研究 こぼれ話 2013/7/25

 「新聞を読んで」『東京新聞』 (2009年7月〜2010年6月まで 月1回日曜版掲載)
「映画の中のマス・メディア」@(『上智大学通信』1997/4/18第237号p.3)
「映画の中のマス・メディア」A 未発表
「夜明け前」(ゼミニュース掲載分ほか)1994年〜
 書 評

 


「新聞を読んで」『東京新聞』 (2009年7月〜2010年6月まで)

掲載年月日 見 出 し
2009/7/19 ニュース決定への4要素 こちら  
2009/08/16 伝えられるべき「点と線」 こちら
2009/09/13 教育は国家百年の計 こちら
2009/10/11 新聞週間に改めて思う こちら  
2009/11/08 問われる報道の理念 こちら
2009/12/06 新聞は時代の証言者に こちら
2010/01/03 読者を育てる紙面つくり こちら
2010/01/31 政治家は矜持を持って こちら
2010/02/28 世界との付き合い方 こちら
2010/03/28 国際化と92兆円の行方 こちら
2010/04/25 迷走政権に監視の目を こちら
2010/05/23 仕分けは誰のために こちら
2010/06/20 25年後の日本思う こちら

無事終わりました。








映画の中のマス・メディア @    

 
少し前になるが、ひと月に30本近くのビデオを見たことがある。「遅れてきたカウチポテト族」などと自称し、世のレンタルビデオ事情を垣間見る経験をした。
 その映画も映画館に足を運んで見る機会がぐっと減ったが、フランスのリミュエール兄弟のシネマトグラフから百年以上の歴史をもつ映画は、ずいぶん世の流れを、とりわけ映画というマス・メディアがメディアをどう取り扱っているかを眺めると、案外おもしろい発見がある。

 代表的なのは「大統領の陰謀」(1976年)。ダスティ・ホフマン、ロバート・レッドフォードが記者役を演じ、ウォーターゲート事件という実話の再現に求めた結果、映画としては地味だったかも知れないが、秀作だ。〃ディープスロート〃は誰だったのか? 事実を残すためにはトイレットペーパーにさえメモをとることを教えてくれる。
 「ネットワーク」(1976年)や「チャイナ・シンドローム」(1979年)、「ブロードキャスト・ニュース」(1987年)は放送局を舞台にテレビ・メディアをめぐる業界内幕もの。主役がテレビマン、アンカーマン、プロデューサーである。不正を暴くために、あるいは視聴率をあげるために彼らは何をするのか。

  最近では、バットマンのマイケル・キートンがタブロイド紙『サン』の社会部長を演じた「ザ・ペーパー」(1995年)、やらせのテレビ番組作り、言い換えれば〃テレビもウソをつく〃ことを描いたロバート・レッドフォード監督の「クイズ・ショウ」(1994年)が話題となった。
 
 ところで、メディアそのものを扱った映画も舞台は新聞社から一時期はラジオ局、そして現代はテレビ局からさらに広がった。例えば「インターネット」(1996年)。サンドラ・ブロック演じるソフトウェアのバグ(欠陥)を見付ける主人公が、知人から送られて一枚のフロッピーがきっかけで政府の機密情報を盗む一味に追いかけられる。彼女自身の個人情報も改ざんされ、別人に仕立て上げられ、誰もがディスプレーに出てきた情報を信じてしまう……。と言うよりそれを疑うことさえしようとしない、と読み取れる。逆に「今そこにある危機」(1994年)では、H・フォード演じるCIA副長官がコンピュータへ侵入して、自分に知らされない情報を入手し、真実を掴みとる(「今そこにある危機」、1994年)。
 
 で、よく考えると、かつてスーパーマンのようなヒーローが演じた職業も、周知のとおり新聞記者。そう、デーリープラネット社だった。それが現代はテレビ局勤務。三大ネットの花形キャスターやプロデューサーという肩書きをもつ主人公というシナリオが多い。 名作『ローマの休日』(1953年)のグレゴリー・ペック、『慕情』(1955年)のウィリアム・ホールデンが演じたのも新聞記者。『ペリカン文書』(1993年)では、ジュリア・ロバーツ扮する女子学生がコンピュータを使い、情報公開法を武器に政府文書を手にいれるシーンが記憶に残るが、いま人気のあるデンゼル・ワシントンが頼もしい記者として、彼女を助け、権力に挑む。

  思えば、悪を憎み、正義を貫く人々が映画のラストシーンで証拠を握って駆け込む場所は、かつて決まって新聞社だった。それがいつの頃から、証拠のビデオやフロッピーをもっていくところがテレビ局となり、コンピュータが使える場所に変わった。その移り変わりを考えてみると、我々は何をしなければならないのだろうか。 

                          (『上智大学通信』1997/4/18第237号p.3)


「新聞ジャーナリズム再考」 『物流ニッポン』1998年10月30日号、p.16.
「インターネットとプライバシー」  『家庭の友』99年4月号、pp.18-19.
「豪州最古の新聞 シドニー・ガゼット 本学図書館に所蔵」 『上智大学通信』292号(2003/6/15)掲載
「我が国初期の新聞紙 本学図書館に所蔵」  『上智大学通信』293号(2003/7/15)掲載

映画の中のマス・メディア A 


書 評 

新保満・田村紀雄・白水繁彦『カナダの日本語新聞』 (PMC出版) 
三輪公忠(編)『オセアニ島嶼国と大国』 (彩流社)
藤川隆男『オーストラリア 歴史の旅』 (朝日選書)
福井逸治『新聞記事作法』 (三一書房、1994年)
The Encyclopedia of the British Press 1422-1992 (学鐙、1994年1月号掲載)
Benjamine C. Bradlee
A Good of Life: Newspapering and other Adventures
(学鐙、1996年5月号掲載)
J.ブレイニー『オーストラリア歴史物語』 (明石書店、2000年) 図書新聞 2000年11月
芝田 正夫 『新聞の社会史―イギリス初期新聞史研究』 (晃洋書房、2000年)
石弘光『大学はどこへ行く』  『週刊読書人』2002年5月3日号掲載 (講談社新書、2002年)
竹内洋『大学という病』  じゅあ No26(2002/3) 掲載 (中央公論社、2001年)
マスコミ回顧2005 週刊読書人 2005年12月23日号所収
朝日新聞社(編)『新聞なんていらない?』 図書新聞 2006年1月1日号所収
「多メディア時代のなかで ジャーナリズムについて考えるための良書 週刊読書人 2006年4月28日号所収
2006年マスコミ関係書回顧 週刊読書人 2006年12月22日号所収
2007年マスコミ回顧 週刊読書人 2007年12月28日号所収
書評 海外の日本語メディア(田村紀雄) 週刊読書人 2008年4月25日号所収
書評「新聞と戦争」 週刊読書人 2008年11月21号所収
2008年マスコミ回顧 週刊読書人 2008年12月26日号所収
書評 新聞再生 畑仲哲雄(平凡社新書) 週刊読書人 2009年4月3日号所収
2009年マスコミ回顧 週刊読書人 2009年12月25日号所収
 書評『ペンの自由を貫いて』小笠原信之 週刊読書人 2009年3月5日号所収
書評「新聞と『昭和』 週刊読書人2010/10/29
書評『ペンの自由を貫いて』小笠原信之  週刊読書人2010/ 3/5
 2010年マスコミ関係書回顧 週刊読書人2010/12/24 
書評 李相哲『朝鮮における日本人経営新聞の歴史』 『満州における日本人経営新聞の歴史』 メディア展望 2011/03/01 no.590
 2011年マスコミ関係書回顧  週刊読書人2011/12/23
 書評・河北新報社『再び、立ち上がる!』   週刊読書人12/05/04
2012年マスコミ関係書回顧    週刊読書人12/12/21


 新保満・田村紀雄・白水繁彦『カナダの日本語新聞』(PMC出版)

 日系新聞に限らず、移住・移民の地で新聞が発行されることは珍しくはない。エスニック・プレスの歴史は、ある国における、ある民族(人種)の定住への過程を社会的産物である新聞という形で示したものと言える。移住史や現代史のみならず、多元化や同化といった人種・エスニック関係の研究にも、プレスは欠かせぬ考察対象となる。
 本書は著者らがかつて刊行した『米国初期の日本語新聞』(勁草書房、一九八六年)のカナダ版にあたるもので、カナダにおける日系新聞と日系社会との関連を社会史としてとらえ、歴史社会学的に解明することを目的とする。それは「民族移動の社会史」という副題からもうかがえる。

 さて、カナダ最初の日本語新聞は、一八九七年鏑木五郎が創刊した『晩香坡週報』(のち『加奈太新報』と改題、日刊)が嚆矢である。まだ日系社会が一千人にも満たない時代だった。ところが、飯田道左は『新報』の同化志向と袂を分かち、一九〇七年『大陸日報』を創刊。二紙の競争は『日報』に軍配があがった。換言すれば、一九一〇年代は日系人の間に同化志向と反同化志向のイデオロギー的対立がそこにあった。
 一九二〇、三〇年代は『新報』の後を受けた『加奈陀日々新聞』、『日報』そして『民衆』の三紙があったが、ここまでが一世世代の邦字紙で、三二年には日系二世向けの英字紙『ニュー・エージ』、三八年に『ニューカナディアン』が登場している。

 言うまでもなく、新聞は社会的産物であり、自然現象から発生した事物ではない。新聞学における「新聞」とは、環境の変化に敏速に反応して民衆に行動の指針を与えることによって、何らかの形で日常の生活に必要な「精神的糧」を付与するものであろう。
 その意味で、本書でとりあげる日系紙とそれにかかわった日本人の変遷は、日系社会の歴史そのものを語っている。日系労働運動と『労働週報』、その創刊者鈴木悦と田村俊子を丁寧に追っている(第三章、四章)のも、カナダ日系社会のひとつの特徴がそこに表れているからだろう。
 さらに戦前、戦後を生き残った『日報』と『ニュー・カナディアン』でも、社会の中でだいぶ異なる意味合いをもった日系紙であることを教えてくれる。『日報』は戦時中停刊していたが、戦後『大陸時報』と改題して、再刊され一九八三年まで続く。一方の『ニュー・カナディアン』はカナダ政府の告知紙として戦中も発行を続けた。この二紙の軌跡をたどるだけでも、戦中、戦後のカナダ日系社会が置かれた立場を理解できる(第六章「戦時中の日系社会と新聞、第七章「戦後の日系社会と言論」)。

 八月初め、米国で五十年以上にわたり日系紙『ユタ日報』を発行し続けた寺沢国子さんが亡くなった。おそらく同紙は廃刊せざるをえないだろう。著者が言うように、カナダ日系紙は全体として減退し、ローカル・ニュースに活路を見出だすしかなくなるのだろうか。カナダにおいて「日本人の子孫ほど、〃生物的同化〃が信仰した民族は少ない」とすれば、典型的なコミュニティ新聞から戦中、戦後のホスト社会にある差別との戦いと権利擁護の役割を終えようとする今日、そして東京からの大メディアの進出という流れの中で、カナダ日系紙はどう生き抜くのであろうか。

 最後に若干付け加えておきたいことがある。本書は研究書を意識したのか、注釈を各章末に掲載している。それはそれで有用なのだが、引用文献などはその度に参考文献頁を見なければならないのはどうかと思うし、注ももっと整理したほうが分かりやすいだろう。また最終章「カナダのエスニック・プレス概観」は、もう少し日系プレスとの関係、さらには文化多元主義社会カナダの放送メディアとの関係を論じたうえで、最初の方にもってきた方がよっかたのではないかと思う。
(『週刊読書人』1900号、1991年9月16日号、6頁)



          三輪公忠(編)『オセアニ島嶼国と大国』(彩流社)

 大平元首相が提唱した「環太平洋平連帯構想」から十年余り。日本の国際化が叫ばれるなかで、このところ政府開発援助(ODA)の在り方が問われている。オセアニアの超大国であるオーストラリアへの日本人観光客が五年前に比べて二〇〇%増になっても、今年が羊年であっても、オセアニアという地域は決して日本人にとって身近なところではないのだろうかとよく思う。

 それはニュースの伝わり形でも容易に分かる。例えば昨年十一月に発生した季節外れの台風二十八号が「ミクロネシア連邦も襲って大被害を受け、緊急援助を要請」(『読売新聞』一九九〇年十二月十六日付)といった報道が恒例である。異常なニュースしか伝えられない。世界情報がリアルタイムで茶の間に報じられる一方で、こうした情報格差は縮まるどころか、広がる一方ではないかと懸念する。ワシントンやロンドンに何人もの特派員を派遣しているものの、この地域をカバーする日本のマス・メディアは六社六人(全体の一%)しかいない。広大な領域を各社一人、そして大国の通信社からの情報に頼っている。
 ちなみに過去五年間に出版された書籍の情報検索(NIPS)を使って調べてみると、第一位はむろんアメリカの一、四〇七点、以下は三分の一近く減って中国四二五点、フランス四二〇点と続く。オセアニアを検索しても十二点、十年前にさかのぼっても十九点だから一年に二冊程度。オーストラリアは五年間で九十一点、ニュージーランドは二点しか検索にかからない。ミクロネシアは六点だが旅行所の類が四冊、他の関連語でも一、二点程度である。これだけでも、いかに同地域の情報が少ないか容易に理解できるだろう。
 そうした地域を研究対象にとりあげたばかりか、学際的な研究書として発刊されたのが本書である。第一に編者の努力と先見性を評価したい。

 さて、本書の表題「オセアニア島嶼国と大国」を見て、読者は一体何を連想するだろうか。戦前生まれの方はオセアニアというよりも南洋諸島という名称がピンと来るかも知れない。若者はオーストラリア、ニュージーランドあるいはリゾート地を思い浮かべるだろう。かつて森村桂著『天国に一番近い島』(一九七八年)で一躍知られるようになったニューカレドニアにも、いまや日本人観光客が多く訪れる。「真っ黒(マックロ)ネシア」の広告コピーが流行ったのはいつだったろうか。直行便が飛び交い、相撲力士になる人もいれば、移住する日本人もでてくる。
 それでも、オーストラリア人でさえ「バヌアツと西サモアの区別はほとんどつかず、南太平洋の島嶼国はほぼ一括してステレオ・タイプのイメージで受容されている」(十章、竹田)くらいであるから、この三つの地域  ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの区別ができる者はそう多くないだろう。

 本書では広大な太平洋地域における「マイクロ・ステート(微小国家)」である島嶼国、具体的には赤道の南に位置するフィジー、キリバス、ナウル、ソロモン諸島、トンガ、ツバル、バヌアツ、西サモアの八独立主権国家とクック諸島などの自治領や海外領土、そして北にあるミクロネシアやマーシャル、パラウなどの共和国が含まれる。しかし、考察対象として「小なりといえども、独立主権国家として、直接『大国」の交渉相手となっている地域内の『大国』」を中心としているのは、そこには「あきらかにいわゆる『北の大国』を主たる行動主体とする国際政治とは一味違った地域内政治が展開する素地がある」(七頁)と期待しているからである。 彼らは英・米・仏そして「幻影」といわれながらも確たる存在のソ連といった大国と対峙(じ)しなければならない宿命を負っている。先述したとおり、オセアニア島嶼国はおそらく国際的な情報の流れの中で、限りなくゼロに近いほど、恒常的に報道される機会が少ない地域のひとつであろう。それはある意味で十八世紀以来、日本を含めて先進諸国の覇権主義の草刈り場となった事実を物語っている。
 いやそれ以前から、例えばマゼランに代表される大航海時代のスペインとポルトガル、キャプテン・クックやラペルーズが行った帝国主義時代におけるイギリス、フランス、ドイツ、そして米西戦争以降のアメリカ、第一次大戦後の日本、さらに今日ではオーストラリアやニュージランドの域内大国の援助政策でさえ、「覇権行動」のひとつと見なされるのである。

 本書は国際社会における主権国家という法的機能を備えてはいるものの国家としての経済的脆弱性ゆえに、島嶼国が抱える今日的諸問題  安全保障をはじめとして経済援助、環境破壊、地域政策、内的発展など に焦点を当てて論じている。編者の一人である三輪公忠・本学教授が国際関係研究所長在職当時に参画した二年間にわたる共同研究をまとめた成果でもある。フィジーの南太平洋大学と本学の国際関係スタッフを含め内外の研究者が執筆した十二本の論文は、幅広いパースペクティヴのもとにまとめられている。

 簡単に構成を紹介しておこう。一章から三章までは包括的な問題を例示している。すなわち、R・クロコム南太平洋大学名誉教授は政治・経済・文化や資源のみならず、エスニシティや環境問題、汚職そして情報操作の脅威をとりあげ(一章)、ウェンタボ・ニーミア南太平洋大学講師が地域主義の性格について論じている(二章)。もう一人の編者で開発途上国問題を専門とする西野照太郎はカリブ海と太平洋地域における国際機構を比較検討しながら、日本の立場の反省を促している。カリブ地域との比較はやはり今井圭子・本学助教授が域内経済協力の進展過程を考察する手法に取り入れている(十章)。
 ヘンリー・フライ研究員が「近代以前における日本の南太平洋観」(六章)で述べているように、南洋そして南太平洋という名称が一般化したのは志賀重 が一八八六年海軍練習船筑波で同地域の探検、その結果を記して翌年『南洋時事』という書物を出版してからであることはよく知られる。フライはこれを二世紀半さかのぼり、古地図を分析しつつ日本(人)の南太平洋観の認識過程を考察しているのは大変興味深い。
 援助政策については、江戸淳子・杏林大学講師が域外の日本から、また竹田いさみ・独協大学助教授が域内のオーストラリアの地域政策を中心に分析と考察をそれぞれ行っている(七、八章)。江戸は、島嶼国が独立して十年から二十年近く経て西側諸国一辺倒の関係から脱却、自主外交の芽を開きつつあることを認め、その新しい外交基軸は、イデオロギーではなく経済的メリットであると断言する。援助ソースの多元化が外交関係の多元化の起因でもあるから、もはやも場当たり的でない、非援助国側の視点に立った援助政策の構築をの必要性を解いている。一方、竹田は南太平洋地域という利益圏に対する伝統的政策アプローチから変貌を遂げようとするオーストラリアの新たなる地域主義政策の主たる要因、展開を分かり易く述べている。
 第八章では杉山肇・八千代商科大学教授がフランスから独立したニューカレドニアの行方を追った。

 評者が最も関心をもったのは、ロニー・アレキサンダーが論じた「核問題と平和」と題する第十一章である。南太平洋非核地帯条約をほとんどが批准しているこの地域が実は世界で最初の原爆を落とした爆撃機が飛び立ったところである事実は、その後の運命を暗示したかの如くであった。世界的な環境破壊問題にあまり積極的でないとみられがちの日本が、核廃棄物を投棄しようとして非難を浴びたことは記憶に新しい。また論者が付記しているように、ヨーロッパの緊張緩和が太平洋地域にまで影響を及ぼす日が遠いとすれば、非核三原則を掲げる日本の外交・同地域への援助政策の在り方は今後注目されるに違いない。 既に高い評価を得ている『内発的発展論』(一九八九年)の著者である鶴見和子・本学名誉教授はバヌアツを舞台に、内発的発展の可能性、すなわち「小国どうしが協力しあって、大国の秩序を変えてゆく、『集団的自助努力』」をひとつの柱にあげて本書を締め括っている(十一章)。

 かつて、ゴーギャンの愛したタヒチや南太平洋も新しい時代の大波に揺られている。援助政策を含めて、日本もその揺らぎの責任の一端を担っていることを自覚しなければならない時期に来ている。(肩書は出版時のもの)

( 『ソフィア』 No.158 1991 夏号/pp.288-90))




      藤川隆男 『オーストラリア 歴史の旅』(朝日選書407、1990年) 

 本書の「南半球のおおいなる〃実験場〃で繰り広げられた数々のドラマ−−。」という帯は実に適格にその内容をとらえているのではないか。 著者自ら、失われた歴史空間への旅人が乗るシリウス号の水先案内人と称して、未知の南の大陸(テラ・アウストラリス・インコングニタ)に十日間の旅に出る。
 シリウス号と聞いて、A・フィリップ総督が率いてこの大陸にやってきた第一次船隊の旗艦とピンと来た読者は、オーストラリア史に精通した者である。その由緒ある船を引き合いに出して、オーストラリア史を導く案内書としたのは、著者の発案であろう。いいアイデアである。

やや皮肉っぽく聞こえるかも知れないが、現実には七日にも満たない短期旅行客が大部分である日本人の悪名高いパックツアーで学ぶ事実より、はるかに多くオーストラリア社会の歴史を教えてくれる。そしてどちらかと言えば、歴史的事実を踏まえたうえで著者が語る内容は、例えばカンガルーやウサギを通じて環境問題を、ドマインの機能と存在を解説しながら民主主義の在り方を、換言すれば我々が今日取り巻く最も大切な問題に目を向けさせようとしている。著者の言葉を借りれば、それはシリウス号の航海人となった読者の「想像力の翼と知性の飛翔」に期待しているのではないか。もしかすると、それが筆者の狙いなのだろうと、勝手に思ったりする。
 十日間の旅で語られる「ドラマ」の幾つかは既に他所で数多く語られた内容と重複するところも少なくないが、旅にしばしの休息は必要だ。

 しかし、とくに本書で評価したいのは、「カンガルーの大虐殺」「スポーツ共和国」「ドマイン」への旅である。これまでになかったオーストラリア社会の斬新な考察となっている。
 いまはコアラにお株を奪われた感のするカンガルーだが、オーストラリアのイメージキャラクターの代表だし、国旗にも輝いている動物だ。そのカンガルーと、二日目のアボリジニに対する入植者の仕打ちと対比させるかのような「もうひとつの侵略」は、大増殖したウサギをとおして「羊の背に乗った国」の裏面の歴史を見事に描いている。 また、日本でも最近はオーストラリアン・フットボールやクリケットが紹介されるようになったとはいえ、オーストラリアの社会生活の中でスポーツが占める意味合いを教えてくれるのが、第六日目の旅「スポーツ共和国」だ。

 七日目の「女王陛下の国」やステーキやベジマイト、ワインといった特色ある食生活を描いた部分はややエッセー風に趣を変えたのか、目移りの忙しい散漫な旅になっている。どうせなら、国歌や国籍の問題なども触れて欲しい。 話が逸れるようで恐縮だが、「八対一一三」「一三六対二、二五四」という数字の意味がお分かりになるだろうか。前者はオーストラリアの首都がキャンベラと答えられた人の数値で、解答者の一割に満たない―その意味で、十日目の旅「キャンベラ」は貴重である。後者は出版情報検索(NIPS)から引き出した、この十年間に刊行されたオーストラリアとアメリカ関係との書籍点数の対比である。オーストラリア関係の書籍はアメリカのそれの十分の一程度しか発行されていない事実が、そこに歴然と浮かび上がっている。そして、その多くが旅行ガイドや紀行文で占められることも付け加えて置かなければならないだろう。
 
 そうしたなかで、研究学術書ではないにしても、それに近い水準で「楽しみながらオーストラリアのことをより広く知り、より深く知ってもらうこと」であれば、読者はひと味違ったオーストラリアの旅に満足することができるだろう。(すずき・ゆうが氏=上智大学助教授・新聞学専攻) 「建国の神話」「最後のタスマニア人」「もうひとつの侵略」「カンガルーの大虐殺」「白豪主義」「スポーツ共和国」「女王陛下の国」「今日もステーキ明日もステーキ」「ドマイン」「キャンベラへの旅」と十日間、オーストラリアの歴史の旅は続く。


                    
福井逸治『新聞記事作法』(三一書房、1994年)

原点にある「達意」 ジャーナリストに求められるもの

 久し振りに新聞文章と新聞記者としての取材や、記事作成の心構えを述べている本を読ませていただいたという読後感が残る一書である。

 著者の経歴を紹介すれば、ある程度内容の推測が可能だろう。福井逸治氏は一九六四年に毎日新聞社に入社、和歌山支局、大阪本社社会部記者、文化事業部長、学芸部編集委員、特別報道部長を経て、現在、紙面審査委員副委員長兼大阪本社調査審議室長である。 本書は『新聞記事作法』と題されてはいるものの、大別すれば、次のような構成である。すなわち、著者のジャーナリズム観が明白に示されている「皇太子妃内定で『知る権利』に奉仕しなかったマスコミ」、「『言論の自由』は戦後も揺れている」が導入にあたる。以下三分の二は、紙面化された記事を例証しながらの新聞記事文章論であるが、同時にジャーナリストとしてのを心得を説いている。

 著者がいうよい記事文章の条件とは、@正確、A平明簡潔、B達意。よい取材記者には@自主独立の言論人、A優れた読み手、B記者活動が好きでなければならないとする。ここに、実はジャーナリズム活動の原点が潜んでいる。
 平明簡潔とはわかりやすく短い文。その「わかりやすい」を、読み手に「優しい」文そしてその「やさしさ」とは一般読者に対する愛情と責任感から生まれるものと説く。そして、「伝えるべきことを十分に分かってもらえる」ことが、著者がよき記事文章の三番目にあげた「達意」であるが、それはそのままジャーナリズム活動の原点を言い表している。

 ここから評者は、著者に好感を抱く。かつて「関東防空大演習を嗤ふ」で信濃毎日新聞を追われた桐生悠々(一八七三−一九四二)は、「言ひたいこと事と言はねばならない事」の中で、言わねばならないことの重大さ、それには苦痛と犠牲が伴うもの、と述べている(『他山の石』)。 言うまでもなく、ジャーナリズム機能は(マス)コミュニケーションの一機能ではあるものの、現代社会においてかつてジャーナリストに求められた木鐸(ぼくたく)意識は薄れ、メディアの多様化により言論活動における影響性は相対的に衰退しつつある。「言論機関ではなく報道機関」と豪語するテレビ局があまねく日本をネットワーク化している時代だ。記者がサラリーマン化し過ぎているともいわれる。

 そうした批判や論評は数多く耳にする。しばしば、船の見張り水夫の役割がジャーナリズム活動に例えられるように、監視だけでなく危険への警告という機能は、まさに著者のいう「伝えるべきこと」に集約されるだろうし、それは読者(国民)に「十分わかってもらえる」ものでなければならない。
 したがって、「記事の信頼性」と「記事表現」(以上第五章」が重要であるとともに、それは当然のことながら「論理性」(第四章)が高いものでなければならないことを、現場作業のなかから具体的な事例を拾い上げ、分かりやすく解説している。名文家と呼ばれた記者の文章を思い浮かべれば、納得するだろう。
 そうした中で、虚報、誤報という落とし穴、根拠と表現のバランス、未確認情報の表現など、知ったら書くかなどは、たとえスクープや大見だしのニュースでなくとも、日常の記者活動の苦労と大切さを教えてくれる。

 では、なぜ人々はコミュニケートし合うのか、なぜジャーナリズム活動をするのだろうか。
 誤解を恐れずに言えば、コミュニケーションの本質は愛の精神であり、他者へのいたわりであり、人々の痛みを分かち合うことではないだろうか。そのような心をもってジャーナリズム活動を行うことが、いまジャーナリストに求められている時代だと思う。(『週刊読書人』No.2032 p.6)





Dennis Griffiths ed. The Encyclopedia of the British Press 1422-1992  Macmillan, 1992.
            
 本書は「百科事典」と標題されているが、ひとことで言えば、英国新聞界に関わった人々の人名事典である。レファレンス・ブックの中で、辞典にたいして俗にコトテンと呼ばれる事典を百科・主題百科・専門と分ければ、三番目に分類される書であろう。従って、タイトルから想像される内容は多少異なる。    

 もう少し説明すると、英国に印刷機械を持ち込みウェストミンスターで印刷業を始めたW・カクストンから一昨年謎の死を遂げたメディア・バロン、R・マクスウェルまで三千項目、A−Zの形でジャーナリストやプレス経営者らの伝記 (biography )と全国、地方紙などの解説が主な内容である。専門家にとっては英国で有名な『英国人名事典』(Dictionary of National Biography)のジャーナリズム版、あるいはタフトが著した『現代アメリカジャーナリスト人名事典』(William H.Taft, Encyclopedia of Twentieth-Century Journalists , NY: Garland Publishing,1986)の英国版と言ったほうが分かりやすいかも知れない。

  実はこの書評を頼まれる以前にも本書に出会っている。一昨年サバティカルリーブでロンドンにいた時、フリーストリートにある印刷図書館に置いてあった出版案内を見て、本書を注文していたのである。この種の本は希少でしかも是非とも手元に置いておくべきものと思ったからだ。
 本書の有効活用が測れる日は思ったより早くやって来た。今回の書評本に推薦されたこともそうだが、先日、英国新聞界の名門『テレグラフ』(一八五五年の創刊直後、ペニープレスとなり、大衆紙の先駆けとなった新聞)を買収獲得して新しいメディア・モガルに成長しそうなカナダ人、コンラッド・ブラックと同紙について書かなければならなくなったからである。とくに『テレグラフ』紙の歴史についてまた項目末についている、人物の伝記や社史などの関係参考文献は大いに役立った。いわゆる書誌的機能も本書には備わっている。利便性が高いと評価してよい。

 さて、日本では人名事典・辞典の類は比較的多く出されている。ところが、外国人しかも洋書となると、図書館で紳士録・人事興信的な、各国のWho's who ぐらいはあるにしても、そこから先にいく手づるとなると、ハタと困ってしまった経験をもつ人は少なくないだろう。
 両者に共通していることは、総覧的なものはあるにしても、特定の分野となると、極端に限られる。分野別、テーマ別が増えてはいるが、とくに歴史のなかで残る政治家や学者などと異なり、舞台に踊る役者を助ける、言わば「黒子」的存在であるジャーナリストがそうした光栄に浴する機会は少ない。点としての日々の報道では活躍し歴史の傍観者ではあっても、線をつなぐ存在にはなりにくい。外国メディアとなれば、一部の著名者を除けば「線」とするための軌跡を追うことさえ難しい。
 ジャーナリズム専攻の学生でも、『ザ・タイムズ』の創刊者がウォルター一世であることを知らない者が少なくない。仮に知ってはいても、その後継者や「ザ・サンダラー」と呼ばれるように同紙の名声を高めた編集者T・バーンズや現在の所有主であるルパート・マードックについても、なかなか知る術(すべ)をもたない。専門科目の「外国ジャーナリズム」をとれば別だが…。

 そういうこともあって、毎年三年生のわがゼミ論では、「内外を問わずジャーナリストを一人とりあげ、その業績を調べ、人物を描け」という伝記レポ―トを課している。そして、従来余り論じられていないジャーナリストやメディア経営者に焦点を当てよ、と付け加える。こうした書物からの文献探索入門の大切さを教え込もうというのが、この課題の狙いのひとつでもある。
 というのは、大学でジャーナリストを目指す現代の若者に欠如している「歴史感覚に最近とくに危機感を感じているからである。重複してしまうが、日々の出来事を報道する役割を負うジャーナリズムは、どうしても一過性に陥りやすいところがある。業(なりわいとしているジャーナリストは作家ではないから、著作物とモノを残す者は少ない ひとつ、例をあげよう。

 先日、ある新聞社のメディア欄担当者から新聞の売却劇についてインタビューを受けた際、「マードックとは誰?」と聞かれたのにはビックリした。本書が手元にあれば随分違うのではないか。「灯台、下暮らしで、著名な人物は誰でも知っていても、成長著しいマス・メディア関係者を把握している書物は、邦語でも少ない。明治期の新聞人を解説した西田長寿『明治新聞雑誌関係者略伝』(みすず書房、一九八五)を除いて、人名名鑑の類や簡単な現代マスコミ人物事典のようなものはあるにしても、きちんと考証されたものは余り見当たらない。 

 最後に、特筆しておくことがある。それは六〇頁近くにわたり、英国新聞界の歴史が概説されていることそして年表や各種新聞団体通信社、関係機関の紹介が数頁ずつコンパクトになされていることである。またこの一世紀近くフリートストリートの代表紙の編集責任者、女性編集長などの一覧を掲げている点も、資料的価値が十分にあると言える。
 (この書評は丸善『學鐙』94年1月号に掲載されたものを一部修正した)



 

 ジェフリー・ブレイニー 加藤めぐみ・鎌田真弓(訳)『オーストラリア歴史物語』(明石書店、2000年)

 本書はオーストラリアの著名な歴史家、ジェフリー・ブレイニー氏が、オーストラリアの歴史観を簡潔に語ったものである。ブレイニーと言えば、八〇年代半ばアジア人の移民制限を唱え、「物議を醸す」歴史家との印象があるかも知れない。しかし、彼の代表作『距離の暴虐』(邦訳、サイマル出版会)からも読み取れるように、実はオーストラリアの歴史の再構築を目指す勇気ある歴史家の一人とも評される。

 今年はミレニアムのシドニー・オリンピックが開かれ、いわゆる「オーストラリアもの」が多く出版されてはいるが、竹田いさみ・獨協大学教授『物語 オーストラリアの歴史』(中公新書)などとは対極的な位置付けにある書かもしれない。とは言うものの、日本人はどれだけオーストラリアのことを知っているのだろうか。ハワイを抜いてハネムーン先のトップに踊り出たこともあったし、オーストラリアからみれば輸入国の第一位、観光客とともに、ワーキングホリデー制度により多くの日本人若者が訪れるにしても、である。いわば、経済貿易上においては相互に重要な位置にあっても、普段着のオーストラリア、そしてその歴史を知る機会はあまり多くない。

 本書は消えゆくアボリジニ世界、植民地から連邦へ、誘導する大陸と三部の構成をとっている。マニング・クラークの『オーストラリアの歴史』(邦訳、サイマル出版会)がある意味で正統派の通史とすれば、こちらは人物や事件の周辺を詳述する社会文化史とも言える。
 おそらく、オーストラリアの歴史は人と自然のあいだでの苦悩の歴史でもあった。とくに最初の百年はそうであった。したがって、全十七章は先住民と渡来人、ゴールドラッシュのように、他書でも触れられる一般的な項目がある一方、スポーツヒーロー(第九章)や「無限の未来」の幻想(第一三章)といった、これまでに見逃された側面、時代を描いているところが特徴である。
 オーストラリアで最も人気のある政治家といわれるR・G・メンジーズは多くの書物に登場するが、彼の政治面以外の、いわば人間味を感じられる叙述があるのも貴重だ(第一五章「栄光の光と影」)。そして技術面を重視した社会史を描くのもブレイニーの歴史観を明確に表している。

 さて、洪水のようなシドニー・オリンピック報道のなか、授業で聞いたところ、日本の若者に最もインパクトを与えたひとつに、開会式のパフォーマンスや陸上女子四百メートルで金メダルを獲得したキャシー・フリーマンにみられた先住民族アボリジニの存在をあげた。意外と知られていなかったとも思えたが、現実はそうであろう。それでもスポーツ、音楽や踊りといったパフォーマンスに関心をもつ若者も少なくないし、近年では日本国内でもプロモーションのイベントが増えてきた。
 もともと、オーストラリアはプロスポーツを重視した国で、競馬やクリケット、ボクシング、ボート、ゴルフ、テニスなどが盛んである。メルボルン・カップの歴史は古く、シドニーで毎年開かれるテニス・トーナメントはいまでは世界各国へ放送されている。一九世紀にもしテレビとメディアがもう少し発達していたなら、オーストラリアのスポーツヒーローは世界の目を引きつけたかも知れないと思わせるほどだ。

 オーストラリアが植民地から脱却して英連邦の一員として成立する二〇世紀に入り、二つの大戦を経験して、ナショナリズムは勢いづくものの、世界そしてアジアと真正面に向かい合わなければならない現実選択に迫られたのも事実である。
 その流れの中で、首相経験と官僚がオーストラリア生まれでなく、また育ちもオーストラリアでない、イギリス出身者が目立ち始めたという、「あたかも時代に逆行しているようでもある」との著者の指摘は重要な示唆を含むだろう。母国イギリスとの絆は庶民が思ったほど強く、堅固ではないと分かるときが訪れる。
 オーストラリア史上、直接の軍事対決の舞台に登場するのが日本軍である(第一四章「日本からの大津波」)。それはまたオーストラリアがイギリスから離れアメリカを向くときでもあった。日本軍侵攻の事実はオーストラリアでは「常識」として伝えられ、日本ではそうではなかったのはなぜか、といつも考えさせられる。

 戦後移民の最初の波は相変わらずヨーロッパ人であっても、白豪主義の解体以降からの急速なアジア化は、何も多文化主義政策のみならず、アボリジニ復権、カウンターカルチャーにも強い影響を与えたのではないか。
 著者は連邦結成時における初代首相のE・バートンの演説を引用しつつ、「この魅力的な結合は、一世紀にわたって生きながらえた。二世紀にわたって存続するかどうかは、確かでない。人類の歴史の流れの中では、永続する政治的境界はない」と締めくくっている。
 オーストラリア人のアイデンティー模索の旅は果てしなく続く。 (『図書新聞』2000年11月号掲載)





   芝田 正夫 『新聞の社会史―イギリス初期新聞史研究』(晃洋書房、2000年)

 本書は九章構成で、十六世紀から十九世紀までのイギリスにおける新聞の発展史を描いた研究書である。題目から推察されるように社会や法制度と関連しながら、新聞がその出現から広く社会生活のなかで果たしてきた役割を明確にしようと試みている。

 著者の基本的な問題意識は、従来の視点―新聞と政府の対立抗争から「言論の自由を求める英雄的な戦い」(はじめに)であったという見方―を保ちつつも、実は新聞産業の経済的な自立が政府からの独立を導いたという、ある意味で反証を試みようとすることから始まったと思われる。加えて、新聞のみならず定期性をもった逐次刊行物としての雑誌出版も視野にいれ、さらに流通や普及・発行部数(とくに第八章)、読書施設、新聞読者、広告などの研究も必要と考えた(第六、八章)。以上のようなスタンスをもって本書を執筆したという。
 
 最終の九章に「イギリス新聞史研究の資料」を設け、イギリス新聞史年表(一四七六―一九〇〇年)や各章の詳細な注釈から、学生や研究者を対象に編纂されたものであるにしても、
初出から十年を経て完成した内容は、新鮮でかつ今後も重用される内容であることは間違いない。
 
 これらは、日本の新聞史研究における小野秀雄らの初期研究から、香内三郎、山本武利らへ発展した研究方法に近いものと考えられるし、アメリカでもE・エメリー著『プレス・アンド・アメリカ』にみられるように、決して新しい手法ではないかもしれない。軸を新聞(メディア)の発達におき、社会、経済、文化の発展と絡めながら論じ、新聞(メディア)の社会的役割の変遷を捉えることにより、(マス・)メディアの社会的役割、機能を検証するといった方法論である。
 
 わが国において小野と並び称される新聞学研究者である小山栄三は、新聞学における「新聞」とは、環境の変化に敏速に対応して民衆に行動の指針を与えることによって、何らかの形で日常の生活に必要な「精神的糧」を付与し、電信・印刷機などの技術的変革あるいは経営といった諸関連の内部的相互作用を内在しているものであると位置付けた(『新聞学原理』同文舘、一九六九)。そうした新聞が発生して成長する過程で、それ本来が内在している構造が外界、すなわち読者や社会、国家といった外的構造にどう作用するか(あるいはどう作用されるか)―社会的現実に関する情報の公示媒体としての新聞(送り手・メディア)が出現した意味合い、そしてその成長過程で政治的、社会的、経済的背景とどういうコンテクストにあるか、新聞が与える情報(ここではnewsの意)と受け手となる民衆(オーディエンス、audience)の行動を、検証、論述している。

 また長谷川如是閑は、新聞は社会意識の認識的表現手段であり、対立意識の表現機関である、と言っている。そしてある同心円的傾向を持つ群と、同じく同心円的傾向をもつ他の群との対立というところに、新聞発生の理由(動機)かつ存在理由があるとした(『新聞論』政治教育協会、一九四七)。
 さらに長谷川は「新聞は、自己の群生活と接触を保ってゐる、もしくは直接触れてゐないがそれに関心をもつべき理由のある、異種群の生活事実を、認識理解することをその『報道』の実益並に興味の中心とするのである。相互に接触もしくは交通を保ってゐる国家間に於いては、『新聞』とは、主として他国の情勢を報ずることである」(前掲書)と述べている。 

 近代イギリス社会の発展においても、長谷川の言う「同心円的傾向群」と、「他の群」との対立、他国の情勢を報じることが新聞の重要な役割のひとつであったことは容易に想像できよう。多少長くなったが、本書を読まれる方には、そうしたメディアの時代における役割をぜひ知ってもらいたいことである。

 次に、本書に触れつつ、イギリス新聞史について紹介しておく。  
 十六世紀初期からニュース刊行物が登場したイギリスでは「コラント」(currents of news)「ニューズブック」という形で定期性をもった「ニュース」というフォーマットを模索したが、ピューリタン革命期をとおして受難(言論統制、出版規制)を受ける。一六六〇年に始まる王政復古後、チャールズ二世が発行した『ロンドン・ガゼット』(創刊時は『オクスフォード・ガゼット』)や政党機関紙などが現れ、とりわけ特許検閲法(新聞紙法、一六六二年)や印紙税法(スタンプ・アクト、一七一二年)など、新聞の発行を規制する法律が施行される。前者が直接的な言論統制であるとすれば、後者は間接的統制の始まりであった。しかしながら、その合間を縫って、とくに地方紙やエッセーペーパーが興隆した事実を著者が検証している点が新鮮である(第五、六章)。

 というのも、イギリスで初の日刊紙といわれる『デイリー・クーラント』が創刊された一七〇二年以前に、とくに特許検閲法が廃止された一六九五年以後、多くの「独立紙」が登場していたからである。結果的に、それまで地方において特徴づけられた情報環境―少ないにせよ印刷メディアからと、バラッドや説教を主に情報源としていた二極構造―がロンドン一元化へ進み、さらに印刷出版人の競争激化は生き残り策として彼らの地方への脱出を促し、それが地方紙の発展につながったと論述している(第五章)。

 この特許検閲法が廃止された時、「イギリスに新聞の自由が到来した」(マッコレー、八三頁)という評価を引用しながらも、「法の廃止による変化は、とてもめざましいものではなかった」、「一六九五年以降の状況は、だれもが気に入ったものを出版する自由を得た代わりに、(出版のもたらす)結果も甘受しなければならなかった」(サザーランド、同)事実に注目し、いわばこの自由が「条件つき」であったと位置付けている。さらにこの時代の議会勢力を分析し、検閲が具体的に機能しなくなったことが廃止につながった。

 言い換えれば、法の実際的な効力について疑問をもつ議員が増えたという背景を示している。そうした事実から、著者は「特許検閲法の廃止は…(中略)…『出版の自由な全体的な確立の要求』(ブラック)から生まれたものでなく、印刷物の統制システムが論十分に機能しなくなり、それに変わるシステムをつくりだすためにとりあえず廃止されたと考えていいだろう」との結論を導き出し、「のちのスタンプ税もこうした動きのなかで捉えるべき」との見解を示している(八五頁)。

 いち早く出版という表現媒体を自らの考えを伝える媒体として見出したヨーロッパ、とくにイギリスやフランス(人権宣言、一七八八年)に見られるように、メディア規制が緩やかになると、多彩なメディアが溢れ(洪水の時代)、「言論・表現の自由」の履き違えが目に余る時期を迎える。 
すると、権力者(政府)は善意の庶民を味方につけてメディア規制に走る。凡そそれは権威者にとって都合の悪い言論を封じるためであるのだが、理由は公共の利益に沿うようなものでなければならない。最大の殺し文句は、「公共の安寧秩序の維持」と「風俗紊乱」。ほぼこの文言が出されると、誰もが、とくに一個人が真っ向から反対しにくくなる。今日的状況では「人権」がそれにあたるかもしれない。そこでは公共の利益や国益とは何かを十分に論じることなく、進みゆく流れができてしまう。まして、社会状況がそうであれば、なかなか国家や政府に反意を表明する手段を、一人ひとり持ちえることは難しいと言わざるを得ない。いわば権力の監視、チェックの機能をマス・メディア(新聞)が代わって果たす時代がやってきたのである。そうした機能の社会的表出を、総称してジャーナリズムの発生と呼んでもいいだろう。

 次に為政者が考え出したのは、印紙税に代表される諸税を課すことにより出版者に重いかせをはめることであった(第七章)。筆者は、その「知識に対する課税」がアメリカではペニープレスと呼ばれる大衆廉価紙の登場が十九世紀初頭であったにもかかわらず、イギリスでのそれが約半世紀遅れた最大の理由、と考える。十七世紀半ば以降、コーヒーハウスの登場で、庶民への情報の普及展開がみられたが、反面そこから表出する言論の矛先にあった権力者にとっては疎ましい存在となったのである。おそらく、それは世紀がかわろうと、誰が為政者になろうと、姿、形が変わろうと、法治国家という枠組みを維持するためにも、法をもってコントロールする社会は当分続く。従って、ジャーナリズムの権力監視機能は何も為政者のみならず、社会的に「権力」を保持する人物、機関、団体などなど、対象になるものは多い。

 やや皮肉な見方と言われるかも知れないが、この言論の自由をめぐる規制の歴史的過程を垣間見ると、こんにち有害情報規制を前面に押しだす「青少年社会環境対策基本法」や日弁連の「人権救済機関」設立をめぐる一連の動き、論理の組み立てもこれと変わることなく、今後の展開も少なからず推測できるのではないだろうか。
 換言すれば、「飴と鞭」。つまり、権力者が社会の人々に自由なメディア=言論の自由、表現の自由=を持ち与えることになれば、それは限りなく己を脅かす武器になりかねない。しかしながら、近代民主主義の根底をなす多様な意見を伝える手段をコントロールする法律の施行は少なからず抵抗を受ける。その結果、時に自由なメディアの所有を認め、時にたがを締める。それもより巧妙な方法を見出すのである。

 本書がとくに章をさいた新聞読者そして発行部数という呪縛に縛られ始めた近代的営利企業として新聞が離陸する前段階の考察であるにしても、それは間違いなく現代社会におけるメディアの役割や機能を論じるとき、我々が考えおかねばならない要素を数多く含んでいることを忘れてはならない。 (『学鐙』2000年3月号、48-51頁所収)