガーの思索の「転回」(Kehre)の焦点がある。思索の転回点は、存在と知の閉鎖的循環が破られ、内在と脱自的自己超越とのプロセス論的洞察が得られたことにある。瞬間のダイナミズムは、現存在だけではなく、現存在を超えたもの、つまり存在そのものによっても引き起こされるのである。永遠回帰における回帰とは、現存在の「外」なる永遠が、将来と過去との衝突において瞬間の内に回帰し、瞬間として立つ現存在の内へと開けてくることに他ならない。超越するものの回帰によって、循環の閉鎖性は打破される。瞬間における時間の時熟は、現存在の個の決断だけではなく、むしろ「外」から瞬間へと流れ込んでくるものによって同時に動機づけられ、個の脱自的企投と全体の内在的回帰があいまって閉鎖性を打破するのである。ニーチェとの対決において、ハイデガーの思索する瞬間のダイナミズムは、循環的な性格を維持しながらも、「次の瞬間」へと自己を超え出る前進的性格を帯びはじめる。

永遠なるものの瞬間への回帰というハイデガーの解釈を、直ちにホワイトヘッドにおける永遠的客体の合生のプロセスへの進入の思想と同一視することは、避けられねばならない。両者はともに、瞬間への「外」なるものの内在を洞察し、この内在からそのつどの瞬間におけるダイナミズムが始まるとしている。ハイデガーにおいても、時熟の閉鎖性を打破する超越の内在は、次の瞬間へと向けて「新しさ」が獲得されるための重要な要因である。しかし一方、内在の超越に関しては、ハイデガーは、この瞬間から次の瞬間への現存在の脱自的な自己企投としてしか捉えていないように見える。瞬間が循環的閉鎖性を打破したとき、その瞬間において達せられたものは、単に次の瞬間へと与えられるだけなのか。循環が打破されたところで、結果的に「現存在の存在」を受け取るのは何か。この問題は、ニーチェ論を経た後期の思索によって明らかにされていくことになる。

 

4.存在そのものと情的知との螺旋的な相互連関

 

存在そのものは、現存在へと与えられたもの、すなわち与件として、現存在の存在理解の内に在る。現存在へと内在する「外」なるものとは、存在そのものである。存在を理解するということは、現存在へと贈り与えられた存在を自らの知の内に引き受けることである。このとき、情的知は、存在がそこにおいて現成する場所、「存在の明るみ」(Lichtung des Seins)として開けていく。現存在は自らの情的知において存在を原初的に受容しつつ、受容された存在が安らう明るみとしてのかかる知のうちに立ち出ることによって、存在を自覚し「本来化」(GA44.23;N1.275)する。存在そのものを原初的に受容した知が明るみとして明け開けるプロセスには、自己自身の原初への回帰とともに、自己の「外」なる存在そのものの自己への回帰がある。かかる自覚的境域において、瞬間の内に永遠が観ぜられ、また、全体は個の内に見出され、個は自らを全体の内に見出す。覆蔵された原初を開示することは、原初への回帰において、自己を超えたものへと自らを開き、自己の「外」なるものを受容することである。ここには単なる反復ではなく、一種の根源的な変容、否、変容というよりは自己を超え出ることによって自己へと本来化するという点で、生成と呼び得る働きがある。こうした知と存在のプロセスを、ハイデガーは後期の著作で「言語への途上」(unterwegs zur Sprache)と呼んでいる。『ヒューマニズム書簡』では次のように述べられている。

 

思索は、人間本質への存在の連関を完遂する。思索は、この連関をただ存在から思索そのものへと委ね与えられた事柄として、存在に提供するだけである。この提供するということは、思索において存在が言語へと至るということに存する。(GA9.313)

 

『存在と時間』は、現存在が自らの原初的な存在理解を覆蔵することなく「言語へともたらす」(zur Sprache bringen)試みであったが、ニーチェ論を経た後期ハイデガーの思索では、存在そのものが「言語へと至る」(zur Sprache kommen)プロセスが前面に出てくる。すなわち「存在は、自らを明け開きつつ(sich lichtend)、言語へと至る。存在は絶えず言語への途上にある」(GA9.361)のである。存在は現存在の「外」なるものとして現存在に自らを与え、瞬間の内に内在してくる。存在を受け取った現存在はその存在を企投しつつ存在の現成のための場所を開く。この働きが思索であり現存在の自己への生成であって、それによって開かれる場所こそ存在の明るみとしての言語である。かかる意味で、言語は本来的に存在が住まう家であると言われるのである。「言語は、存在それ自身が、自らを明け開きつつ-覆蔵しつつ、到来するということである」(GA9.326)とハイデガーは述べている。言語が存在の明るみとして明け開けるということは、かかる明るみが、「次の瞬間」に立つ現存在の知と存在の原初として開けるだけでなく、そのつどの瞬間のプロセスが、言語と呼ばれる全体的な知において、消滅することのない永遠性を獲得することである。瞬間はそのつど過去的なものとなる。しかし、一度開けた言語は絶えず存在そのものを語り続けるのである。原初的な存在の把握から始まった世界開示の道程の終焉に、存在そのものを保持する全体的な知が開けるというハイデガーの真理観は、ホワイトヘッドのプロセス論における存在そのものと情的知との相互連関を彷彿させる。そこでは、与えられた存在を情的に受容するという原初的な抱握から始まった合生のプロセスが終了すると、生成する主体は消滅して世界を構成する一存在となり、そしてそのような世界は新たに増し加えられた存在とともに全的な知(the final absolute wisdom (PR.347))としての神の記憶の内に保持されるのである。存在と知との相互連関とは、自らに与えられた存在を全体的・情的に把握したところから出発して、その漠然とした知を意識的・言語的な知にもたらすことを経て、自己を超え出て存在そのものが安らう明るみとしての知の開けに至るプロセスであるといえる。

自らの内に存在を安らわせる言語という思想を、安易にホワイトヘッドの神の結果的本性や客体的不死性の概念と同一視することは避けられねばならないだろう。しかし、両者はともに、プロセスの終了において全的な知が開け、個の内に受容された存在が個の本来化・生成を経てそこへと開けていくというあり方を洞察していることは看過できない。知と存在の相互連関はこうしてそのつどの完成に達するのである。それは、到来するものに対してその全体へと企投しつつ、かつて在ったものを全体として引き受けてその場所を開くという仕方で、「新しさ」の創造をなす。この新しい原初こそ、ハイデガーの言う「別の原初」に他ならない。存在の問いにおける「別の原初」についてハイデガーは次のように言う。

 

存在はどうなっているのか、と問うこと−これは我々の歴史的-精神的現存在の原初を反-復し(wieder-horen)、それを別の原初へと変える(verwandeln)ことに他ならない。(GA40.42;EM.29)

 

「別の原初」という思想は、現存在の知と存在がなすダイナミズムの循環的性格を否定し、それを連続する直線的プロセスに置き直したところに成立するのではない。現存在は、将来へと企投しつつ自らの原初に立ち返る循環的運動によって、自己を超え出つつ、自己を超えたものの内在を引き受ける。ここに自己閉鎖性を打破して現存在の「外」なるものが回帰し、存在の明るみが明け開ける。存在はそこに非覆蔵的に到来し、現存在はその明るみに脱自的に立ち出る。それが新たな原初をなして、現存在は、存在そのものを原初的に理解しつつ、しかも存在そのものを覆蔵しつつ、その存在忘却の退落態から決断して新たに企投する。自らの原初を循環的・回帰的に「反-復」しつつ、それを前進的・創造的に「別の原初へと変える」ところに、現存在における存在と知との相互連関が完遂されるのである。言語への途上にある存在の問いは、こうした螺旋的なプロセスにおいてある。

瞬間に立った現存在が自らの原初を受け取り直すところに外なる存在そのものが自らを委ねてくる働き(性起)によって、存在の明るみが明け開ける。しかしハイデガーは、それを知の最後究極的な在り方とはせずに、この明るみを次の瞬間に向けて別の原初として開き与えることによって創造的に前進する情的知と存在そのものとの相互連関的プロセスを思索しているのである。

ホワイトヘッドもまた、知の最後究極性を否定し、哲学の目的は「進歩の各段階で明確に述べられた範疇の構図の漸次的な仕上げ」(PR.8)にあるとしている。知の「途上」的性格、「漸次的」性格を提唱し、新たな知のエポックへと向けて思索するという点では、両者の見解は一致する。しかし、ハイデガーの思索は、自らを投げ出すことにおいて自らが投げ出されてあることへと立ち返りつつ、かかる自己を超えていくという仕方で前進する。この能動即受動的な前進は、過去的世界を受動的に受容しつつ主体へと能動的に生成し、自己を超越して後続するものに与えられるというホワイトヘッドのプロセス論を、いわば転倒したかたちでなされるのである。