プロセス哲学と量子論理
田中裕
量子論理に関する私の基本的な考えを言いましょう。
私は、古典論理の基本法則の一つは、経験世界に当てはめたときに無条件で真とは言えないと言うことを、以下で主張したいと思います。
「経験に当てはめたときに」という但し書きは重要であって、古典論理学は、アプリオリであるとか必然的真理であるとか、言語の「規約によって真」となる、等々の非経験的立場は成立しない、と私が考えていることを示します。
規約が言いうることは、せいぜい、「この定理は、あの一群の公理から証明された」などのことであって、公理や定理が「真」ということではありません。
論理法則もふくめて、あらゆる普遍的な法則命題が「真」であるかどうかは、
経験的な検証によってチェックされうるものと考えます。
ただし論理法則は、通常は数学や物理学の法則と比べて、より基底的なレベルの物であり、それが経験によって反証される可能性に言及することが稀であるというに過ぎません。クワインが言う「最小限毀損の法則」によって、理論の上部構造を手直しすることによって経験的反証に対処するのが、理論家の通常とる方策であります。
一般相対性理論に於ける非ユークリッド幾何学の採用という事態とのアナロジーが
問題を照明してくれるでしょう。アインシュタイン以前においては、(経験的に適用された)
ユークリッド幾何学が物理的な実験によって反証されると言う可能性は、殆どの物理学者の想像の外にありました。非ユークリッド幾何学については熟知していたポアンカレですら、「ユークリッド幾何学の方が単純であり人間の思考に適っている」がゆえに、物理学者は、経験によってユークリッド幾何学を放棄しなければならないとは決して考えないだろうとの予測をしていました。
古典論理学は、ユークリッド幾何学と同じく、シンプルな構造を持っています。
(否定、選言、連言の間の見事な対称性を想起して下さい)それは、我々の日常言語の
推論を形式化する上で、もっとも自然な感じを与えます。しかしながら、我々にとって、
いかに自然であるからと言って、それがあらゆる可能的な経験に対して、普遍的に
妥当するという保証はありません。実際、その基本法則のあるものは、我々が
暗黙の内に前提している条件を無視しては、普遍的な妥当性を主張できない
物なのです。
私は、以下で、「事象の分割可能性」及び、「通約不可能な事象」という概念をもとにして、古典論理学の適用の限界についてお話ししたいと思います。
あらかじめ起きうる誤解を防止する意味で、私が量子論理と古典論理との関係についてどのように考えているかを説明しましょう。
(1)まず、量子論理は古典論理と全く異なる「別種の論理」というように
考えるべきではありません。量子論理に、適当な条件(通約可能性という条件)
を追加すれば、古典論理が得られます。その意味で、量子論理とは、
古典論理よりも一般的な論理であると考えて下さい。
(2)次ぎに、量子論理や古典論理についてかたる(メタ言語の)論理は
どちらなのか、」と問われるならば、それは非形式的な日常言語の論理だと
答えましょう。そして、そのメタ言語の推論が、古典論理で定式化されるようなもので
あっても一向に差し支えないと、考えます。なぜなら、メタ言語で行われるような推論は
全て、私が「共約可能性」と呼ぶ条件を満たしていると考えるからであります。
(3)更に、量子論理は、量子力学のパラドックスの形式的な表現であって、
そのパラドックスの解決を与えるものではないという事を強調したい。
一般相対性理論とのアナロジーで言えば、非ユークリッド幾何学が「なぜ必要とされる
か」という議論は、幾何学そのものからは出てこないのであって、等価原理のような
物理学的原理が必要となります。それと同じように、観測問題や、遠距離相関
のようなパラドックスは、物理学的な原理に基づいて解決されるべきであって、
形式的な論理だけでは解決されません。
従って、私の議論は、物理学者を相手とするものと言うよりは、より一般的に
論理と経験との関係を考える人のためになされています。
私は、古典論理学の適用に際して、暗黙の内に前提されていた事柄のひとつ
「事象の分割可能性」という前提を
明るみに出すと共に、その前提から、一般化された「ベルの不等式」を
(物理学の議論を前提せずに)導出し、それが、量子論的世界で
破綻したということをもって、量子論的世界が古典論理的な世界ではないことの
証明としたいと思っています。
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