リレーエッセイ「ケアを語る」

3回   フェミニズム・当事者研究・哲学(1)   ケアをめぐって
池田 喬
(東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」特任研究員)

 今年の1月、「哲学カフェ@SOPHIA vol.4」のゲストとして、「ケアの哲学の未来を展望する〜フェミニズム・当事者研究・哲学」というタイトルでお話しさせていただきました。それが縁となり、このエッセイを書くことになりました。

 「『ケア』というと、『思いやり』とか『配慮』という、心情や心理に近いことのように言われることも多いのですが、わたしにはそう思えません。」このリレーエッセイの第一回で大橋容一郎先生はそう書いています。私もこれに同感です。この点を引き継ぎ、「哲学カフェ」での内容を踏まえながら、「ケアの哲学」について現在考えていることを記したいと思います。

1.
 私の専門は、現代ドイツの哲学者であるM・ハイデガーです。存在論、現象学、解釈学など、さまざまな文脈で有名なハイデガーですが、「ケアの哲学」においてもよく言及されます。というのも、彼は、人間の存在様式をずばり「気づかい(ゾルゲ)」という言葉で規定したからです。「気づかい」は「ケア」と英訳されており、そのため、〈ケアする存在〉として人間を捉えた哲学者として引き合いにだされます。そこでは、「ケア」は「大事にすること」という基本的な態度として考えられています。

 ここで気になるのは、やはり、ケアとは「思いやり」の心情のようなもの、というイメージです。たしかに、ハイデガーも、〈ケアする存在〉を「大事にする」という能動的な態度によって特徴付けています。しかしながら、彼の強調点は、〈ケアする存在〉には、この能動的側面と、「重荷」を負わされるという受動的側面の両面があるということでした。「被投的企投」といった言葉で知られている論点です。ハイデガーは、ケアを純粋な「思いやり」として捉えることは一面的であると示唆しています。

 私が、〈ケアする存在〉を「重荷」の面からもとらえるハイデガーの考え方の重要さを知ることになったのは、実は、フェミニズムのケア論を通じてでした。「ケアの哲学」において、ケアは医療施設の出来事に限られないものとして考えられることが多いですが、実際、世界中で行われている日常的なケアの多くは家庭で、それも大部分が女性たちによって担われているという事実があります。伝統的に、家庭におけるケア従事者は女性ということになっているわけですが、ここには「負担」をほとんど無条件に引き受けてきたという側面がたしかにあります。このことがフェミニズムでは強調されます。

 「負担」の側面を見落としては、家庭のケアの現状と問題を現実的に議論することはできないことはほとんど明らかです。しかしさらに問題なのは、「思いやり」の心情論が道徳的ニュアンスを帯び、母性本能論などに結びつく時、負担の面を負担として語ること自体が封じられてしまう、ということがあります。

 実際、フェミニズムにおいては、家庭のケアが「私的」な領域の事柄として、公では語るべきでないもの、語りづらいものであり続けてきたことが指摘されています。女性哲学者アーレントが描き出したことでよく知られるように、古代ギリシャにおいて、女性は、肉体によって生命の欲求に奉仕する労働者として奴隷と同じ存在として扱われていました。家の中では女性に世話をしてもらう男性たちが、外に出て立派にふるまうことを競い合う一方、当の女性たちは同じ男性と「公的」には自由を享受しておらず、また、彼女たちの日々の営みはあくまで「私的」なものとして語られずにいました。

 哲学の歴史のほとんどすべては男性哲学者によって占められています。だからなのでしょうか、人間(人格)というものが語られる時、肉体的必要に拘束されていないことと自立的な主体であることがセットで語られることは非常に多い。アリストテレスから、ロック、カントまで、この傾向は至るところに確認することができます。こうしてみると、「ケアの哲学」の重大さが見えてくるはずです。ここには、哲学が自らに隠してきた部分をまさに哲学しよう、語られなかったことをテーマにしよう、という側面があるからです。

 フェミニズムのケア論には、西洋哲学の歴史を見直す大胆な切り口があります。ところで、ハイデガーもまた、西洋哲学史の解体者として知られています。両者は、主流の哲学の盲点をあばくという方向性において共通する部分が多いと私は感じています。実際、最近、フェミニズム政治学者の岡野八代さんが、ハイデガーが人間の存在を第一に「住む」こととして、世界そのものを「家」として捉えたことを積極的に解釈していることを知りました。ハイデガーの「気づかい」が「大事にすること」という「思いやり」のニュアンスだけで受け取られていた時とは違う、新たな−−−−そして、真っ当な−−−−方向性が開かれていることに喜びを感じています。

 「思いやり」と「負担」の両面から現実的にケアを考えていきたい。というより、いずれかの側面をタブー視することで、現実の問題が生じているようにも見えます。負担の側面を公で問題にすることができずに、ほとんど無条件に引き受けてきた女性たちが立ち上がったことで、現代では、家庭での日常的ケアは不払い労働と見なされるようになりましたし、有償化され、文字通り「労働」となっている部分もあります。ケアの「負担」という側面が広く認識されてきているわけですが、しかし、「思いやり」や「愛」の側面がなくなるわけでもありません。だから、「労働」として割り切ることもむずかしい。そこで、「感情労働」が切実な問題になってくるのではないでしょうか。