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場所と生成
−西田哲学とプロセス・コスモロジー− 田中 裕
一 純粋経験論の射程
一九九〇年の米国宗教学会《プロセス神学と京都学派の哲学》研究部会)で、ジョン.カブは上田閑照の発表に対する応答の中で、西田幾多郎の《善の研究》における純粋経験論と、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの形而上学とを比較検討した。(1)カブによれば、西田哲学とプロセス・コスモロジーの成立する地平はウィリアム・ジェームズの根源的経験論を媒介項として交差し融合する。この地平の交差する場所に自ら身を置くことによって、単に両者の哲学の比較検討を行うにとどまらず、その場所において開示されるものが具体的に何であるかを経験そのものに照らして反省することが我々の課題である。 上田が指摘し、カブが同意した所によれば、ホワイトヘッドにおいても西田においても、『経験』という語は、根源的ならざる通常の経験論とは違って、すくなくも次の三点を含意するものとして使用されている。 (一)経験とは、統一された具体的全体である。(二)経験は個人に先立つ。個人が生まれ主客の分離が生じるのは、経験からである。(三)経験は能動的である。 しかし、カブは、同時に『純粋経験』という語そのものはホワイトヘッドが決して使用しなかった語であることに注意を促し、この語の用法に潜む両義性、ないしは緊張関係を指摘して次のように言う。
ここで我々は二つの問題を検討しなければならない。一つは、カブが指摘した『純粋経験』の両義性なるものを初期の西田の思索のなかに認める事ができるだろうかという問題である。もう一つは、『現成(concrescence)』というホワイトヘッドの形而上学の根源語のひとつが、さしあたっては西田の純粋経験論の内容とどのように交差するか、さらに議論を進めて、純粋経験の哲学的展開として捕らえられた西田の後期哲学における場所の論理が、ホワイトヘッドの有機体の哲学における『相対性(relativity)』ないし『相依性(solidarity)』の原理とどのように照応するかを論じることである。 第一の問題のほうは比較的簡単である。純粋経験の定義が矛盾をはらむということは、カブだけではなく、日本でも《善の研究》の出版直後に書評を書いた高橋里美にまで溯る外在的批判の論点の一つであった(2)。純粋経験の外部に立って、それを語る主体とは独立のものとして論じるのではなく、論じる主体そのものが純粋経験によって成立するという西田自身の立場からは、純粋経験は本来いかなる意味でも曖昧なものではなく、またその規定が反省的分析によって解消されるような矛盾軋轢をはらむものではなかった。 確かに、《善の研究》の冒頭のテキストはジェームズの第一の意味での純粋経験の規定に近いように見える。そこでは、合理論的な要素を一切排除した経験、すなわち概念的範疇によって思考され反省される以前の直接経験が純粋経験として指示されているからである。 この『純粋』という形容詞は、カント哲学において感覚的な経験を一切含まない概念的な認識が純粋な認識とされたのとは異なり、『毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態』を意味している。 それは、一切の概念的な反省に先立って生起するものであるがゆえに、反省され再構成された経験よりも根源的なものである。 しかしながら、西田が純粋な『経験』について言及するときには、彼は、英国の伝統的な経験論の文脈で抽象的に想定された感覚与件の受容などを意味しているのでは決してないし、またカテゴリーによって整序される生の素材としての経験の質料的な要因を指しているわけでもない。 概念的な反省以前ということは『概念なき盲目の』経験であるということを決して意味しない。寧ろ、概念による『思慮分別』は、純粋な経験を歪曲ないし不純なものとすることによって、却って『事実其儘』から我々を遠ざけるものと見なされたからである。 それでは、究極のところ純粋経験は、直観によって把握された純粋な持続以外の何物でもないのであろうか。しかし、西田は、ジェームズやベルクソンの『生命の哲学』の影響を受けたとは言え、決して経験から理性的な要素を排除することをもって足れりとしたわけではない。 言語を絶する実在の真景をあらわにすることは、決して概念的範疇によって整序される前の『生命の直接的な流れ』に没入し、そうすることによって反省なき直観に訴えることをもって終結するわけではない。我々の経験を一定の枠組みにはめてしまう概念的範疇の枠組みを解体し言語の拘束を脱して事実其儘を捕らえることは、決して単なる『否定道(via negativa)』ではない。もしそうであるならば、『純粋経験を唯一の実在として全てを説明する』という哲学的立場そのものが成立しなかったであろう。 《善の研究》を特徴づけているものは、西田の後期の著作において顕著になる否定の弁証法であるよりはむしろ、純粋経験の光に照らされつつ、『そこから説明する』肯定的な主旋律である。この主旋律を、読者は純粋経験の自覚の場所において聞き、そこにおいて直観と反省の統合を実現しなければならない。 上田の言葉を借りるならば、『言語から出て、言語に出る』ことを可能ならしめるものが、純粋経験論の根底にある。従って、反省以前の原初の現前を強調する文脈と並行して、西田は『純粋経験』を、単に感覚的な経験のみならず、概念的な思考や反省そして更には知的直観までをも含む我々の経験のすべてが、そこにおいて生じ、その自発自展と見なければならないような、絶対的な根源を指示する語として使用している。 この文脈では純粋経験は、直接に経験していない不純な要素を我々の経験から除去ないし括弧にいれて得られた残余の記述のごとき、貧弱な内容をもつものではない。 類比的に言えば、それ自身は色彩を全くもたぬ純粋な光がそのなかに自然界の全ての色を潜在的に含む様に、『純粋経験』は一切の経験の豊饒さを内蔵する『経験の最淳なるもの』を指すのである。反省的分析によって我々に知られる経験はつねに抽象によって顕在化した純粋経験の展開の一つの相貌にすぎない。 西田自身が後に高橋里美の批評に対して答えたときの言葉を借りるならば、彼が《善の研究》の第一篇『純粋経験』で論じた所は、『純粋経験を間接な非純粋なる経験から区別することを目的としたのではなく、むしろ知覚、思惟、意志、および知的直観の同一型なることを論証する』のが目的であった。 (3)その立場は、上田によれば、『感覚に与えられたものを基礎とするような経験論、そのような経験の場を越えて何らかの意味でより高いところに真実在を求めようとする形而上学、自己自身のうちにかえって自己存在の根源を確証しようとする実存哲学、という三つの立場を、それぞれの求める方向をおおもとに引き戻しながら、立場としては否定しつつ分裂以前に溯って統合し得る可能性』を内にはらむ哲学なのである。 したがって、西田においては『純粋経験』はカブがジェームズについて懸念したような種類の両義性をもつとは言えないだろう。『まず純粋経験が生起し、その後で反省的経験が生起する』というように時間的な継起によって外的に結ばれた二つの経験を区別し、この区別に基づいて純粋経験を同定するという発想は初めから西田にはない。むしろカブが後で正しく指摘したように、『全ての経験が純粋経験(の自発自展)である』というのが《善の研究》における西田の企ての核心部分なのである。 次に、我々はカブの提唱するプロセス神学の源流に位置するホワイトヘッドの哲学を理解する鍵とも言うべき『現成(concrescence)』という根源語によって指示された事態を西田哲学ならびにその背景を成す仏教思想との対比のもとに考察することにしよう。 カブは、近著『対話を越えて』のなかで、仏教と基督教が対話によって相互に自己変革をとげる必要を説かれたが、そのなかでホワイトヘッドが『現成』と呼んだものは、仏教徒が『縁起(pratitya samutpada)』という語によって表現しようとした、徹底的な関係性(radical relationality)のダイナミズムに対応していることを力説している。(4) カブが上田への応答の中で表明された龍樹への深い共感は、縁起−無自性−空性のトリレンマにおいて示される彼の実体否定論の徹底した性格に向けられているが、これこそ、ホワイトヘッドが現実的生起(actual occasion)の関係的性格を表す『現成』という語によって表現した当の事態なのである。まず、『現成』には、具体的(concrete)なものが、今ここで成立するという意味合いがある。それは『一となる多(the many becoming one)』であって、世界のあらゆる客体的な有(being)がこの現成に何らかの形で寄与するという意味で、現実の世界をその都度、統一し具体化する働きなのである。 ホワイトヘッドと類似した意味でこの『現成(concrescence)』に対応するラテン語の“concrescere, concretum”を使用した哲学者としては、ニコラウス・クザーヌスをあげることができる。クザーヌスの場合は、それは『縮減(contractio)』と同義であって、絶対的に無限なるものが、(縮減されて)今ここに有限なるものとして具体化されることを指している。(5) 《過程と実在》に直接にはクザーヌスが引用されていないが、基督教的プラトン主義の伝統を背景として考えるならば、ホワイトヘッドとクザーヌスには、神の超越性をあくまでも自然神学の内在的な立場において表現するという共通の課題があったといってよかろう。両者ともに新プラトン主義の発出論の陥りやすい汎神論的一元論とともに、この世界の具体性(concreteness)を欠いた抽象的な超越神論を同時に克服しなければならなかった。クザーヌスにおいては、世界は個体のうちに縮減という『具体化』の様相で内在する。( Universum vero est in universis contracte)。神もまた個体のうちに内在するが、世界が万物のうちに内在するというのとは根源的に異なる様態で内在する。『世界は太陽でも月でもないが、それは太陽においては太陽であり、月においては月である。しかしながら、神は太陽において太陽でなく、月において月でない(5)。』 換言すれば、神の内在は、世界をそれ自身のパースペクティブにおいて映す個体の自己超越の原理である。ホワイトヘッドにおいても神は具体化の原理(the principle of concretion)であるとともに、世界に還元されぬ本質的な新しさの原理(the principle of novelty)でもある。現成する個体(現実的生起)は、世界の所与性を越える自己の主体性の根拠として神を抱握するがゆえに、神は決して世界と無差別に同定されえぬ現実存在である。(“concrescence"を『現成』と邦訳する理由について)
しかしながら、大乗仏教のなかで言われる生死(samsara)即涅槃(nirvana)の教説の源流に位置する龍樹の『中論』とホワイトヘッドのテキストとを比較するばあい、徹底した相対性ないし関係性の立場が共通していることに注目すると同時に、そこにある重要な相違を無視すべきではないだろう。その相違はホワイトヘッドは『不滅性』を説いても『不生』は決して説かないということに要約されよう。そもそも、現実的存在は、すべて現実に『生起』したものであって、不生なる現実などはあり得ないということがプロセス哲学の根本である。また『一即多、多即一』『主体即客体』というごとき『矛盾的相即の論理』は、プロセス哲学においては還元不可能な究極の立場ではない。『即』の一語によって表明された事態を我々がさらに厳密に追尋する場合に、矛盾(contradiction)を対照(contrast)として語るホワイトヘッドの創造的過程の論理は傾聴に値しよう。『一は多となり、一によって増し加えられる (the many become one, and are increased by one)』という本質的に律動的な過程が、一と多のおりなす創造的過程の論理である。この見地からすれば、『一即多、多即一』の『即』に表現されるような対立規定の一致は、具体的現実からその歴史的生成の次元を捨象することによって生じた見かけ上の矛盾であり、決して根源的な事態を表す最終的な定式ではあり得ない。ホワイトヘッドの体系では、矛盾命題は具体的な生成(現成の過程には本来存在せず、それがあるように見えるのは、生成の過程を抽象的な客体的存在の空間に射影する言説のレベルにおいてのみであるから、もし弁証法という語を『矛盾の現実性』を含意するものと理解するならば、彼の言う『過程の論理』は弁証法ではない。 龍樹は《中論》の冒頭で、『不滅にして不生の縁起(anirodham anutpadam pratityaーsamutpadam )』を説く仏陀に礼拝している。すなわち、龍樹にとってもまた、生滅の世界を離れた別の場所に『不生不滅』の永遠の理想的世界があるわけではなく、縁起とは、単に生死を特徴づけるだけではなく、生死即涅槃の全体を特徴づけるものである。この徹底した相対性こそ『空の哲学』の特徴である。しかしながら、積極的な体系をすべて脱構築するという否定的活動に終始することが、『縁起即空』の立場に忠実な唯一の方法と言えるであろうか。『生死即涅槃』というごとき逆説的な同一性の堤題だけでは不十分であって、さらにその逆説を我々に言わしめた当の事態の背後に今一歩立ち入ることが必要なのではないか。 空虚な哲学的見解を排除する基盤を『縁起』という『中道』に求めることは、そもそもの初めから言語を絶する、ある絶対的に肯定的な経験の−西田ならば『純粋経験』と呼ぶもののー光に照らされることを前提としており、それなくして空虚な弁証法的否定を観念的に弄ぶことは誤りなのではないか。 このような哲学的課題を我々もまた引き受けなければならない。そのためには、上田の言い方を借りれば、『純粋経験が語る』言語のレベルをあくまでも離れることなしに、さらに一歩進んで『純粋経験を語る』言語のレベル、すなわち単なる純粋経験論を越えた哲学的反省のレベルに移行しなければならないだろう。これこそホワイトヘッドの形而上学と西田哲学に通底する課題であったと言ってよい。 しかし、主語と述語の分節を固定化し、その指示体を実体化することによって成り立つような哲学体系を脱構築することなくして、『純粋経験を語り』、『縁起を説く』ことはできないであろう。西田の『場所の論理』やホワイトヘッドの『過程の哲学』が、彼ら以前の哲学とは非常に異なる独自の用語法を案出し、新しい『範疇の構図』を提示したのは、そのような哲学的な概念では、現実の世界の根底−あまりにも我々の近くにあるがゆえに意識されない『平常底』ーを照射するのに不十分であるからである。 最近、D.カルパハナは《中論》の新しい英訳を注釈付で公刊したが(9)、そこでチャンドラキルティーの注釈に示されるような破邪即顕正の絶対否定的な立場 (prasangika)による中論解釈に疑義を呈し、むしろ徹底して肯定的(positivistic)な経験論者として龍樹を捕らえ直すべきことを提唱している。同氏は、青目釈鳩摩羅什訳の中国語訳のテキストのほうを、チャンドラキルテイーのサンスクリット語の注釈よりも重視し、『鳩摩羅什のなかに龍樹のより忠実な弟子を見いだすときにはいつでも、チャンドラキルテイーの釈義を通して龍樹を見ることにいかなる正当性も見いださなかった』と述べている。この解釈が妥当であるかどうかの判断は仏教学者にまかせるとしても、徹底した経験主義者として龍樹を見直す場合に、そこで言われるような経験は、西田の言う意味で純粋なものでなければならないだろう。 対立する見解の間での論争を超越する中道は、そもそもの初めに純粋経験という積極的な光によって照らされていなければ不可能である。中国と日本においては、龍樹は主として鳩摩羅什訳を媒介として『実相論』として継承され、やがて華厳仏教の絶対的に肯定的な世界観へと発展したことは、周知のことがらである。《善の研究》が西田の著作の中でもっともよく読まれたことは、このような大乗仏教の伝統と決して無縁ではあるまい。 カブは、西田の言う『場所』の概念の難解さを指摘し、その解明が相互理解のために必須であることを強調している。『場所の論理』を西田哲学の展開のなかで正しく位置付けることは、この哲学の解釈上の大きな問題であるから、ここで詳細に語る事はできない。そのかわりに、米国のプロセス神学と西田哲学の対話と相互理解のために私は、まずホワイトヘッドの形而上学のなかで、『場所の論理』に照応するものを提示することによって、ホワイトヘッドと西田哲学との交差する地平を照射することを試みよう。
二 プロセス神学と場所の論理
ホワイトヘッド自身は、『プロセス哲学(神学)』という名称を使用せず、むしろ自分の哲学を『有機体の哲学(the philosophy of organism)』と呼んだことはあまり知られていない。なるほど、《過程と実在》においては、静的な存在ではなくて、生成の過程そのものを現実態とするダイナミックな視点が貫かれており、その限りで『プロセス哲学』という名称は決して的外れなものではないし、神と世界の関係を論じることがこの哲学の最終的な目標であったから、米国における彼の後継者の多くが『プロセス神学者』と呼ばれるようになったのも理由のないことではない。しかし、この哲学において、『世界の創造的過程』の可能根拠として、そのような生成の起こる場所が更に根源的なものとして前提されているこということが、彼の後継者たちの間では見失われていたように思われる。《過程と実在》は常に『過程としての実在』と読み換えられた。そのために、世界の『相依性(solidarity)』を解明することが、この哲学の主要課題であり、かれの言う『範疇の構図』がこの問題の解明のために案出されたことが忘れられた。有機体の哲学においては、『存在論的原理(あらゆる説明は、現実的存在に立脚しなければならない)』や『過程の原理(現実的存在の本質はその生成によって形作られる)』の意義は強調されたが、ある意味ではこれらの説明原理を内に包括する最も普遍的な原理としての、『相対性の原理』の重要性が十分に認識されなかったように見える。しかしながら、これこそ、アリストテレスにまで溯る哲学的な実体概念にたいするホワイトヘッドの批判の要諦であり、有機体の哲学の基本的な構図を要約するものにほかならないのである。 ホワイトヘッドのテキストを引用しよう。 (一)経験の内なる世界は経験の彼方の世界と同一であり、経験の生起(occasion)は世界のなかにあり、世界は経験の中にある。(有機体の哲学の)諸範疇は諸事物が結合されているという,この逆説を解明しなければならない:−−多くの事物と、内部にありかつ外部にある唯一つの世界ーー。(AI293) (二)(有機体の哲学の)体系が保持しようと努めている整合性(coherence)は、一つの現実的存在(actual entity)の過程、即ち現成が、その構成要素に他の現実的諸存在を含むことの発見なのである。このようにして、世界のもつ歴然たる相依性(solidarity)が説明されることになる。(PR7) (三)諸存在が一つの現実性へと実在的に現成する時に、その現成の一要素となる可能性をもつことが、現実的であれ非現実的であれ、あらゆる存在にあてはまる唯一無比の一般的形而上学的性格(the one general metaphysical character) である。それぞれの現成には、その宇宙のなかのあらゆるものが含まれている。換言すれば、『有(being)』の本性には、それがあらゆる『生成(becoming)』のための可能性であることが属している。これが『相対性の原理』である。(PR22) (四)普遍的な相対性の原理は『実体は主体(subject=基体)のうちにはない』というアリストテレスの言明のあからさまな否認である。この原理によれば、これとは反対に、現実的存在は他の現実的存在のうちにある。事実、我々が関連の度合いを、また無視し得る関連を斟酌するならば、あらゆる現実的存在は、あらゆる他の現実的存在の内にある、と言わなければならない。有機体の哲学は、主として『他の存在の内にある』という概念を明晰にするという課題に専念している。(PR50) 普通にアリストテレスの第一実体の概念については、『主語(主体)となって述語(客体)とならぬもの』と要約されることが多いが、これは『--の内にある(en hypokeimenoi einai)』という側面と、『--について語られる(kath'hypokeimenou legesthai)』という側面が分節していないために、適切ではない。より正確には、第一実体(例えばソクラテス)とは『いかなる主体のうちにもなく、如何なる主体についても語られないもの』である。これに対して、第二実体(例えば動物)は『如何なる主体の内にもないが、ある主体(たとえば犬)について語られるもの』である。いずれにしても、『いかなる主体の内にも存在しない』ことが、アリストテレスの実体概念の意味に含まれている。ここで主体の内に存在する客体とは、実体に内属する性質である。 ホワイトヘッドの用語法において特徴的なことは、『客体(object)』という用語が常に『主体に内属する普遍(universal)』をあらわすことである。従って客体的(objective)という語はつねに第一義的には『ある主体に内属する普遍』を意味し、近世以降の西洋哲学で一般化したような『客観的』という意味ではない。同様に『主体的(subjective)』という語も、 決して『主観的』という意味ではなく、主体性を欠く現実性を彼は『空虚な現実性(vacuous actuality)』と呼び有機体の哲学とは相容れないものと考えている。ここでは、主体とは常に多くの客体を、その独自のパースペクティブにおいて統一する働きにほかならず、その働きによって一つのものとなる過程をも表示するからである。この統一する働きが現実的存在の主体であり、その働きによって新たに生じた客体が『自己超越体(superject)』である。 自己超越性は、現実的存在の主体的直接性(subjective immediacy)から客体的不滅性(objective immortality)への運動を表示し、この運動(ホワイトヘッドの言う転位(transition))によって主体は自らを一つの客体として世界に譲渡する。従って、現実的存在は、常に自己超越的主体(subject-superject)として捕らえねばならない。 相対性の原理とは、あらゆる客体的有が、新たなる現実の生成のための可能性を形作るという原理である。客体的な有は、現実的生起の過程(現成)の中で反復可能であるという意味で、普遍性をもっており、どの一つの現成のうちにも含まれている意味で、『あらゆる主体の内に存在している』。したがって、現実的生起とは、掛け替えのない個であるという性格と、他の現実的生起のうちで無限に反復可能な普遍であるという性格を兼ね備えているが、それは『主体的直接性』において個体であり、『客体的不滅性』において普遍であるという意味に理解されるべきものであって、同じものが同じ関係において同時に個であり普遍であるという意味ではない。 現実的生起が、個であって普遍であるという性格をもつことを、わたしはホワイトヘッドの哲学における『場所の論理』と呼ぶことにしたい。それは、二つの異なる現実が、まさにその異なることによって、互いに他の現実を内に含むからである。この相異なるものの『相互内在』という逆説的事態を、矛盾をおかさずに主張することが如何にして可能となるか。ここで説明さるべき事態は、二つのものが、掛け替えのない個でありながら、それぞれが他のうちに内在することがいかにして可能かという問題である。 上田が提示した連句のモデルが、ホワイトヘッドの理解していた『相互主体性』の観念に極めて近いことは、カブの指摘のとおりである。 ここで問題となっているのは、共同して『連句』の製作にあったっているのが複数の詩人の主体性であり、それぞれの句の製作という出来事が『現実的生起』に対応する。この共通の場で製作する詩人の主体性は、連句の製作に先立ってすでに存在している訳ではない。もちろん、それぞれの詩人は異なる経歴と生活体験をもつがゆえに、誰もが他人によっては置き換えられぬ独自の観点とパースペクティブから世界を客体化しており、この客体化された世界が、かれらのそれぞれの主体性の成り立つ前提である。さて連句の製作という共同作業にとって本質的なことは、その場にいる誰もが、自己の未来(自分がどのような句をこれからつくることになるか)を自分の主体性だけでは決定も予見もできないということである。言い換えれば、彼は自己とは独立に決定を下す他者との関係を無視して自己決定を下すことができない。彼は、未来と他者にたいして開かれた主体性として自己を見いだすのである。その都度に連句が製作されて行く過程は、製作された客体(これはその場において共有される)から製作する主体の直接性(これは各詩人の個性)へのダイナミックな運動であり、作品が完成される(現実的生起が充足satisfactionされる)たびごとに、新たな客体が誕生して、それがその後の連句の製作を条件付けるという形で、創造活動が続けられて行く。ホワイトヘッド哲学の用語では、共時的に存在するもの(contemporaries)は独立でありながら、互いに内在するのである。 もっとも右の例では、相互に内在する二つの個体は、ホワイトヘッド的に言えば、それ自身が履歴をもつ人格的秩序(personal order)をもつ現実的生起の結合体(nexus)であって、単一の現実的生起それ自身ではない。われわれが上で論じたのは,あくまでも人格(person)を非実体化して、その形成過程へと脱構築するホワイトヘッドの文脈に従う『人格の相互内在』にかんしてである。さらに一般的に、人格的、非人格的たるを問わず、個々の現実的生起が相互に内在するかどうかは、ホワイトヘッド哲学の解釈上の重要な問題であるから、それぞれの文脈において『内在』という語がいかなる意味で使用されているかを区別しつつ、個別に論ずべきことがらである。 『内在』のある限定された意味においては、時間的に先行する現実的生起は、後続する現実的諸生起のなかに内在するが、その逆は成立しない。この意味での、不可逆的な『内在』の関係こそ、ホワイトヘッドによって『因果的客体化(causal objectification)』ないし『継承(inheritance)の関係』と呼ばれたものに外ならない。 この関係は単純化して言えば、『過去は現在のうちに内在するが、未来は現在のうちに内在しない』という過去と未来の非対称性を表す命題によって要約されよう。それは、過去の既定性と未来の『開け』が現在の自己限定によって媒介されることをしめす命題である。未来が過去と同じように現在に内在している世界には、本質的に新しいことは何ひとつ起きないと言ってよいであろう。それは可能性ということが意味を失う閉ざされた決定論的世界である。継承の関係は、関係項の一方(現在の現実的生起)に対しては内的であり、他方(過去の現実的生起)に対しては外的でなければならない。我々は既に決定した過去を、現在我々のなす決断によって変えることはできない。われわれがなし得るのは、既に決定済みの過去を客体として内に含むところの現在の形を自ら決定して行くことだけである。これは『覆水盆に返らず』のごとき格言や熱力学の第二法則のような自然法則に現れる不可逆性よりも更に根源的な不可逆性である。仮に、覆水が盆に返り、老人が若返るというような奇跡が生じたとしても、それが奇跡として了解されるためには、盆の中の水がこぼれたという事実、若返った人が曾ては老人であったという事実が、取り消し不可能な形で厳然と存続していなければならないからである。また、仮に私にこれまで影響した過去の出来事の一切とそのできごとの一切を支配する法則に関して、私が神のごとく全知であったとしても、私が、私の未来を自由に決定したり予知したりすることは決してできないだろう。私の未来は、私とは独立の他者の自己決定によって影響され得るものであるが、その影響がいかなるものであるかを、現在、具体的に予知することは、原理的に私を越える事柄だからである。 米国のプロセス神学者は、ホワイトヘッド自身というよりは寧ろハーツホーンの影響のもとに、このような因果的客体化のもつ不可逆性ないし非対称性を指摘することによって、華厳仏教や西田哲学に顕著な可逆的ないし対称的な相即相入の論理が非現実的であると批判する傾向があった。これに反して、京都学派の側からは縁起即空の論理の可逆性ないし対称性をより根源的なものとして強調することが多かったように思われる。 例えば、武内義範の(英文による)西田哲学の解説には次のような箇所がある。 ベルグソンや、最近では米国の哲学者のチャールズ・ハーツホーンは、過去のすべての出来事が形而上学的な記憶のなかに貯蔵されていると考えている。西田はこの問題をさらに根源的に考えぬいたように思われる。過去の出来事だけではなく、未来の出来事もまたすべてが永遠の現在の内にある。(10) これに対して、スティーブ・オディンは、上の文を引用した後で、次のような西田哲学批判を展開している。 西田によって措定された因果関係の対称的理論においては、関係が関係項の両側において閉ざされ決定しているために、かかる体系においては、創造性、新しさ、自由のはいりこむ余地が事実上なくなってしまう。西田はここでは重要な問題点を捕らえ損なっており、内在的な矛盾があるにもかかわらず曖昧模糊としたかたちで、全面的な相即相入という相互関係の概念と、創造性および自由な自己決定の概念とを結合させている。(11)
もし西田が未来の出来事が具体的な姿で永遠の現在の内にあると言ったのであれば、オディンの批判は正当化されよう。実際には、西田自身は決定論者が言うような意味で、未来と過去が現在に対して対称的な関係にあるなどという不条理をのべたことは一度もないので、このような批判は不当な単純化に立脚するものといわなければなるまい。西田が永遠の現在と呼んだものは、神秘的な直観でもなければ、時間を捨象する決定論を意味するものでもなく、まさに時間的な関係が可能であるための条件そのものを指しているのである。 時間を単に流れ去るものと見て、その流れの不可逆性をあたかも公理のごとく主張するのは一面的である。一瞬の過去にも戻ることはできないということは事実であるが、そのように主張するとき、ある意味においては、既にそのような過去が直接に現前していなければならない。我々に直接に現前するものが現在の記憶心象のみであるとするならば、そのような心象が『過去の記憶』であるということがどうしてわかるであろうか。。予見できぬ未来があるという時には、すでにそのような未来のあることを予見していなければならない。ホワイトヘッド自身もまた、かれの後継者たちとは違って、このような過去と未来が現在において実在性を有することがいかにして可能かという哲学的問題を、『延長連続体(the extensive continuum)』に関する彼の議論の中で展開している。ホワイトヘッドが『内在』について語るとき、それは決して現実的生起の間の不可逆的な『継承』関係に限定された意味のみを考えていた訳ではない。このような非対称的な因果関係を成立させる可能根拠として、時間的順序に全く依存せずに、『あらゆる現実的存在は、他のすべての現実的存在の内にある』という形で明言された対称的な(回互的な)『相互内在』の関係が、有機体の哲学のもっとも基底的なレベルで成立している。 ホワイトヘッドの言う『延長連続体』とは何であろうか。 この概念は無限の分割可能性と限界なき拡がりを意味している。非存在は決して境界にはならないから、事物のかなたには常に事物がある。この延長連続体は『世界の全過程を通じてのあらゆる可能な立場の相依性(the solidarity of all possible standpoints throughout the whole process of the world)』を表現している(PR66)。あらゆる現実的存在はこの連続体の諸規定にしたがって関係づけられる。未来における可能な現実存在もまた既に現実化した世界との関連においてこれらの諸規定を例証しなければならない。未来の実在性は、この連続体の実在性と結び付いている。現実的諸存在の生滅の場所にほかならない、この延長連続体のはたす形而上学的な役割について、ホワイトヘッドは次のように言う。 あらゆる現実的存在は他の現実的存在との関係において、延長連続体のどこかに有り、この立場によって与えられる与件から生起する。しかし、別な意味においては、それは延長連続体の至るところに有る;なぜならその現実的存在の構成は現実世界の客体化を包含することによって、連続体を包含するからである。そして、その現実的存在の可能な自己客体化は、延長連続体がその相依性を表現している実在的な諸可能性に寄与する。こうして、延長連続体はそれぞれの現実的存在のうちにあり、それぞれの現実的存在は延長連続体に浸透している。(PR67) プラトンのテイマイオスに登場する受容者(chora=receptacle)を念頭に置きつつ考察されたホワイトヘッドの場所論(延長の理論)は、《過程と実在》の第二部第二章と第四部の全体で主題的に論じられ、第三部の『抱握の理論』とともに、有機体の哲学の礎石ともいうべき重要な箇所である。延長連続体は単なる時空連続体とは区別される意味をもっており、次元や計量を捨象した『場所論的(topoーlogical=位相的)』関係、ないし延長的接続(extensive connection)の関係によって記述される。それは現実性の創造的前進がそこにおいて生起する場所であり、あらゆる現実的存在の生成に伴うが、それ自身は生成しない生成の母体としての『受容者』である。このような生滅の場所がホワイトヘッドによって『実在的可能性の第一の限定』と呼ばれ、現実的な生起のあいだに成立する秩序の最初の限定とされていたことに注意すべきだろう。その最初の秩序こそ、あらゆる現実的生起が、時間的な順序とは無関係に非因果的に成立する相互内在にほかならず、そのような相互内在による限定をうけるものこそ、無限に開かれた場所としての『延長連続体』にほかならない。 有限な現実的存在があるということ、そのことが、無限な延長連続体が実在することを意味している。有限性と無限性との対照は、あらゆる存在が数知れぬ視点からの展望を随伴し、各々の視点からの展望がその存在の有限の特徴を表現する、という基本的な形而上学的な真理から生じるのである。 ジョージ・ノボーは、『延長と相依性に関するホワイトヘッドの形而上学』(12) (1986)において、ホワイトヘッドが究極の超越論的述語(the category of the ultimate)と考えた『創造性(creativity)』と等根源的かつ相補的な述語として『延長連続体』を捕らえ直し、現実的存在の過程がそこにおいて生起する場所(receptacle)と見るべきことを提案している。これは極めて興味深い解釈であり、それを受け入れるならば、『場所の哲学』としての有機体の哲学と西田哲学とのさらなる対話の基礎になるであろう。もちろん、このように『場所』を『創造性』と相補的な超越論的な述語とみなすことは、ホワイトヘッドの形而上学の解釈としての妥当性をめぐって様々な反論を受けるかもしれない。しかし、テキストの解釈とは、単に過去の体系を反復し、その忠実な再演に停まることはできず、その体系が指向している事態そのものを見据えて常に新しい創造的要素を含むべきことを自覚しなければなるまい。ホワイトヘッド哲学と西田哲学との対話の作業は、私の信じるところでは、本来的に無限に開かれたそれぞれの哲学体系の創造的な自己変革を促す新しい地平を与えるであろう。 もっとも、『延長連続体』は、それが『延長』であり『連続体』であるという規定をもつ限り、西田哲学で言うところの『有の場所』として捕らえるのが適切であり、場所の論理において重要な意味をもつ『無の場所』にまで徹底しているとは考えられないという批判も成り立つであろう。確かに、延長連続体を時空において生起する有限の現実的存在の間に成り立つ『実在的可能性の最初の限定』として捕らえている文脈においては、『延長連続体』は、ホワイトヘッドの体系の中では創造性と等根源的な究極の実在を表す根源語ではなく、寧ろ『純粋な可能性の無制約的な自覚(realization)』にほかならぬ『神の原初的本性』に派生する範疇である。しかしホワイトヘッドは延長連続体の『底に超越』して『絶対無の場所』の深みに徹底するという形で彼の哲学を展開しなかったという趣旨の批判をするとすれば、それは決して正当なものとは思われない。その理由は、ホワイトヘッドの哲学では、神自身が(原初的本性によって)『現実化されていない諸々の純粋な可能性』を根拠づける場所であるとともに、(結果的本性によって)一つの現実的存在でもあるという二重の性格をもっているからである。そして延長連続体も二つの本性によって特徴づけられた神もともに究極の場所ではない。 神と世界とをともに『対照的対立 (contrasted opposites)』として包含する『普遍の普遍(the universal of universals)』は、ホワイトヘッド哲学においては『創造性』と呼ばれ、これが西田の場所の論理でいう『絶対無の場所』の役割を担ったことに着目しなければならない。『神』と他の有限の現実性の根底にある『純粋な活動』の起こる場所、そこにおいては『神ですら一つの偶有性(PR7)』であり、『原初的な被造的事実(PR31)』に過ぎない場所は、それが『絶対無の場所』と呼ばれることはなくとも、ホワイトヘッドによって明らかに自覚されており、彼が神を語るのはまさにこの場所においてである。 このような『絶対無の場所』における創造性こそ、有相の神(一つの現実的存在として捕らえられた神)の根底が同時に我々自身の根底でもあり、神のうちに我々自身が、我々のうちに神自身が、逆対応的に内在することを可能ならしめる。そして、かかる相依性の関係こそ、神と世界とが共に一つの歴史的生成の過程にあることを強調する『プロセス神学』の根拠にほかならない。
文献
NW: 西田幾多郎全集(岩波書店) PR: Process
and Reality (Corrected Edition) Alfred North Whitehead CN:The Concept of Nature :Cambridge University Press(1964) 《自然という概念》藤川吉実訳:ホワイトヘッド著作集第四巻 AI:Adventures of Ideas : Free Press (1961) 《観念の冒険》山本誠作・菱木政晴訳:ホワイトヘッド著作集第一二巻
(1)米国宗教学会での上田閑照の講演は、禅文化研究所紀要第一七号(pp.91-154,一九九一年)に収録されている。 Shizuteru Ueda “Experience and Language in the Thinking of Kitaro Nishida" 上田閑照『純粋経験と自覚と場所』(同紀要 二五一−二六六頁) (2)高橋里美『意識現象の事実と其意味(西田氏著『善の研究を讀む)』 《全體の立場》岩波書店(1969)に再録(三九三ー四三二頁) (3)NW -299 :『高橋(里美)文学士の拙著《善の研究》に對する批評に答ふ』 (4)John Cobb Jr. 《Beyond Dialogue: Toward a Mutual Transformation of Christianity and Buddhism》 Fortress Press (1982) p.146. 邦訳: ジョン・カブ著(延原時行訳)《対話を越えて》二五六頁) (5)ニコラウス・クザーヌス、《知ある無知》(岩崎允胤、大出哲訳)創文社(1987)(九七−一〇二頁) (6)Lewis S.Ford, 《The Emergence of Whitehead's Metaphysics 1925-1929)》 State University of New York Press (1984) (7)Hee-Jin Kim 《D gen Kigen--Mystical Realist》 The University of Arizona Press(1975) (8)櫻井秀雄監修・加藤宗厚編、《正法眼蔵要語索引》上下二巻(名著普及会)修訂版(一九八七) (9)D.J.Kalupahana,《Nagarjuna:The Philospophy of the Middle Way》 State University of New York Press (1986) (10)Yoshinori Takeuchi,“The Philosophy of Nishida" in Japanese Religion 3, p.21. (11)Steve Odin ,《Process Metaphysics and Hua-Yen Buddhism》 State University of New York Press (1982) p.80. (12)Jorge Luis Nobo 《Whitehead's Metaphysics of Extension and solidarity》 State University of New York Press (1986)
補注:この論文は、1993年に米国ボストン大学で開催された国際会議
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