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『観念の冒険』読書会の進め方

読書会の進め方ですが、基本テキストは、著作集の全訳としましょう。
英文のオリジナルは、OCRを使って、読書会と並行して少しづつ、公開します。
ただ、参加者の中には、ホワイトヘッドに限らず、どんなに著名な哲学者の著作
でも、他人様の著作をただ、有り難がって読むだけの読書会では面白くない
というかたも多いと思います。

そこで、専門を異にする多くの方に参加していただくために、まず、一般性のある問題を提示して、それについて、まず、各自が考えたことを投稿して貰いましょう。

そのあとで、その問題について、
もし、ホワイトヘッドが、この場に居合わせたなんと言うだろうかという観点から、
白頭翁が、『観念の冒険』のテキストを引用しながら、発言します。
それから、例の「もとぶつりや」さんにも再登場をお願いして、もし、カールポパーが
「あの世(第3世界?)」からここに投稿したら、なんと言うだろうか
という視点で、同じ問題について所見をのべてもらいます。
「もとぶつりや」と「白頭翁」は、対話編の登場人物として
別のキャラクターとして扱って下さい。

丁度今、井戸端では、デビッドソンの相対主義批判の論文の
読書会が始まってますね。一つ、その問題とリンクさせてみましょう。

そこで、最初の問題です。

問題A:「真理(truth)」は「概念枠(conceptual frame)」に依存するか

問題Aの意味を、もうすこし詳しく説明しましょう。
まず、ここで言う「真理」は、さしあたって「事実との対応」という意味での
「真理」とします。(「真理」の他の意味については、論じないというのではなく、
後回しにしましょう。)
 「概念枠」の意味は、ここでは出来る限り廣くとります。そこで
参加者は、どのレベルで、「概念枠」を理解しているかを明示したほうが
良いでしょう。

(1)自然科学に於ける概念枠の事例

(1-1)物理学で言う「基準座標系」

たとえば、「天動説と地動説のいずれが真理か」という問題では、
運動と静止、時間と空間、物質の概念に関連して、この意味での
概念枠が問題となります。
ここは、以前、「もとぶつりや」さんが、アインシュタインの相対性原理は、
「概念枠に依存しない法則の表現」をめざしているのであって、
「真理」の概念枠への依存性を述べているのではない、と主張されたことがあるので、
それについて発言して貰いましょう。

(1-2)科学理論の範型(パラダイム)一般

酸素を「空気の組成の一つ」として見る科学理論と、「脱燃素(フロギストン)空気」として見る科学理論との間で「事実の対応」によって優劣を付けることは困難であると述べた
クーンのパラダイム論に登場する概念枠組み。これは、科学史の専門家の発言を期待したいところです。

(2)社会科学に於ける概念枠

人間が登場する社会科学においては、ウエーバーの言う意味での「価値に関係する」事実の記述とその真理性が問題となります。社会科学者も人間である以上、特定の価値に必ずコミットします。しかし、「特定の価値に帰依する」ことと、「様々な価値に関係する人間的な事実を記述する」事は別のことにも見えます。ここでは、自然科学的な意味での事実に加えて社会科学的な事実の記述の「諸々の価値判断の拘束からの自由」とは何を意味するのかが問題になります。

(3)哲学的なカテゴリーとしての概念枠

たとえば、カントのカテゴリー(範疇)は、感性的な直観的所与に形と秩序を与えるという役割を持っています。カテゴリー抜きで思考することは、人間には不可能、とすれば、
そのような概念枠は、科学理論の様々に変化する概念枠組みよりももっと根源的な
レベルの、アプリオリな概念枠となります。

ある種の哲学者にとっては、我々に生得的な概念枠の記述そのものが、哲学の
課題となります。ストローソンが「個体」という書物で展開した「記述的」形而上学
とは、そういうものでしょう。(ストローソンはカント哲学の研究者でもあります)

別の哲学者は、「我々に生得的な不変の概念枠」の客観的記述に向かうのではなくて、
およそ概念枠というものが、時代と社会に徹底的に拘束されていることを認め
多元主義の立場をとった上で、彼の生きている時代において出来る限り包括的な
「新しい」哲学的概念枠の提示という形で、「投企的な哲学(speculative philosophy)」
を展開します。

実は、ホワイトヘッドは、そういうタイプの哲学者で、非常に一般的な形で、様々な問題を考察する場合に役立つ「思弁的な枠組み(speculative scheme)」を提示し、それを経験の様々な領域に適用することをもって、哲学と経験科学との相互的交流を考えました。

ホワイトヘッドの形而上学は、経験科学に適用される場合にはその有効性が
(全体として)テストされるべき、一般的な「範疇的構図(categorial scheme」
として解釈することが出来ます。

それ故、ホワイトヘッドの後継者というは、大学のいわゆる「純哲」の人よりも、
むしろ、デビッド・ボームのような物理学者、イリヤ・プリゴジンのような化学者、
チャールズ・バーチのような生物学者、ベルタランフィのような社会システム論者、
チャールズ・ハーツホーンやジョン・カブとその弟子達のようなプロセス神学者達、
なのです。

こういうホワイトヘッド的な立場に於ける価値論や真理論は
『観念の冒険』の第3部「哲学的考察」に見られます。