ケアの哲学について、いろいろと思いつくことを語っていくコーナーです。リレー・エッセイなので、特に結論を出して自己完結してしまう必要もないでしょう。むしろ問題点を投げかけて、いろいろな意見をお持ちの方と緩くつながっていくことができればと思います。
さて、このあいだモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を、本人が指揮して初演したプラハのスタヴォフスケー劇場で聴く機会がありました。モーツァルトが『フィガロの結婚』などのオペラを発表したのは、カントが人間の人格の尊重を主張した主著を著したのとほぼおなじ頃の1780年代。啓蒙主義の時代ですね。ちなみに『ドン・ジョヴァンニ』の初演は1787年、カントの有名な『純粋理性批判第2版』の出版と同年です。
啓蒙精神に富んだモーツァルトのオペラには、たいてい貴族と平民とが出てきて、フィガロが伯爵をやっつけるように、封建主義的で横暴な貴族がやっつけられるという筋書きになっています。しかし今回気がついたのは、『ドン・ジョヴァンニ』のなかで、オペラ中いちばん大きな音量で、貴族も平民もみんな一致して合唱する場面があることでした。その歌詞は「自由ばんざい!」というのです。立場がちがっていても、平等でない人間たちのあいだでも、だれにとっても自由がいちばん大事なのだ、というメッセージがはっきり伝わってくるようでした。
人間はみな平等で、自由で、独立しているものだ、そうやって生きていけるようにすべきだ、そういう人間がちゃんとした人格をもった市民なのだ、というのが近代ヨーロッパの代表的な人間観だと言われています。もちろん実際にそんなけっこうな社会がヨーロッパにあったわけではありません。自由・平等・独立はあくまで理想的な目標で、現実の社会ではかならず差があったでしょう。今よりもずっと地位や身分や財産、能力などの差が大きくて、シーソーが傾いた人間関係がふつうだったでしょう。だからこそ、そのシーソーの傾きを平らに直していきたい、という努力が大事にされたわけですね。
これに対して、現代の経済社会では、人間の自由・平等・独立がもう世界中で達成されたかのような社会構造になっています。貧しくても富んでいても、支配者でも虐げられていても、都会でも田舎でも、ジュースは「平等に」100円ですし、電車賃も変わりません。これは一見すると、人間の人格をそれぞれ「独立に」尊重しているからであり、人格の「自由な」意志を尊重しているからで、りっぱな人格者ばかりになった、シーソーの傾きがなくなったけっこうな社会が実現されているように思えます。
しかしこれは理想と現実のはき違えでしょう。モーツァルトやカントの時代でなくとも、現代であっても、一月必死に働いて数万円しかもらえない人と、意味不明な年俸が数億円という会社役員がいるのですから、封建主義ではなくなっても、人間関係のシーソーはあいかわらず傾いているのです。そうして、おそらくどんな社会になっても、シーソーが傾いていないなどということはありえないのではないでしょうか。
ケアというと「思いやり」とか「配慮」というような、心情や心理に近いことのように言われることも多いのですが、わたしにはそうは思えません。自由・平等・独立な人間関係、社会関係がシーソーの傾きがないひとつの理想的関係だとすれば、人間関係のシーソーが現実にはいつでも傾いていること、その傾きに気づいていることが、まさにケアということではないかと思うのです。そしてケアの問題を取りあげるということは、人間や社会での差別や不平等に代表されるような傾きが、特殊な例外的状況なのではなく、いつの世の中にも、どんな世界にもつねにあることであり、シーソーの傾きのない関係は理想的なものでしかないという観点から、さまざまなことを考えていくことだと思います。
さてそうすると、(話が一足飛びになってしまいますが)、とても大事な問題のひとつは、社会関係や人間関係が傾いているなら、それをどう直したらいいのかということになるでしょう。シーソーの傾きを直すことは、自由・平等・独立という人格の育成や、そうした人格の関係としての社会をめざすことになるのでしょうか。それとも自由・平等・独立とはちがった別の理想型があるのでしょうか。先にのべたように、自由・平等・独立は、これまでひとまとまりのものとして、近代のヨーロッパの人格概念の基礎、人権や福祉の基礎として扱われています。しかしすでにモーツァルトの時代に、ドン・ジョヴァンニも、レポレロも、ツェルリーナもいっしょになって叫んでいた「自由ばんざい!」は、「平等よりも自由!」というように聞こえました。だとすれば、自由・平等・独立という概念の組み合わせは、絶対のものではないとも言えます。
ケアという傾きへの「気づき」をもとにした場合には、もはや自由・平等・独立をひとまとまりとしては考えられない、すなわち近代社会を作ってきた諸概念の組み合わせを、もういちど解体して考えなければならないのではないか。そうして理想的な人間関係や社会関係のありかたを、あたらしく再構築していくしかないのではないか、と考えた次第です。