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万有在神論(panentheism)覚え書き
1 ニコラウス・クザーヌス アンセルムスの神の存在証明は、決して過去の議論ではない。たとえば、カール・バルトは「理解を求める信仰−−アンセルムスの神の存在証明」という一書を1931年にアンセルムスに捧げている。「ロマ書」によってプロテスタント神学の世界にデビューしたバルトが、アンセルムスの中に学問としての神学研究の先駆を発見し「教会教義学」を執筆したという事に、バルト研究者達の意見が一致している。 又、ホワイトヘッドの弟子で、米国のいわゆる「プロセス神学」の生みの親とも言うべきチャールズ・ハーツホーンも又、アンセルムス研究の書物を書いたが、これも、彼の言う「新古典主義の有神論」の議論の出発点であったといえよう。彼に依れば、プロセス神学は、万有在神論の一形態であると言うことになる。 そこで、何回かに分けて、万有在神論について考察したい。 アンセルムスは、「それよりも偉大なるものの考えることが出来ぬ何か」 (1)無神論者といえども認めねばならぬ神の存在証明を与えるという という二つの文脈の両方に登場する。(1)は哲学者の関心を惹いたものであるが、彼の本来の意図は(2)の神学的考察にあったというべきだろう。 アンセルムスの神概念を継承した重要な思想家の一人にニコラウス・クザーヌスがいる。 「(神に関しては)無知が最大な知であるということについて研究を始めるに先立ち、私は最大性 maximitas そのものの本性を追求しなければならない。さて、最大なものと私が言うのは、<それよりも大きなものは何も存在し得ないもの hoc, quo nihil maius esse potest> の事である。」 アンセルムスとの微妙な違いは、「考えることの出来ないもの」を「存在し得ないもの」で置き換えたこと。即ち、「我々の思惟の可能性」ではなく、「存在の可能性」そのものを論じていることを明示したところにある。 次ぎに注意すべきことは、 「最大なるもの」は、一切の対立の彼方にあるがゆえに(いわゆる対立者の一致 coincidentia oppositorum)そこに包括されるあらゆるものに内在するという、クザーヌスの思想。かれは、続ける、 「絶対的に最大なるもの maximum absolutum は一なるものであり、すべてのものである。即ち、一なるものが最大なものであるがゆえに、そのうちに全てのものが存する。又、最大なものには、なにも対立しないのであるから、最小なものもそれと一致する。それ故に、最大なものは、全てのものの内に存する。そして、最大なものは絶対的であるが故に、現実に一切の可能的な存在であり、事物からどんな縮減を受けることもなく、かえって、それから全てのものが由来する」 そして、彼は、この意味での「最大なるもの」を神と呼び、その探求が人間の理性を越えるものであるが故に、「知ある無知」という仕方で、すなわち「把握され得ないような仕方」で、神の導きのもとに探求することを自己の課題としている。 それでは、この「最大なるもの」は「宇宙」と同じなのか?
そして、この意味での宇宙、縮減無しには存在せず、縮減から解放されぬ「最大なもの」としての宇宙の探求が「知ある無知」の第2巻の主題である。 (ちなみに、「周辺を持たず至る所が中心である宇宙」という考えが、クザーヌスの宇宙論の特色。形而上学的な論拠からではあるが、それは、天動説を飛び越えて現代宇宙論にも通用するアイデアである) さて、このような神学的宇宙論において、キリストはいかなる位置を占めるのか。とくにそれがキリスト教的宇宙論と言われるべきものであるならば、彼は、キリストについてなんと言っているのか。知ある無知の第3巻はキリスト論であるが、それは次のような文によって始められている。 「宇宙について、どのようにして、それが縮減されて自存するかについて説明したので、次ぎに我々は、<絶対的であると同時に縮減されている最大なもの maximum absolutum pariter et contractum> すなわちキリストについて、「無知において知ある仕方で探求しよう。」 即ち、縮減された最大なものである宇宙の中にあって絶対的に最大なるもの、 |