徒然物草特別編・総選挙に寄せて

奇しくも9月11日投票という総選挙に寄せて。 (2005-08-21開設・2005-09-10更新)

投票日に寄せて

期日前投票は順調に伸びているようだ。 とにかく投票しなくちゃ始まらない。 「俺の一票で決めてやる」くらいのつもりで投票に行こう。 (2005-09-10)

政権交代のススメ

今度の選挙の争点は何か、各党夫々に言い分はあろうが、 誰が何と言おうと「この選挙で勝った方が政権を担当する」ことは確かな訳で、 とにかくこのことを念頭に置くべきであろう。 「多数を取った党が政権に就く」という議員内閣制の下で、 所謂「55年体制」の前はともかくとして、 実質的に多数党を選ぶ選挙は初めてであり、非常に意義深い選挙だ。

で、政策的には支持不支持いろいろあるだろうが、 目先の個々の法案への賛否はともかく、 はっきり言って自民党も民主党も(特に「改革派」の人同士は)政策的には大差ない。 じゃあどっちでもいいや、と言う人には、政権交代への一票をお薦めしたい。

本来は別のものが区別付かない状態にあると物事が判り難くなる、 ってのは良くある話で、 これを判り易くしようとしたら、うまいこと分離してやるのが良策。 日本の政治では、「自民党であること」と「与党であること」という、 本来は別のものが区別付かない状況が長いこと続いてきた。 これは有権者側から言うと 「自民党支持」と「与党支持」というのがごっちゃになってる訳。 逆に「自民党不支持(或は自民党以外の政党支持)」と「野党支持」とが ごっちゃと言ってもいいけれど。 けど、「政策面から自民党支持」と言う人はどれくらいいるんだろうか。 自民党の大きな支持母体には特定郵便局会や医師会や数々の業界団体があるが、 この人達は「自民党支持」なのか「与党支持」なのか、どっちなんですかと。

暫く前までは政権交代と言ったら社会党とか共産党とかが中心の政権になることを 意味していた。これは政策的にも大枠としても色々なことが変わったろうし、 その大枠では困るから自民党という人もいただろう。 しかし今度の選挙で政権が民主党に移ったとしても、 政策も細かくは変わるだろうが、政治の大枠はそんなに変わらない。 大枠が変わらないが故に「政権交代が起こると何が起こるか」だけが 目に見えてくるであろう。 「対照実験は一つの条件だけを変えて行なう」という奴です。 こうなったときに業界団体はその後どう動くのか。 野に下った自民党支持なのか新たな与党を支持するのか。 「自民党」と「与党」とが分離された時に、 色々な物事が判り易く見えてくるのではないか。

「実行力があるから」という理由の自民党支持者も多いようだが、 この理由も議院内閣制の原理から見ると変な理由であって、 議院内閣制ってのはロールプレイなのである。 多数派が「与党」の役割を担当、 「与党」は内閣(行政府)を組織して政策を立案(叩き台の提出)し実行するのが役割。 少数派は「野党」の役割を担当、 「野党」は実行を担当せず、叩き台をちゃんと叩くのが役割。 「自民党だから実行力がある」のではなくて、 「与党だから実行を担当している」だけなんですね。 従って「実行力がある」という支持理由は「与党支持」な訳です。 しかしこれは、 野球でどのチームのファンかと聞かれて「打つ側」と答えてるようなもの。 与党になるか野党になるかは選挙結果で決まるもので、 各政党の属性ではないんである。 「自民党以外は反対ばっかり」というのは意味がなくて、 「野党は反対する(つうか叩き台を叩く)のが仕事」なだけ。 「あの投手は自分じゃ全然点を取らないじゃないか」っていうのと同じ。 自民党だって下野したら野党の役割をする訳です。(2005-08-21)

所謂「刺客」作戦について

いろいろ言う人もいますが、これは実に筋が通っている、と思う。 選挙(特に衆議院の、特に小選挙区制の)はそういうものです。 「政策で政党を選ぶ」という本来の選挙の形になって判り易い。 選挙戦ってのは議論であって、議論に情緒を持ち込むのは悪くないが、 議論を情緒で評価してはいけないんだ。(2005-08-21)

「改革」と言っても

日本の政治の現状には多分いろいろ問題があって、 このまま惰性で放置しておくとロクでもないことになりそう。 だから「改革」が必要なのは確かだろう。 既に話はその先の「どういう方向へどうやって変えるか」になっている。 その段階に於いて、 「改革は是か非か」という主張と「この改革は是か非か」という主張とでは、 どちらが一歩先んじているか。 「改革するんですか、しないんですか」一本槍というのは、 既に時代に遅れているように感じる。

で、「どういう方向へどうやって変えるか」を論ずる為には、 「何が問題点なのか」を明確にすることが必要で、 そしたら「それを直すにはどうするのがいいか」と考えることが出来る。 つうか、色々な案(政策)に対して我々は評価をしないと判断できない訳で、 評価の為にはtest functionが必要。 問題点を明確にすることで、 「この問題点がこの案ではどう改善されるか」という判断基準が得られる。 この辺りをちゃんと踏まえて議論しないと空疎になってしまう。(2005-09-03)

公職選挙法による選挙活動規制の問題点

選挙が公示されたら候補者や政党はインターネット上での広報活動が 出来なくなるんだとさ、あほくさ。

そもそも何の為に公職選挙法では選挙活動に規制を加えているのか。 資金力や動員力のある陣営が金や人をばんばん使って選挙活動をし過ぎると、 有権者の判断が歪む懸念があるからでしょ。 ネット上での広報活動は金も人手も少しだけあれば充分に出来て、 資金力や動員力の豊富な陣営と対等に渡り合える。 正に本来の公職選挙法の精神を体現するような活動方法だと思うんだが、 これが禁止されているのだ。 「規則が一人歩き」という面もあろうが、「規則が恣意的」という面も大きそうだ。 既得権益者が自分達に不利な手段を禁止してしまう。 インターネットは基本的に minority(必ずしも数の上で少数とは限らない、既得権益を持たない者)が majority(必ずしも数の上で多数とは限らない、既得権益を持つ者)と 対等に渡り合えるメディアだから、 既得権益者にとっては面白くないメディアではあろう。 そこでこれを禁止しておく。 一応は法治国家だから、法律による縛りは自分側にも相手側にも等しく掛かり、 その意味で公平ではあるが、果して公平は公正を導くか。(2005-09-03)

「公正」は目的になり得る。「公平」はその為の手段である。 第一次近似としては良く出来ているし、多くの人が納得をし易い。 しかし「公平」の為に「公正」が妨げられては本末転倒である。 又、「公平」な方法も一つではない。 「石油王とポーカーをする」という喩え話がある。 ルール自体は公平でも「油田一つraise」と言われたら勝てないって話。 そこで上限を設けるのも「公平」なルールの一つであり、 勝負を機能させる為の有力な方法であろう。 沢山あり得る「公平なルール」のうちのどれを選ぶか、ってことだね。 その時に「このルールは公平だから良いのだ」という主張は、 重要な前提条件の一つを満たしている(議論の土俵に上がる資格がある) って程度の主張でしかない。 「公正」の観点からどう判断するか、という次の実質的な議論に至っていないのだ。 (2005-09-10)

市場原理を有効に働かせる為に

放っといたら崩れる状態を規則で縛って維持し続けるというのは、 やはり不自然である。 規則を破ろうとする者が現れ、その為に更に規則で縛り、また抜け道を探り、 という不幸な循環に陥り易く、生産的でない。 安定なシステムとは、 放っといてもバランスの取れた理想的な状態が維持でき、 一時的に多少ぶれても自然にその状態に戻っていくようなシステムである。 「安定不動点」って奴ですな。

「市場原理」ってのはそれを実現する原理の一つで、 自分が多く儲けようとすると自然に需給の均衡点に落ち着いていく。 だから、誰もが「自分が如何に儲けるか」で動けばよいので、 特に規制で縛る必要はない。 この原理がうまく働けば、究極には 「自分が幸せになるには、みんなを幸せにするのが最適」 ということにもなる。 結局はこれを基本に据えることになるだろう。 これを有効に活かすには規制緩和・自由競争、それは正しい。 正しいのだが、しかし、一面に過ぎない。

市場原理が働かなくなる原因は、恣意的な規制以外にもある。 市場原理の前提には両者が対等に頑張れるという点があるのを見逃してはならない。 例えば労働市場で、 明らかに劣悪な条件だが「背に腹は変えられぬ」でその条件に甘んじる。 例えば食料品で、 明らかに不当な高値だが「背に腹は変えられぬ」でその条件に甘んじる。 これは市場原理が有効に働いてない。 劣悪な条件なら「そんなんじゃ働かないよ」ってんで人が集まらず、 条件が改善されて妥当な均衡点に落ち着く、 不当な高値なら「そんなんじゃ買わないよ」ってんで売れず、 値段を下げて妥当な均衡点に落ち着く、 これが市場原理だ。 市場原理が有効に働くには、 「そんなんじゃ働かないよ」「そんなんじゃ買わないよ」 が言える状況が必要で、 国が(政治が)すべきことは、その為の最低線を保証すること。 基本的には、ここを支えておいて後は御随意に、で良かろう。 それをせずに何でも自由競争・自助努力でというのは、 却って市場原理の働きを妨げる。(2005-09-03)