「臨床哲学」の「臨床」を狭い意味でのベッド・サイドととれば、医療現場の哲学という意味になります。よくそうとられますが、「臨床哲学」の「臨床」には、医療現場も含む広い意味でのベッド・サイド、つまり社会で問題が生じている現場、という意味が込められています。「臨床哲学」とは、社会のさまざまな問題を、その問題が生じる現場に寄り添って考える哲学的営みのことです。問題が生じる現場では、よく苦しみが生じます。ですから、「臨床哲学」を苦しみの現場に寄り添う哲学と言い表す人もいます。それでもいいのですが、ぼくは、苦しみだけでなく、広くとまどいや違和感、驚きや憤りなども含めて考えていいと思っています。
「臨床哲学」という言葉は、20世紀の後半に、複数の人々によって使われるようになりましたが、それを一般に広めたのは、哲学者の鷲田清一さんです。鷲田さんは著書や講演を通じて「臨床哲学」を提唱するとともに、同僚の中岡成文さんとともに、大阪大学の大学院に「臨床哲学」という専攻分野を創設しました。1998年のことです。鷲田さんは、哲学という営みはもともと人々が生きる現場で始まったのに、それがいつのまにか生きる現場から断絶し、閉じられた研究分野になっていることに違和感を覚え、哲学をもとの場所に戻す試みとして「臨床哲学」を提唱しました。その理念に共感した人々がこの「臨床哲学」の試みに参加するようになりました。ぼくもその一人です。
しかし、問題が生じる現場が哲学の本来の場所であり、その現場に寄り添って考えることが本来の哲学であることはわかっていても、「言うは易く行うは難し」です。「臨床哲学」の試みに参加する人々は、試行錯誤を重ねて、それぞれの形の「臨床哲学」をつくってきました。そのさまざまな形の実践に共通しているのは、哲学の研究者は、問題の生じる現場に寄り添い、人々の声を聴きながら考えるだけではなく、現場に身を置く人々が対話しつつ考える場に哲学の研究者が参加し、あるときはその対話の進行を助ける人として、またあるときはもっぱら一人の対話者として、対話に参加する、ということです。それを実現するツールの一つが「哲学カフェ」です。「哲学カフェ」はもともと街角で開かれるものですが、医療、福祉、子育て、教育、町づくりなどさまざまな現場で開かれることによって、「臨床哲学」を促しています。(寺田)