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非断熱遷移現象を利用した分子制御

   非断熱遷移は分子機能を呼び起こし、さらに、制御するための鍵となる現象と考えられる。 我々はこれまでに、一次元非断熱トンネル型交差二準位ポテンシャルをもつユニットを複数個並べたモデル系を取り上げ、この系に特徴的な現象である完全反射及び完全透過現象を利用した分子スイッチの可能性を —架空のモデルではあるが— 追求してきた。1-4 
その一方で、より現実的な系において、これらの特異な現象を積極的に利用した応用例の理論提案も行っている。ここでは、環状分子の環透過性に関する新たな提案5 を紹介しよう。 これは言わば、フラーレン(C60)やカーボンナノチューブ(CNT)による原子のカプセル化(つまり、内包フラーレンやナノピーポッド(peapod)の生成過程)のモデルである。註1 

   本提案の基礎となる「Zhu-Nakamura(朱-中村)理論」によれば 

の2つの条件が揃うと、「完全反射現象」及び「完全透過現象」が起こる可能性が高まる。 

   条件(1)については、電子移動反応が起こる系に見出すことができる。 それは、電子移動反応の遷移状態が擬交差で特徴づけられるからである。 電子移動前の電子状態は中性であるが、電子移動後はイオン性を示す。 イオン性の状態はクーロン引力が支配的であるため、ポテンシャルの傾きが正であるのに対し、中性状態はそれにくらべるとほぼ平坦で若干負の傾きをもつポテンシャルになっていることが多い。 そのため、電子移動反応では擬交差におけるポテンシャル曲線の傾きの符号が反対になる。 例えば以下のような系が条件(1)を満たす。 

(a)のシクロペンタジエニルラジカル(C5H5•)は有名な「5π系」である。 5π系はもう1つ電子を得ると、ヒュッケル則で安定な6(=4n+2)π共役系となる(シクロペンタジエニルアニオンは非常に安定である)。 そのため5π系は強い電気陰性度を示し、水素原子との間で容易に「Li + F2」の様な電子移動反応を起こすことが示唆される。 この発想に基づき、多環系に応用したのが(b)と(c)のモデルである。 ホウ素置換は中心に位置する環に5π系を構築するためである。註2 

   (a)-(c)の系において水素原子が環状分子を透過するような過程を選ぶと、ポテンシャル面が分子面に対して対称になり周期系を得ることができる可能性が高い、つまり条件(2)をも満たすことができる。 このように、(a)-(c)の系における水素原子の環透過に伴う完全反射及び完全透過現象が期待できる。 

   我々は上記の提案を理論的に実証するために,量子動力学に基づく理論研究を行った。 まず量子化学計算を行い、反応に関与する電子基底状態と励起状態に関するポテンシャルエネルギー面を決定した。 ここでは、まず、状態平均を取った多配置SCF(state-averaged multi-configuration self-consistent-field: SA-MC-SCF)計算を行って分子軌道(molecular orbital: MO)を決定し、次に、得られた分子軌道を基に多配置参照配置間相互作用(multi-reference configuration interaction: MRCI)計算を行い、電子基底状態及び励起状態のポテンシャルエネルギーを求めた。 この際に、非断熱計算を行う上で重要な透熱化表現も同時に求めている。 この様にして得られたポテンシャル曲面を基に、量子動力学計算と三次元量子波束計算を行い、水素原子が分子面を透過する確率を求めた。 

   上記の計算を行った結果、分子面に対して対称なポテンシャルが得られ、条件(1)、(2)を確かに満たしていることが分かった。 さらに、特に現実をほぼ模倣した三次元量子波束計算において、六員環モデルの場合で約40%程度の透過確率を見出すことに成功した。 図に、電子基底(S0)状態上の波束の動きを二次元座標(y=0に固定)で表したプロットを示す。




図. 電子基底(S0)状態上の波束の動き。 (上から時刻T=0, 17.7, 35.4, 53.1, 70.8 [fsec.]の波束。 x=0の位置にz軸に沿って分子面が存在する。 )



   本計算に要する計算コストに関して述べておくと、例えば(b)の系に対してCAS(8,8)、cc-pVDZ基底を適用した場合の典型的なCI行列の大きさは約六千万次元でありかなり大きいが、並列計算を行うことにより、効率よく計算を行うことができる (SGI社のAltix 3700において16CPUで並列化すると、1点の座標に対するポテンシャルエネルギーを約4時間で求めることができる)。 



参考文献


註1 ご存じのように、Krotoらがフラーレン(C60)を発見して以来、多くの研究者が中空フラーレンによる内包の可能性を模索してきた。 そして現在までに、例えば金属原子や希ガス、あるいは窒素分子などを内包したフラーレン等、幾つかの種類の内包フラーレンやナノチューブが合成されている。 しかしながら、単離の困難さや極端に低い収率等の問題があり、それがフラーレンによって得られる「新たな化学」への障害となっているように思われる。 一方、CNTによる水素吸蔵に関しては近年まで盛んに研究が行われていたが、2001年頃以降の論文報告・総説を見ると、水素吸蔵の実現性に否定的である。 炭素面への水素分子の吸着がvan der Waals力で記述されることは自明であり、それをいくらやっても無理なのは当然の結果であって、どうしてそれに躍起になるのか?と言っているように思われる。 つまり、確かにCNTは安定な「格納庫」ではあるが、その安定性が水素の内包に対して不利になっているように思われる。 そこで、我々はホウ素置換により活性化されたフラーレンやCNTの利用を提案している。 これまでに、そのモデルと言える芳香族化合物、ホウ素置換した「コランニュレン(C20H10)」(五員環モデル)及びホウ素置換した「コロネン(C24H12)」(六員環モデル)を用い、水素原子透過性を探った。5 水素分子の代わりに水素原子を用いる理由は、水素原子の方に反応活性があり、その電子状態において混合状態を作る可能性があるからである。 

註2 ホウ素置換されたフラーレンは、例えば1995年にSmalleyらによって報告されており、ホウ素置換には十分に実現性がある。 

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